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城峯神社と将門伝説

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2013年12月13日
 独立系メディア E−wave Tokyo

1  温故知新、秩父事件 関連地再訪
2  秩父事件激戦地、「半納の横道」再訪
3  城峯山と城峯神社参道
4  城峯神社と将門伝説

 参道を抜けると城峯神社がある。

 城峯神社は日本武尊が東征の折、山頂に大山祇命を祀ったのが始まりと伝えられている。明治維新まで、柚木氏邸内に社殿が設けられていたが、明治5年入間県のとき、現在の位置に遷宮され郷社に列せられた、そうだ。

 もし、この地域に城峯神社参道のブログに書いたチンケなキャンプ場がなければ、本当に霊験あらたかな深い山中に鎮座する1000年前、平安時代の神社といえる神社である。

 ところで社伝によれば、平安時代に反乱を起こした平将門(まさかど)とそ一党は、藤原の官軍に追われ、下総の国、今の千葉県に落ちのびたあと、秩父の山奥にある城峯山に城を築き、そこに立てこもったとされる。

 その後、官軍、藤原秀郷(ひでさと)が城峯山にあった城を包囲、激戦の末、将門とその一族はこの地で討ち死にしたという。

 そこで滅びた平将門と一族を鎮めるために、城峯神社がつくられたと言い伝えられている。

 もっぱら、史書によれば平将門は下総の国(現在の千葉県)で討ち死にしたとされており、将門自身が秩父のこの地まで来たかどうかは不明だ。しかし、平将門の一族や縁者が秩父の地まで落ちのび、追って来た藤原官軍に滅ぼされたという記録があるというから、あながち神社の創建にまつわる話はいい加減なものではないようだ。

 さらに以下のような伝説、秘話もある。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S50

 関八州を平定し、その後下総の野に敗れ、この山に城を築き、名を幡武山石間城と名付け、それまで石間ケ岳といっていたこの山に城ができると、里人も城峯山と呼ぶようになりました。

 そこで下野田(栃木県)の豪族、藤原秀郷が兵を引き連れ、今の吉田小学校の高台に陣を張り、にらみ合いになる。

 このころ、将門の愛妻、桔梗はときどき城を抜けて、いずれかに姿を消すのを知り、将門は桔梗が秀郷に内通したものと思い違い怒って桔梗を斬りすてました。

 無実の罪で斬られた桔梗の亡霊は落城後も消えず、秋の草花はかずかず咲くが、桔梗の花だけは今も見ることができません。

 「秋の七草うすむらさきの花の桔梗がなぜたりぬ城峯昔の物語」(秩父小唄)



城峯神社
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S50


城峯神社
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S50


城峯神社
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S6400

 城峯神社の社の前には、2匹(頭)の狛犬がいる。しかし、どう見ても、ワン、犬ではない。池田は当初、コン、狐ではないかと言ったが、後で調べて見たら狛犬は、日本武尊にちなむ 山犬型の狛犬ならぬ狛狼(オオカミ)だそうである。ひょっとしたら、大神との語呂合わせでオオカミとなったのでは? などと思いを巡らす。

 確かによく見ると、犬と言うより狼である! 狛狼はおそらく全国規模でもそれほど多くなく希有なものではないかと思う。


城峯神社の狛狼
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S6400

 どうも椋神社の狛犬が城峯神社のオオカミと似ているので調べて見ると、椋神社の狛犬もオオカミだった。以下のブログ参照。

※ブログ:秩父オオカミ巡り
http://komainu.net/chichibu1.htm

 秩父にはオオカミを狛犬としているところがたくさんあるようなので、次回は秩父のオオカミ巡りをしてみたい(笑い)。


椋神社境内
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


城峯神社の狛狼
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S6400

 一方、オオカミの石像の後ろに、下の写真にある猫の石像がひっそりと置かれていた。何と、誰がかけたのか、可愛らしいあぶちゃん(前掛け)をしているではないか。残念ながら、長い尻尾は途中で折れている。


