シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 大唐西市博物館 視察31 胡服胡飾 (Xi'an 中国) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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彩绘戴帷帽骑马女 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 唐墓壁画調鶏戯犬図(複製) 乾陵懿徳太子墓出土 (唐時代の墓の壁画、鶏を手懐けながら犬と戯れる絵) 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 注)乾陵(けんりょう) コトバンクより 中国,陝西省乾県の梁山の山上にある唐の高宗と則天武后の陵墓。 唐の盛運絶頂のとき,則天武后が営建したもので,規模が壮大,選地 にも明確な特徴がみられる。陵墓の参道の両側に並ぶ石の飛竜馬,石 馬,石人,石牌,特に 60の蕃酋石像が有名で,西安の北方にある唐朝 十八陵のうち特に重要。 注)懿徳太子墓(いとくたいしはか) 懿徳太子,李重潤は唐中宗の長子であり,高宗の乾陵の南東にその墓 がある。墓は方形で,南北56.7m,東西55m,高さ17.92mをはかり,土闕 の南に石の獅子,石人,石の華表がたてられている。墓の内部は墓道, 前室および石槨のある後室よりなる。唐三彩の人馬の明器が多く発見さ れたほか,特に40幅をかぞえる壁画は重要である。壁画には墓道西壁の 闕楼の図や,馬球(ポロ)をうつ図,また男女の群像がある。李重潤は19 歳で罪を構えられて則天武后の命により杖殺されたがその後706年(神竜2) 中宗によって改葬された。 左が男性用、右が女性用の衣装 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 左が女性用、右が男性用衣装 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 視察32へつづく |