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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road

大唐西市博物館 視察34

唐代の宗教 その3

(Xi'an 中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

大唐西市博物館視察34



 宗教


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


唐・西市と信教・宗教(仏教・ゾロアスター・景教・キリスト教・マニ教)、宗教用具

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


釈迦摩尼
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

像の後ろのパネルの文字

左側:摩尼教
右側:祆教(ゾロアスター教)



摩尼   青石仏頭
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 注)摩尼教  出典:世界史の窓
  ササン朝で始まったマニ教が、7世紀末にソグド人などによって中国に伝わり、
  唐で摩尼教と言われた。 まにきょう。3世紀頃、ササン朝ペルシアに始まる
  マニ教が、ソグド人などを通じて唐に伝わり、摩尼教(または明教)と言われた。
  中国で摩尼教の信者となった多くはモンゴル人であった。

摩尼教の伝来
  694年、マニ教徒の教師(佛多誕)ミフル・オフルミドが、はじめて唐の宮廷を訪れ、則天武后と会見してマニ教の信仰を説いて布教が許された。マニ教の漢訳教典に、689年から705年の間しか使われなかった則天武后が作った則天文字が含まれているので、この時期にマニ教が伝わったことは間違いない。

 唐代には他に仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)、祆教(ゾロアスター教)、回教(イスラーム教)が伝えられており、その中ではマニ教の伝来は遅い方だった。摩尼教と言われ、バビロニア伝来の天文学や暦法の知識をもたらしたと言われている。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレットp.71>安禄山の乱 唐で安史の乱(755~763年)が起きると、唐朝は中央アジアのトルコ系遊牧民のウイグル人に援軍を要請した。唐を助け、反乱軍を鎮圧して762年に洛陽に入ったウイグルの可汗牟羽(ほうう)がマニ教に改宗して保護したので、マニ教は中国全土に広がり、摩尼教と言われるようになった。

 しかし、840年にウイグルがキルギスに敗れ、ウイグルの領土が高昌とその周辺地域に限られると、中国各地でウイグルに対する反感が吹き出し、マニ教寺院も破壊された。 摩尼教は845年の唐の武宗の会昌の廃仏の際に、仏教とともに禁止され、中国での布教はほぼ終わった。その後、難を逃れた一人の摩尼僧
によって福建の泉州に移り、一種の秘密結社のような組織として長期にわたって存続し、元代には民間の仏教信仰と混合して、白蓮教などのもとになる。

長安の摩尼教
 中国の唐代の768年には、長安に大雲光明寺という摩尼教の寺院が建設されている。しかし唐末の武宗の仏教弾圧(会昌の廃仏)の際、摩尼教も禁止された。三夷教と言われたうち、祆教(ゾロアスター教)・景教(ネストリウス派キリスト教)は中国では早く衰えたが、摩尼教は宋や元、明代まで信者が存在した。摩尼教徒はソグド人の間で用いられていた日月火水木金土の七曜を中国に伝えるなど、東西文化の交流に見るべきものがある。<石田幹之助『長安の春』東洋文庫 p.288>




石雕力士像(石を彫った仏龕と力士の像)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900




白石力士像
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

注)金剛力士(こんごうりきし、梵: वज्रपाणि、Vajrapāṇi[1])は、仏教の護法
  善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは「ヴァジュラパーニ」
  と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意
  味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体
  を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王
  (におう、二王)の名で親しまれている。


石雕力士像
三か国語開設

◆White Rock Statue of a Strong Man
The strong man is standing with a slight lean, his entire stance giving the impression of extreme anger, wearing a helmet and armor, his eyes are wide open; his right arm is slightly lifted and the left arm is on the waist, he seems to be clenching both his fists with vigorous power. Unfortunately, the face is damaged and hence his powerful expression hasn’t been preserved totally. Height (including the setting): 40cm Excavated from the site of the West Market

◆石雕力士像
站立的力士,头戴虎头冠,身穿盔甲,身微前倾,右臂弯曲,拳头紧握,双目圆瞪,张口怒吼,威风凛凛。左臂和双腿缺失,力士的威猛神情未能全然留下。通高(带底座):40厘米从西部市场的遗址出土

◆<日本語訳> 白玉彫刻の金剛力士像
 力強い金剛力士像は少し姿勢を傾けた状態で立っており、その姿勢は極端な怒りの印象を与え、兜と鎧を着て、彼の目は大きく開いています。右腕はわずかに持ち上げられ、左腕は腰にあり、両拳を力強く握り締めています。残念ながら、顔は損傷を受けているため、彼の強力な表情は完全には保存されていません。高さ(設置された台を含む):40cm、西市場の遺跡から出土

出典:国連UNESCO世界遺産 シルクロード 


<ミニ解説> ・白玉で作られた金剛力士像


出典:(百度百科)

 唐時代の作品で、大きさは台座を含めて40cmほど。西市遺跡から出土した力士の立像です。体は僅かに傾き、手甲を身につけ、頭には兜をかぶっています。

 両目は見開いて睨み付け、口は開いて怒りの表情となっています。右腕は僅かに上がり、左腕は腰に当てこぶしを握り、威風凜々(勇ましく勢いのある様、凜々しいさま)としています。顔の表情には力士としての猛々しい精神が十分に表現されていないのが残念です。

出典:大唐西市博物館(百度百科4)



白石力士像
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900



康敦墓志(687年) 長さ51cm、幅51cm、厚さ8cm
志題:大唐故处士安公康夫人墓志开序(大唐故処士公康夫人墓誌開序)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


視察35へつづく