日航機事故再解明の課題 2 青山貞一 Teiichi Aoyama *1,*2 池田こみち Komichi Ikeda *2 鷹取 敦 Atsushi Takatori *2 *1 東京都市大学名誉教授 *2 環境総合研究所(東京都目黒区) August 12, 2015 August 19, 2015 拡充 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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課題 1 課題 2 課題 3 課題 4 課題 5 第二章 1985年8月12日 日航機JAL123便 事故から御巣鷹の尾根までの無線連絡 事実1 日航機の機長は事故直後から東京管制区管制所(ACC、埼玉県所沢市) との無線によるやりとりで羽田空港に戻ることを希望していた。これについ ては無線連絡の中で何度も確認できる。 事実2 東京管制区管制所もそれを承知していた。これは無線連絡の中で何度も 確認できる。 事実3 日航機が大月あたりで急降下し5000-6000ft(2000m程度)まで下がり、し かも横田基地の西近くまでフライトしたとき、米軍横田基地(YOK)が日航 機に対して横田基地に着陸するか?と聞いており、かつ横田基地側は着 陸準備をしていたことが確認できる。 事実4 日航機は垂直尾翼の大半そして油圧制御装置を失ったにもかかわらず、 事故後のフライト経路を見ると、焼津上空からライトターン(右旋回)し、 羽田、横田など東京方面近くまで到達していた。すなわち、機長、副機長、 機関士等は前代未聞の大事故にもかかわらず、過去の経験から東京方 面まで自力で戻り、しかも大月あたりで急降下し5000-6000ftまで下げ 最終的に羽田は無理でも横田に着陸(胴体着陸であっても)する準備が 出来ていた可能性がある。 出典:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 出典:日本航空123便の高度変化、柳田邦男著 死角 巨大事故の現場(新潮社) http://matome.naver.jp/odai/2137658341727256101 疑問1 にもかかわらず、日航機は横田基地の西、大月東あたりからどうみても 自衛隊機のスクランブルにより誘導され、東京奥多摩→秩父→ 埼玉奥秩父→埼玉・山梨県境→群馬西部・長野県境を通りすぎ最終的 に御巣鷹の尾根に向かったのではないか。 疑問2 日航機は事故直後。無線通信でスコーク77(緊急遭難信号)を発した ものの、その後のスコーク77に関するやりとりは、墜落直前の自機の 現在位置がわからない ←リクエストポジションまで明示的に存在しない が、自衛隊機により御巣鷹の尾根に誘導された可能性は高い。 疑問3 その結果、事実1-事実4のように、横田基地近くまで到達し、高度も 下げ、また横田基地側も緊急着陸への対応をしていながら、自衛隊機 により御巣鷹の尾根に誘導された可能性は高い。 仮説1 理由として考えられるのは、日本政府が日航機のフライト実態を無視し 羽田はもとより周辺に市街地がある横田への緊急着陸は非常に危険 であると判断した可能性がある。 仮説2 もしくは、着陸後の米軍側の対応にも見られるように、せっかく米軍の C130機が無線通信で日航機のスコーク77を傍受し、現場近くに到達し、 またその後、米軍座間基地のUH-1ヘリが墜落現場に到着してロープ を下ろし救難活動に入ろうとした際、自衛隊側が米国側の探索、救援 活動を断ったことがある。すなわち、自衛隊側は秘密保持を含め日航 機の横田への緊急着陸や救護活動をよしとせず、自分たちすなわち 日本側ですべて対応しようとした可能性である。 仮説3 日航機が横田基地に着陸したら、市街地へのリスクはあるだろうが、 520人の多くが助かったのではないだろうか? 以下に仮説を図化した。 大月上空から急降下後、そのまま横田基地に着陸する仮説ルート 出典:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 ただし赤色の太線は筆者 奥多摩上空から横田基地までは上記の赤色ルートを取った場合でも約40km 出典:グールアースより筆者が作製 下の航空写真は1989年に撮影したもので、現在の横田基地周辺より遙かに田畑が残っていることが分かる。とはいえ、滑走路の西側、北側には沢山の民家が確認される。