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日航機事故再解明の課題 3

青山貞一 Teiichi Aoyama *1,*2
池田こみち Komichi Ikeda *2
鷹取 敦 Atsushi Takatori *2
*1 東京都市大学名誉教授
*2
環境総合研究所(東京都目黒区)

August 12, 2015
独立系メディア
E-wave Tokyo
無断転載禁
課題 1  課題 2  課題 3  課題 4  課題 5

第三章 墜落位置の確認について

 
情報1 日本航空 123 便の御巣鷹山墜落事故に係る
      航空事故調査報告書についての解説における
      探索情報、測位結果

 事実1 墜落現場の位置

 1985年8月12日の午後6時56分に日航機が墜落した後、墜落位置の初期確認が問題となり、警察、自衛隊などは翌日に至るまで正確な位置は確認できなかった。

 以下は墜落現場の広域地図である。墜落現場は群馬、長野、埼玉の各県にまたがる地域にあった。事実、フライトデーターにもある三国山は、群馬県、長野県、埼玉県の3県(国)にまたがっていることから名付けられた山である。


出典:グーグルマップより筆者が作成



2013年8月27日、現地調査した範囲を地図化したものです。
出典:青山貞一作成


ぶどう峠から見た御巣鷹山、JAL墜落現場、高天原山
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27


ぶどう峠から見た御巣鷹山、JAL墜落現場、高天原山 ズームアップ版
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27


ぶどう峠にて  群馬県上野村と長野県佐久市の県境
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27

 標高は御巣鷹山(群馬県上野村)が1639m、三国山(埼玉県、群馬県、長野県の県境)が1834m、扇平山(長野県川上村)が1699m、高天原山(長野県と群馬県の県境)が1978mさらに後述する御座山(長野県南相木村、北相木村)が2112mである。

 墜落現場は、群馬県の御巣鷹山、埼玉県の三国山、長野県の扇平山のほぼ正三角形の中央にある高天原山北東斜面にある。高天原山の北東斜面のほぼ矢印の位置である。したがって、正確には御巣鷹の尾根ではなく、高天原山の尾根とでも言うべきである。


日航機墜落現場の正確な位置図
出典:青山貞一、鷹取敦(環境総合研究所、東京)


 事実2 墜落現場における航空機破片の散乱状況について

 以下が墜落後、あちこちに航空機の破片が散乱していた場所の概略図である。図中には標高の等高線が入っている。

 第一エンジンと右主翼の一部は1450mと激突地点より100m以上低い位置にあることが分かる。また右主翼の一部は図中、真ん中の1530mの標高に、胴体は図中左下の1580mの高い位置に、さらに第二エンジンは1530〜1540m(図中右端)に、さらに第三エンジンは図中、右下にある。

 範囲としては、高天山の尾根のスゲノ沢、200m×200mの範囲に散乱していることが分かる。


出典:日航機事故調査報告書

 墜落現場や御巣鷹山、高天原山は、非常に険しい急傾斜地にある。

 実際の現場は下の写真のようになる。


慰霊の園の資料館に展示されていた事故当時の写真
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27 

 下の写真は、航空自衛隊・捜索/救難ヘリ 第一陣の米川末雄氏が撮影した墜落現場のものである。この写真はNHKスペシャル「日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実」の中で公開されたものである。
 

航空自衛隊・捜索/救難ヘリ 第一陣が撮影した墜落現場の写真
航空自衛隊、米川末雄氏撮影
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実

 現場まで行く(ける)林道は上の村道2206号線の終点から徒歩で登山するしかない。しかし、現地でいろいろ調査しているうちに、墜落現場は長野県南相木村の南相木ダムや長野県川上村から比較的近くの位置であることが分かった。


 事実3  墜落現場の第一住民目撃者(周辺住民)

 墜落を目撃した人もいる。上の地図にある長野県川上村で農業をしていた女性である。

 1985年8月12日19時05分、長野県川上村梓山の農婦から110番通報(臼田署)「18時55分頃、埼玉県方面から飛んできたセスナ機より大きな飛行機が、大きく旋回しながら、南相木村(長野県)と群馬県との県境付近に落ちたらしく、赤い閃光がして、その後、黒い煙が上がった」その他、梓山地区の多くの住人による目撃情報として「高天原山1978.6mの東を越えて(群馬県側に)飛んで行った」
http://www.akimasa21.net/itidaiki/JAL123.htm
NHKニュースの最後に松平アナが速報。

 これは以前から研究者等のWebや著作で確認されていたことだが、110番通報を受けた長野県臼田署が、その後受けた通報を県警や自衛隊に連絡することなく、結果として10時間以上に及ぶ墜落位置探索の迷走に陥ってしまうことになった。

 今回、その長野県川上村梓山の農婦、中嶋初女さんにNHKがNHKスペシャル「日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実」のなかでインタビューしている。

