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第四章 墜落現場発見の遅れと救援活動の致命的な遅れ
仮説1 現地への救助が墜落から数時間のうちであれば50人程度は
生存したのではないか?
米軍側にも指摘されているが、生存者の一人落合由美さんの手記によれば、御巣鷹の尾根に墜落後、かなりの数(50人前後か)の生存者がいた可能性があった。
◆アントヌッチ米軍大尉の証言−再掲
御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地(座間基地?)から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行を希望している」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。
中略
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。
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米軍関係者機が横田、座間の基地に帰還した後、自衛隊、警察、消防など日本側は墜落場所を8月12日のうちには確認できず、救出活動が翌13日の午前となったため、救出、救援活動が大幅に遅れて8月13日の朝以降となったため、結果的に4名しか救出することが出来なかった。
以下は生存者の一人、日航スチュワーデスで当日は非番でJAL123便に乗っていた落合由美さんの証言である。
◆生還者の一人、落合由美さんの証言
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。
シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手でけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。
右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったたので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。
どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。
それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。
突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。
私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。 |
◆生存者の証言 −川上慶子さんの証言−
川上慶子さんは家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に
寄るため羽田に戻り、キャンセル待ちの後123便に搭乗した。事故当時12歳。
〜高崎国立病院での証言〜
大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?
あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。
飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?
左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。
慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?
暗かった。
真っ暗だった?
うん。
その時何も見えなかった?
見えなかった。
お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?
うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。
その時に何か思った?
うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。
明るくなった時何か見たものある?
木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。
左手が届いたところにいたわけね?
うん。
ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?
出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。
助けられてから、一番うれしかったことは?
知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。
ほかに何かみんなに言いたいことは?
いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。
上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。
−付き添い関係者への証言1−
・事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配
り始めたころ。
・機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が
開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。
・墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。
・最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。
・母和子さん(39)は即死状態だった。
上記の証言は、肉親や関係者に対しての証言。8月18日までに解ったものである。
−付き添い関係者への証言2−
気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。
みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。
父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。
咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。
突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。
ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。
顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。
8月23日までに解ったもの。墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況を、付き添い関係者にさらに詳細に証言している。よくネットや書籍上で引用されているので、一番有名な証言ではないだろうか。
−群馬県警・関係者への証言−
最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いた、との証言。
上記の証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。
出典:http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-6.html |
以下は長野県北相木村の若者(当時)がマウンテンバイクと徒歩で墜落現場にたどり着いた後の現場の状況についての証言である。ただし、この証言は、証言者の氏名、連絡先、さらに後日講演しているが、その会合の場所、主催者などが不明であることから証言の信憑性に疑問を呈する向きがある。
しかし、前略部分を含め、何度となく北相木村、南相木村、上野村の現地視察、調査をしてきた青山、池田から看ると、自衛隊に関する証言以外はかなり信頼できるのではと思える。その意味で私達は北相木村でこの証言者に会ってインタビューできればと以前から考えている。
以下の全文は、日航機事故再解明の課題 1 の最後にある。
◆長野県北相木村の若者(当時)の証言
前略
司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?
M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。
とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。
司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか
M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)
司会:そこで何を見ましたか?
M氏[6]:既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。
司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか?どれくらいの人が生きていたのでしょう。
M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4〜50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。
後略 |
事実2 何故、日本の日航機墜落現場確認が遅れたのか?
米国機C130HややUH-1が御巣鷹の尾根に到着しながら日本政府側の要請で基地に帰還した後、日本の自衛隊ヘリ機による墜落現場の確認は6回とも誤差があり、結局、待機していた自衛隊などの救助隊は墜落現場に向かえなかったとされている。
日航機現場を早期に発見できなかった最大の理由は、第三章に紹介したように、川上村、北相木村などでの住民の目撃情報を警察が十分にその後の探索に生かせなかったことにある。NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実の冒頭にあるように長野県川上村の女性が現認した情報を長野県臼田署に通報した際、その内容をすぐさま長野県警、防衛庁などに連絡していればその後の大混乱による膨大な時間(NHKによれば16時間)のロスはなかったと言える。
表1は、「日本航空 123 便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説」
(62-2 日本航空株式会社所属ボーイング式 747SR-100 型 JA8119、 群馬県多野郡上野村山中、昭和
60 年 8 月 12 日)に書かれている主に自衛隊ヘリによる墜落現場の測位結果である。
重要なことは、スコーク77通報を受信した米軍C130輸送機が現場に12日の19:15、すなわち墜落から20分以内に現地を上空から確認したにもかかわらず、いわゆる横田TACAN(タカン)を用いた位置探索で誤差が3kmあったという問題がある。
ここで重要なことは、航空機、ヘリを問わずGPS(衛星を使った位置確認情報システム)が存在しない当時、TACAN(タカン)と呼ばれた位置確認システムでは、目視で墜落現場を確認できていても、実際の正確な位置はTACAN(タカン)による測位では避けられない誤算により確認できなかったことがある。
表1を見ると、8月12日のTACANによる距離測定ではそれぞれ3km、6km、4kmの誤差があった。さらに翌日に入っても2kmの誤差があった。さらに13日の明朝になって航空自衛隊の捜索ヘリがTACANではないが測定した時にも3kmの誤差があり、05:00になり陸上自衛隊の探索ヘリが測定した際にも1km程度の誤差があった。05:33にやはり探査ヘリでも、やはり1kmの誤差が生じていた。
数kmの誤差でも、地上から1000人規模の自衛隊の救出部隊が出動するとなるとまったく違った尾根などに登ることになり、引き返すことを含めると相当の時間が浪費されることになる。
表1 航空事故調査報告書における墜落位置の測位結果
出典:日本航空 123 便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての
解説
(62-2 日本航空株式会社所属ボーイング式 747SR-100 型 JA8119、
群馬県多野郡上野村山中、昭和 60 年 8 月 12 日)
墜落現場を測位するために使われたヘリに付いてたタカンとは、いかなるものか?