滑走路の距離は3300mあり、ボーイング747SR用に十分であり、緊急着陸時については、米軍基地であり消防、救急などの体制は十分対応可能と推察できる。 仮に胴体着陸やオーバーランなどの場合に供え、自治体と連携し地域住民には避難してもらう必要があることは言うまでも無い。もとより、一日単位の航空機の離発着については、桁外れの実績を持つ米国にあっては、民間、軍事を問わず航空機事故については日本よりも遙かにリスク管理がなされる可能性が高いと思われる。であればこそ、横田進入管制所は横田基地への着陸を承認したのではないだろうか。 1989年時点の横田基地(米軍飛行場) 横田基地周辺の空中写真。1989年撮影の16枚を合成作成。 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。 出典:Wikipedia 以下はグーグルマップの衛星写真で見た横田基地である。 グーグルマップの衛星写真で見た横田基地
上記のように、第二章のポイントは、機長が当初から一貫して東京の羽田に戻ることを東京管制などに伝えながら、途中から米軍横田基地方面に誘導され、さらに横田への着陸もかなわず、群馬県南西部の山岳地帯にある<御巣鷹の尾根>に墜落したことである。 日航機が相模湾上空で事故が発生した後、機長、副機長、機関士らが東京管制区管制所(ACC、埼玉県所沢市)、米軍横田基地(YOK)、日航羽田無線と連絡を取り続けるが、事故発生後、副操縦士が18:24分に、航空機の最高度の緊急信号であるスコーク77を発信する。
以下にスコーク77について概略説明する。
このスコーク発信は、他の航空機、とくに米軍機でも受信することが可能なため、日航機事故でも米軍C130の操縦士等もスコーク77という緊急コールを早期段階である18:30には受信していた。
事故当初、日航機が発信したスコーク77(航空機の最高度の緊急信号)により、日航機は航空自衛隊の戦闘機にスクランブルされることになるが、公式な記録にはどの時刻からスクランブル発進されたかについては公表されていない。 公表されているスクランブル発進は、以下のように日航機が墜落した5分後にF4EJ、2機が発進が発信していることになっている。
ボイスレコーダー、フライトレコーダーをもとにした筆者等の推定では、横田基地の西、大月東あたりから日航機がスクランブルにより行く先を誘導され、最終的に御巣鷹の尾根に向かったのではないとと思われる。 下の2枚の地図は、羽田空港を離陸した日本航空(JAL)機が、18時24分35秒に、相模湾上空で垂直尾翼を2/3を脱落させ、その後18時56分28秒に群馬県の御巣鷹の尾根に墜落するまでの軌跡を各種地図上に示したものである。 地図を見ると、日航機は駿河湾上空で事故を起こした後、しばらくの間、ライトターン(右旋回)し、富士山の北東にある山梨県大月市から東京都横田に向かう途中で進路を西北西に変更し、秩父から山梨県と埼玉県の県境を通過し、 群馬県上野村の御巣鷹の尾根に向かったことが分かる。 JAL123 日航機墜落の軌跡2(地形図) 出典:青山貞一、鷹取敦 参照:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 JAL123 日航機墜落の軌跡3(地図) 出典:青山貞一、鷹取敦 参照:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 以下は回収されたボイスレコーダーに記録された機長等の声とその位置、高さを一枚の地図としたものである。 http://matome.naver.jp/odai/2137658341727256101 機長らが東京管制などに当初から一貫して希望したのは羽田へ戻ることであり、その後、山梨県大月市から高度を落とし横田に向かう途中でも羽田へ戻ることを希望していた。またその後、横田管制が何度か横田基地が日航機の着陸体制をとったと機長に英語で伝えたが、日航機はせっかく横田近くまで行きながら、山梨県大月市から東京都横田に向かう途中で進路を西北西に変更し、秩父から山梨県と埼玉県の県境から群馬県上野村の御巣鷹の尾根に向かったのである。 日航機は事故後、機関士の助言などから高度を一貫して下げるべく副操縦士にも指示してきたが、実際に高度が下がりだしたのは、以下の図にあるように、大月を過ぎ横田近くの東京の奥多摩に向かった時からである。実際の高度はフライト・レコーダーから見ると、20000ft超あった高度は奥多摩近くでは5000ft超へと大きく降下していることが分かる。 