 以下は、中嶋初女さんが日航機を見た川上村の農地、長野県警臼田警察署に通報した際の警察のメモ、当時の日航機と墜落炎上している絵である。


長野県臼田警察への第一通報者、中嶋初女さん(川上村居住、67歳)の
畑から見た墜落現場方向の山の尾根
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実


長野県臼田警察への第一通報者、中嶋初女さんの通報メモ
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実


長野県臼田警察への第一通報者、中嶋初女さん(川上村居住、67歳)の
畑から見た墜落現場方向と日航ジャンボジェット機
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実


長野県臼田警察への第一通報者、中嶋初女さん(川上村居住、67歳)が
書かれた墜落後の高原天山の尾根に立ち上がった煙と火の手
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実


中嶋初女さん(川上村居住、67歳)が指摘した位置
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実


 事実3 日航機墜落初期段階での捜索・米空軍C130Hの活躍

 1985年8月12日、日航機が18:56分過ぎに御巣鷹の尾根に墜落した後、いち早く現場に急行したのは米国の海兵隊である。米軍のC130Hは日航機のスコーク77を受信し、日航機が緊急事態となっていることを知り、現場に輸送機で駆けつけていたのである。

 この事実は、テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日に 特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)として放映された。以下の動画はそれである。

 これにより日本国中に衝撃が走った。後述するように、日本の航空自衛隊、陸上自衛隊、警察などがヘリを使い墜落場所を探索するのに墜落から10時間以上かかっているのに対し、C130Hが現場に到着したのは8月12日の19時15分、すなわち墜落した時刻のわずか20分後である。

 日本側の捜索が遅れた理由について、小川和久氏はニュースステーションのなかで、首相官邸のなかで警察、自衛隊、防衛庁のいずれが担当すべきかについて約2時間議論していたと述べている。この遅れはそっくり日本側の救助、いや救助以前の墜落場所の探索の遅れにつながっている。

 2015年7月30日にNHKが放映した日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実〜では、空白の16時間として、本格的救助が遅れた経緯、背景についてNHKスペシャルを放映していた。もっぱら、後述するように墜落場所の捜索における混乱、誤報にはNHKも一役買っていたことも別途分かっている。

 またNHKは以下の米軍、海兵隊などの初動活動については、ほんのすこし触れるだけで事実関係すら報道していなかったのである。


特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)
テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日 放映


特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)
テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日、


◆関係者の証言 −アントヌッチ米軍大尉の証言−

 事故から10年後の1995年8月20日、事故当日に沖縄の米空軍嘉手納基地から東京の横田基地に向かっていた米空軍C-130H(ハーキュリーズ)輸送機に乗務していた航空機関士、マイケル・アントヌッチ元米軍大尉(事故当時は中尉)が、退役後カリフォルニア州サクラメント市で発行している「サクラメント・ビー」紙に発表した証言である。

  この証言は米太平洋軍の準機関紙「パシフィック・スターズ・アンド・ストライブス」に同年8月27日付け一面で転載された。同年9月28日号の『週刊文春』にも同記事の抜粋が掲載されている。

 10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。

 最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

 JAL123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

  当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態(スコーク77)を発信したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだからだ。

 しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

  ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱政己機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

  われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

 横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

 管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。

  御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

  当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地(座間基地?)から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

  副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

  午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

  将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行を希望している」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

  ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

  横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

 われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中隊のビルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

  翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

  墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

  落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

  『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

  こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

  また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。

  夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。

  この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。

  私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

 1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」.

  私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

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  C-130輸送機がいち早く現場を発見したのは「事故調査報告書」にも記載されているが、この証言が事実であるならば、米軍が行おうとして中止になった救助活動については10年経って初めてわかった事である。
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 仮説1  デジタル写真、デジタル動画の存在

 住民の目撃、米軍の測位確認において、いずれも最終的な証拠となる写真やビデオがない。今であれば、デジカメや常時携帯している携帯電話、スマホ、タブレットなどですぐに写真やビデオを撮影することができる。

 しかも、いずれもDPE、すなわちフィルムの現像、焼き付けなどが不要で、携帯電話、スマホ、タブレットでの撮影ならすぐさまインターネット経由で警察に送ることができ、かつ自分のブログ、フェイスブックなどに掲載することができる。最近の例では長野県と岐阜県にまたがる御嶽山で噴火が起きたとき、登山者が現場で撮影した動画をインターネット経由ですぐさまブログなどに掲載した映像が現地の状況を警察、自衛隊、マスコミそれに一般人が知る極めて貴重なものとなっていた。
 
 画質も向上しており、デジカメや専用ビデオカメラと変わらないものもある。当時はアナログのカメラがあったとしても、常時持ち歩く人はほとんどおらず、しかもDPEに早くても半日はかかっていたので、後の証拠にはなっても、即座の位置の確認には生かすことができなかった。

 仮説2  GPSの存在

 さらに、現在はスマホ、タブレットなどに位置の測位が可能なGPS(Global Pointing System)が付いており、衛星を使って写真を撮影した位置や自分が現在いる位置をかなりの精度で測位し、そのデータをグーグルマップやグーグルアースに送ることにより、自分だけでなく、第三者に写真の測定位置を写真とともに送ることができるようになっている。