下は航空機やヘリが当時用いていたTACAN(タカン)と呼ばれた位置測定探索装置の説明である。
◆TACAN タカン (Tactical Air Navigation System)
タカン(TACAN:tactical air navigation)は、もともと航空母艦への帰投のために開発されたもので、原理的にはVOR/DMEなどと同じく距離と方位が測定できる戦術航法方式(tactical
air navigation)である。
◆タカン(TACAN:tactical air navigation system):
タカン TACANは、航空機の運用のために使用する。戦術航法システムの名称どおり、軍用の航法援助施設として開発された。1,000MHz帯のUHFを使用し、方位測定部分(VOR)と距離測定部分(DME)の両者の機能を備えたものである。
方位測定部分はVORの発射電波方式と多少異なるが、原理的には機上で位相差を測定して磁北からの方位を自動的に指示するもので、VORと同様である。距離測定部分は、ほとんどDMEと同じである。現在、この距離測定部分のみは、民間用としてDMEの代わりに採用されている。このように距離測定にTACAN,方位測定にVORを使用している局をボルタック(VORTAC)という。
出典:航空実用事典
出典:NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間〜"墜落の夜"30年目の真実
放映美2015年7月30日
◆タカン(TACAN:tactical air navigation system):
TACANは米海空軍が連邦通信研究所(Federal Telecommunication Laboratories)の協力をえて、軍用に開発し、1955年に公表した無線航法方式である。VORがVHF帯を用いるため比較的大きなアンテナ装置を必要とするのに対し、艦上にも設置できる程度の装置として1000MHz帯(VHF-Lバンド)の電波を用い小さなアンテナ施設で運用が可能。TACANは、地上ではVOR
と併設されて VORTAC として、民間航空機の計器飛行を支援するためにも用いられている。
距離測定は、航空機上の装置(Interrogator)から、TACANに対し問い合わせ信号を送信し、TACAN(Transponder)は航空機からの問い合わせ信号を受信すると、一定の時間遅延をおいて、応答信号を送出し、この問い合わせの送信から応答の受信までに要した時間差から、TACAN局と自機の距離を算出する方法で、精度は0.2%程度である。
TACAN局は、問い合わせが無く、応答信号を発しないときでも、充填パルスと呼ばれる無情報のパルスを送信する。このパルスは指向性を持ったアンテナから送信され、この指向性は1秒間で15回転するため、ある方向から見るとパルスの包絡線(ピークを結んだ線)は15Hzで振幅変調されていることになる。
また、指向性が0度の時に基準となる信号をもったパルスを送出しており、パルス包絡線のピークと基準パルスとの位相差から、TACAN局から見た自機の方位を決定できる。実際には、方位測定精度を向上するために、包絡線の15Hz成分の上に9Hzのリプル(ripple)を重ねているため、測定誤差はほぼ1度に押さえられる。有効距離は、周波数の特性上航空機の高度に依存するが、13000mの高さで約200浬程度である。
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表2は、民間研究者による航空事故調査報告書における墜落位置の測位結果を示している。
表2は表1よりも詳細にヘリの探索、測位情報が記述されており、所属、機種、離陸時刻、到着時刻、火災の報告、残骸、救助、位置、帰還時刻、帰還理由が記載されている。
表2を見ると、19:15分に現場に到着した米軍のC130輸送機は沖縄から東京の横田への飛行中に、スコーク77を受信し、急きょ群馬県南西部のいわゆる御巣鷹の尾根まで移動し、墜落を確認している。これは表1と同じである。
最上段の米軍以外は、表1と表2はほぼ同じだが、表2では05:37に長野県警のヘリが御巣鷹山を確認しているとしており、08:49に習志野基地の陸自V107ヘリ6機が10:19に自衛隊員約70人を御巣鷹の尾根にリベリング(ヘリから降ろす)ことに成功していると記している点が異なっている。
表1、表2に共通しているは、ヘリによる測位データが、実際の位置より数km違っていることである。空から現場を確認しながら、正確な位置、とりわけどの山の尾根なのかを確認できなかったことである。
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