この降下は東京管制なども日航機に指示していたものだが、機長にしてみれば、羽田、そして次善の策として横田に緊急着陸するために約25000ftから約6000ftへとあらゆる手段を用いて降下したものと推察される。にもかかわらず、その後、日航機は奥多摩から秩父、さらに奥秩父から山梨県との県境にある群馬県上野村の御巣鷹の尾根に向かい墜落することとなる。 これを下の高度変化の地図で見ると、着陸を想定し一旦6000ftに下げた高度をその後15000ft弱まで高度を上げていることが分かる。もちろん、奥多摩から奥秩そして父群馬県上野村へのルートは2000m級の山々たくさんあり、5000ft~6000ftでは山に衝突することになる。しかし、もし、機長が羽田もしくは横田に緊急着陸することを決断したなら、このような当然、ルートを山側に取るのではなく、高度の変更も不要であったはずである。 出典:日本航空123便の高度変化、柳田邦男著 死角 巨大事故の現場(新潮社) これにはいくつかの仮説がなりたつものと思える。 ひとつは、仮にスクランブル機による誘導がなく、機長が米軍横田基地への着陸を選択した場合でも、横田基地周辺には市街地があり、そこにジャンボジェット機を最悪墜落、少なくとも胴体着陸させるわけにはいかないことがある。 もうひとつの仮説は、日航機事故後、また墜落後のすべての主導権を日本側(防衛庁、自衛隊)側がとり米軍(横田基地)側にとられたくなかったことがあるのではないかと言うことである。 その結果、日航機をスクランブルする自衛隊機は日航機を群馬県上野村にある御巣鷹山方面に誘導したのではないかと推察される。おそらく現実には、両方の仮説のどちらかではなく両方を考え合わせた結果の選択であったのではないかと思える。 私達は、横田の目前に5000ft近くまで高度を下げることができたこと、また油圧制御装置が破壊されたにもかかわらず、機長、副機長、機関士の努力で焼津上空まで西に行った日航機を東京の横田基地近くまでフライトさせたことを考え合わせると、そして横田管制(YOK)の度重なる横田基地への緊急着陸を米軍側が承諾し、おそらく消防車、救急車などの準備もとっていたことを考えると、果たして御巣鷹の尾根への誘導が本当に最適であったのかどうかについて、大いに疑義をもつ。 以下は事故後、御巣鷹の尾根に墜落するまでの主としてボイスレコーダーの主要部分を時系列的に並べたものである。なお、ボイスレコーダーのほぼ全プロセスを確認するには以下の音声検証をご覧ください。 ◆日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 日航機事故では、機体の後部にあった油圧制御4装置が事故によりすべて破壊するものの、すぐに相模湾に落下、墜落することなく、その後32分間にわたって東京航空管制塔(埼玉県所沢市)、東京羽田航空管制、東京横田航空管制などと無線で連絡をとりながらフライトするとことになった。 ①18時24分の相模湾上空でのJAL123事故直後の日航機機長は 「ドーン」(機長は何かが爆発したと述べている)という大きな衝突音の7秒後に、スコーク77(航空機の最高度の緊急信号)の識別コードを送信している。しかし、東京航空管制(ACC)が日航機の緊急事態の通報を受けたのは、衝撃音の2分29秒後。東京管制の二次レーダーに日航機が緊急事態であることを示す信号がついたのはここからである。 その後、東京航空管制はどのような緊急事態かおきたのか日航機に聞いているが、日航機はそれに応答していない。これは、スコーク77の発信で、自衛隊機の指揮下に入っているために答えられなかったのではないかと推察されている。 一方、機長は墜落する2分前の18時54分20秒、「リクエストポジション」を発しているが、このリクエストポジションは、スクランブルされている民間機が使用できる 4.すなわち自機の現在位置がわからないを意味する。墜落2分前に自機の現在位置がわからないを発すること自体、非常に不可思議なことである。 ②機長は事故直後にスコーク77を発信した後、日航機JAL123便がトラブル状態にあることを宣言するとともに、伊豆半島上空ですぐさま羽田飛行場への帰還を要求する。これに対し東京管制区管制所(埼玉県所沢市)は、「了解、要求通り承認する」とすぐさま返答している。 ③東京管制は、ここで日航機JAL123便が緊急事態となっていることを確認し、次に「どのような緊急事態か?」と緊急の状態を知らせろと機長に告げる。