 これはとりわけ航空機やヘリでの上空からの位置確認に置いて重要なものとなる。当時は次章で問題とするTACAN(タカン)という測位システムがあったが、数km単位での誤算があり(あることがあり)、自衛隊、警察、消防団などが日航機の落下した場所に救援活動で向かう際には数kmの誤差は致命的なものとなる。数km違うと隣の山の尾根になるからである。

  その意味で、現在、携帯電話、スマホ、タブレットに付属しているGPSでも、誤差は数10m、自動車に搭載しているナビの場合には数mの誤差で位置が直ちに判明する、しかもいずれのGPSでも、夜間であっても、雨天であったも測位が可能である。
 

 
仮説3  警察の対応

 一方、今、昔ともに初動でかわらないのが、民間人が電話で警察の110番に通報した際の警察側の応対である。これは日航機事故のような巨大な事故であっても、桶川事件のような事件につながるような場合にあっても、同じである。

  連絡を受けた警察の対応が当日の警察のメモにとどめ、警察内の他の部署、また日航機事故の場合なら長野県警本部、日本航空本社、自衛隊などに送られなかったことが、致命傷になっている。

 これについても、現在はデジタルネットワークによりいかなる通報でも関係各部署に自動的に送られるようになっているのかは疑わしいものがある。それが結果として救援を遅らせたり、桶川事件の場合には殺人事件に通じている。

 しかし、現在では写真、動画の場合同様、警察に通報する以外に、現場で撮影した写真や動画を各種のサイトに掲載することで、マスコミを含め関係者が誰でも見ることができるようになっている。


 仮説4  米軍と自衛隊との相互連絡、協調体制
  
 日航機事故では、これが墜落現場の確認、その後の救援のみならず、スコーク77が日航機から発信された後、東京の横田基地が緊急着陸の体制、さらに救護体制をとったにも関わらず、御巣鷹山に誘導され結果的に墜落に近い状態となり520名もの乗客・乗員が死亡する世界最大の航空機事故となったという意味で日、米の連携、協力あり方がきわめて重要なものとなっている。

 横田基地の受け入れについては第二章に記したので、ここでは第三章でビデオ及び米軍、米海兵隊員等関係者の証言として紹介した。墜落以前からの日航機の確認と墜落地点の確認、さらには米軍座間キャンプから現場に到着したUH−1ヘリの活動について、最終的に日本政府側が米軍側に救護活動(おそらく墜落現場の測位についても)は自衛隊側で行うこと、すなわち、米軍の急変は不要であること、初動からかかわった米軍側はやむなく現場から引き返している。また初動の遅れについては、上述のように軍事評論家の小川和久氏がニュースステーションのなかで、首相官邸のなかで警察、自衛隊、防衛庁のいずれが担当すべきかについて約2時間議論していたと述べている。この遅れはそっくり日本側の救助、いや救助以前の墜落場所の探索の遅れにつながっていると述べている。

 なお、初動、その後の遅れ(NHKによれば16時間の遅れ)については、別途第四章で詳しく触れる。

 
上記の「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)ビデオ及び「アントヌッチ米軍大尉の証言」(論考)によれば、米軍側は墜落現場の確認だけでなく、その後座間キャンプから現場に到着したUH−1ヘリが、暗闇の中でヘリからロープを地表に垂らし、生存者の救護を行う直前まで行っていたとある。それからすると、その後2時間、さらに最大16時間、自衛隊、警察、消防などが墜落場所の測位、確認で膨大な時間を費やし、生存者の発見、救護が大幅に遅れたことはきわめて問題であろう。

 逆にもし、真っ暗闇の中でありリスクはあったとしても、座間基地に4機あったUH−1が洗面支援すればかなりの乗客、乗員が救出された可能性があると言えよう。これについては、米軍パイロットの証言のかなでアントヌッチ米軍大尉は、自分たちがC130Hで早期に現場を確認しながら、その後、米軍の救出活動を日本側に断わられたために、落合由美さんにある救える可能性がある乗客、乗員がいたことが今なお気になっている旨の証言をしている。



キャンプ座間に4機あった米軍UH−1ヘリ
出典:特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)
    テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日



位置確認のための発煙筒を常備
出典:特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)
    テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日


UH−1搭乗隊員が必ずひとつずつ持つ小型無線機(トランシーバー)
出典:特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)
    テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日


UH−1によるヘリからの救助活動のイメージ
出典:特集「日航機墜落事故 米軍幻の救出劇」 (米軍パイロットの証言)
    テレビ朝日ニュースステーションで2012年8月2日

 以下は墜落から16時間以上たち8月13日に自衛隊により行われたヘリによる救出の写真。


慰霊の園の資料館に展示されていた事故当時(1985年8月13日)の写真
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27

 

つづく