城峯神社のおネコさま
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S50

 それにしても、オオカミはまだしも、ネコにとって秩父の山奥の山頂近くは、寒すぎて可哀想ではないか(笑い)。下は台座を含めた写真である。


城峯神社のおネコさま
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S6400

 このネコについて池田が調べたところ以下のブログに行き着いた。

目立たぬが特別の存在

 城峯神社へは反対側の尾根を下る。こちらは日当たりのよい雑木林となっている。神社の奥社から天狗岩を往復してから神社へ。伝説の「将門隠れ岩」はうっかりパスしてしまった。鳥居前は平坦な広場で、左手に神楽殿やキャンプ場がある。神社の狛犬は強面の三峰系狼だ。狛犬のそばにあるものと思っていた猫の石像だが、付近を探しても見当たらず少しとまどう。社殿に戻ってみると、その左手前に目立たぬように鎮座していた。思ったより小さく紫の前垂れをかけており、特別な存在のようである。

狛猫ではなく「お猫さま」
 この置き場所が何となくしっくりこない、しかし特別扱いのような猫の石像のルーツとは? この猫、もとは城峯神社の別当寺だった長伝寺(旧吉田村石間)にいらっしゃった。長伝寺には平将門の守り本尊の十一面観音が安置されていて、その眷属である「お猫さま」を貸し出していたという(養蚕地帯なのでやはり鼠除けか)。

 長伝寺の十一面観音は明治元年に光明寺(旧吉田村沢戸)の観音堂に移された。廃寺となったためなのか、明治2(1869)年には「お猫さま」も城峯神社に安置された。それが今に伝わる狛猫だということになる。どおりで、ほかの狛犬と比べて小ぶりだ。貸し出すために人が担ぎ上げて移動できる程度の重量にしたのだろう。当初から猫の石像はひとつだったから、神社にあるからといって狛猫ではない。往時のように「お猫さま」と呼ぶべきなのだ。

出典:山は猫
http://neko-yama.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html

 下は神楽殿。相当の時代物である。ぜひ、一度、池田の盟友でもある鵜澤久さんにこの舞台で能かお神楽をやってもらたいものだ。グーグルで検索していたら、この舞台で能が行われているところの写真もあった。


城峯神社のお神楽
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S50


左、池田こみち、右、観世流シテ方能楽師 鵜澤久氏 能楽堂の楽屋にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-1-26

 ところで、時代考証すれば、城峯神社に関わる藤原秀郷や平将門は、以下の紹介にあるように、平安時代中期に活躍した歴史的人物である。

 となれば、城峯神社やそれにまつわる伝説は1000年以上の歴史があり、建築物の規模や華麗さは別として、宇治の平等院や平泉の中尊寺などとともに、関東における歴史上きわめて希有な存在であるものと思える。 とりわけ埼玉県内にあって、重要な存在といえるものであろう。 

 その意味でも、安易に境内の隣にキャンプ場を設置したことは痛恨の極みと言わざるを得ない。

藤原 秀郷

 平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。

 もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒の家系も多い。

 秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。

 天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮二荒山神社で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。

平 将門

 平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。

 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。

出典:Wikipedia

平将門の乱

 10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,935年(承平5)以来,常陸西部に館をもつ一族の平国香,平貞盛,良兼,良正らと合戦を繰り返していたが,939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い,国守藤原維幾らを捕らえた。この直接の原因としては,将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説と,国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説とが,ともに《将門記》にみえる。

出典:コトバンク

 今回は行かなかったが、城峯神社近くには、将門の隠れ岩がある。まさに、平将門が追ってから逃れた場所なのだが、これが何と垂直に切り立った岩山の上にあり、下の看板にあるように、この隠れ岩への登頂は自己責任で! とある。



 実際、切り立った岩山を18mほどロッククライミングで登ったところに隠れ岩があるのだが、首の骨を折った青山としては、自重するしかない(笑い)。

 将門については、将門の首塚も有名だ。


東京都千代田区にある平将門の首塚
出典:Wikipedia

平将門の首塚

 東京都千代田区にある平将門の首塚。平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。

 伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。

 その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。

 築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。

 そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。

 結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

出典:Wikipedia


城峯神社からの風景
撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S6400


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S50

 城峯神社を後に、私たちは皆野にある宿泊施設に向かった。