しかし、機長はこれには答えていない。そして伊豆半島上級で機長は機関士からハイドロ(油圧制御装置)がすべて破損したことを告げられる。 ④機長は焼津上空で日航機の降下を試みる。東京管制はこのとき、名古屋飛行場(小牧)への着陸をするかと聞くが、機長は再度、羽田に戻ることを要求している。 焼津上空で日航機はほぼ真北に向けて航行する(下図参照)。この時点で機関士がボーイング747SRの破損箇所を確認する。場所は荷物の収納スペースであると分かる。 焼津上空から北上し、日航機が富士山の西にいる18時33分38秒~34分52秒にかけ、日本航空社内無線は、日航機をJAPAN AIR 123 JAPAN AIR TOKYO How do you read? と呼び出している。その後日航社内無線は、36分00秒に「羽田に戻ってこられますか」と聞いている。当初、機長は東京管制部に「羽田に戻りたい」と伝えていたから、日航社内無線にも「羽田に戻ります」と伝えるべきだった。機長は社内無線に対し「ふたたびコンタクトしますので、このままモニターしておいてください」と伝えるにとどめていることが分かる。 出典:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 これについて、日航機事故の真相について調査してきた池田氏は、スクランブルしている自衛隊機とのやりとりを日航社内無線に傍受させるためにしたのではないかと推察している。 ⑤日航機は富士山の真西で右折し富士山方面(東)に向かう。さらに山梨県大月の上空に向かう。大月ではさらに東、すなわち米軍横田基地方向に向かっている(下図参照)。この時点で東京管制はJAL123便以外のすべての航空機は134チェンネルで交信せよと伝え、さらに別途指示があるまで沈黙を維持するよう伝える。日航機は大月上空で一回転するとともに、高度を下げる。 ⑥大月で日航機が一回転したのは、この時点前では自衛隊機のスクランブルがなく、機長は横田に向かうためには、大月あたりで大きく高度を下げるために敢えて、右旋回降下を試みたのではないかと思える。これにより5000-6000ftまで降下し、その後横田基地へ緊急着陸するためである。実際、無線通信では横田進入管制(YOK)が英語で緊急着陸そして救護の準備が出来ていることを通告している 出典:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 ⑦その後さらに日航機は真東、すなわち横田方面に向かうことになる。 ここで東京管制が「羽田にコンタクトしますか?」と機長に質問するが、機長は「このままでおねがいします」と繰り返し返答する。この時点で横田進入管制所(YOK)は、日航機が緊急着陸する態勢を整えている旨を機長に英語で報告する。高度はさらに下がっている。 ここで東京管制は機長に「コントロール可能ですか?」と聞くが、機長は「アンコントローラブル」と返答する。ここでの操縦不能が果たしていかなる意味を持つのかが重要である。本当に操縦不能なのか、スクランブル機によって強く誘導されているために、横田基地側には向かえないということを暗に述べているかである。 出典:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 ⑧18時46分の時点で日航機は、横田基地の近くにいて着陸体制を取ろうとすれば取れる状態にあったはずである。日航機の動きを外部から見た場合、今まで北北東に向かっていた飛行機がぐるりと真東に機体を向けて高度を下げていたから、機長は機体を横田側にコントロールできると考えても不思議はない。 米軍横田基地に降りられては困る事情が日本側にあったのではないかという疑義がある。 ⑨その後、日航機は横田に向かわず、北西、すなわち奥秩父から御巣鷹の尾根などある上野村方面に向かうことになる。そして18:47:17、機長が「おい山だぞ」と叫ぶ。このときの高度は約9000ftであり、横田の西方にいたときに比べると相当高度は高くなっている。しかし、奥秩父には2000mを超す山脈があり、高度が9000ftないと山にぶつかる可能性がある。そこで機長は「山にぶつかるぞ」と叫ぶ。しかし、18:48:03、日航機の高度はは6800ftとかなり急降下する。この後、機長は「あーダメだ!」と絶叫。「どーんと行こうや」と叫ぶが、18:51:03には9800ftまで高度をあげ、さらに墜落2分ほど前の18:54:223には11000ftと高度をもちなおす。 ⑩この時点で再度、横田進入管制所は、日航機が緊急着陸する態勢を整えている旨を機長に英語で報告する。これは横田管制が日航機の位置を把握していなかったことを示すものである。この時刻、日航機は横田側ではなく、180度逆の奥秩父から御巣鷹山の方向に向かっていたからである。日航機はこの後、三国山(みくにやま)と扇平山(せんぺいさん)の間を通過し、御巣鷹山方向に向かう。途中、18:56:03 三国山の近くを水平面内(8400ft)で一回転しその後、御巣鷹の尾根に墜落する。いうまでもなく、横田方面に向かっていた日航機が180度反対の奥秩父から御巣鷹の尾根に向かうと言うことは、間違いなく「自殺行為」であるだろう。にも関わらず、日航機が過去経験が無い奥秩父から御巣鷹の尾根に向かった背景には、自衛隊機のスクランブルによる誘導があったことは否めないだろう。 御巣鷹山の標高 1639m、高天原山の標高 1978m 御座山の標高2112m 日航機墜落現場の正確な位置図 出典:青山貞一、鷹取敦(環境総合研究所、東京) <墜落前のスクランブル機の目撃について> ⑪ところでそのスクランブルだが、日航機に自衛隊機がスクランブルをかけていたかどうかについての重要な証言がある。上述のように2機のスクランブル自衛隊機についての公式情報はいまだないのだが、日航機をスクランブルする自衛隊機についての目視情報が民間人から寄せられているのである。 スクランブル機を目視したのは角田四郎氏である。1985年8月12日の日航機事故当日、山梨県大月付近でキャンプをしていた角田氏は、そこで日航機とともに2機の自衛隊機スクランブルを目撃するのである。これは角田氏が後に執筆した『疑惑/JAL123便墜落事故』という本に書かれている。以下はその一説である。 "このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市と神奈川県相模湖の 中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃 になる。 そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃 の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。 その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの 思いで立ち止まって見つめた。しかし、今度はごく小さな機影で、北西に向かって 夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。「あれはさっきの飛行機[JAL123便] じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていった。この間5~6分 の出来事である。" 角田四郎著、 『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊 慰霊の園の資料館に展示されていた事故当時の写真 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27 出典:日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 ⑩自衛隊のジェット機によるスクランブルについては、日本航空 123 便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書の 解説においても、19:21に航空自衛隊戦闘機(F-4EJ)2機が明記されていることから確認できる。
(62-2 日本航空株式会社所属ボーイング式 747SR-100 型 JA8119、 群馬県多野郡上野村山中、昭和 60 年 8 月 12 日) しかし、ここで問題としているスクランブルは、墜落後の上記スクランブルではなく、日航機のスコーク77を受けての墜落前の航空自衛隊の2機のスクランブルである。 <参考資料、映像> ★日航機墜落事故、飛行経路に対応したボイスレコーダ音声検証 ★日航ジャンボ機墜落事故 https://www.youtube.com/watch?v=ReowcEJu81I#t=98 ★日本航空123便墜落事故を検証する ★JAL123便 日航機墜落事故の真相 ★日本航空123便の高度変化、柳田邦男著 死角 巨大事故の現場(新潮社) つづく |