ウズベキスタン現地予備調査 アルク城 概要と歴史 Ark Castle, Its Abstracts and History 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月7日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
<全体メニュー・中央アジア> アルク城に向かう 概要と歴史 アルク城博物館1 博物館2 博物館3 博物館4 博物館5 ◆アルク城(要塞)の概要と歴史 アルク城は同時にアルク要塞(Ark Fortress)でもあります。アルク城は王の城であるとともに、戦時の外敵に備えた大規模な要塞の構造となっています。 城はさらに軍事的要塞の構造であるだけでなく、ブハラの周囲の領土の王族を含めた都市国家の中心、核でもありました。 このアルク城とブハラ・ハーンは、1920年にソ連の赤軍によって陥落されます。しかし、それまでは都市国家を守る要塞としての役割をもっていたのです。
このアルク城は、大規模な土の要塞となっています。 アルク城には歴代ブハラ・ハーンの居城があり、現在はアルク城の博物館となっています。 アルク城は、アーチの下に20メートルの深さの層を構成する昔の遺跡があります。調査ではその上に要塞を構築していたと推定しています。 アルク城が最初に造られた年代は正確には分かっていませんが、6世紀初頭にはすでに地元の支配者の住居であったと推察されています。 上述のようにアルク城は要塞でもあり、その堅牢性が故に支配者及びその軍事指導者そして多数の使用人が住んでいました。 そのアルク城(要塞)は中世にルーダキー、フェルドウスィー、アヴィセンナ、ファルビさらにそれ以降のオマルハイヤームにより、何度も修復、増築が行われてきました。 アルク城は当初の要塞計画では、西から東へ細長い矩形をしていました。アルク城の外壁の周囲は789.6メートル(2591フィート)あります。また面積は3.96ヘクタール(9.8エーカー)あり、外壁で囲まれています。外壁の高さは16.20メートル(52.66フィート)ありますが、この高さは場所によって異なります。 下は衛星写真により上空から撮影したアルク城(要塞)です。現在残っている城の施設は入口周辺にある一部だけで、あとは写真のようになにもないことが分かります。正面玄関は左下のスロープがある部分です。 上空から見たアルク城 出典:グーグルアース 下のグーグルアースの衛星写真は、アルク城を背後から見たものです。もともと城壁内にはさまざまな建築物、構造物があったはずですが、幾たびの攻撃にあいすっかり何もななくなっています。 上空から見たアルク城 出典:グーグルアース 現在、アルク城が建っている場所は、古代ブハラの発祥の地と言われており、少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたようです。アルクというのは「城塞」を意味し、歴代ブハラ・ハーンの居城であり要塞であったことになります。 アルク城の発掘調査によると、アルク城は何と上述のように紀元前4世紀から存在していたとされています。そのアルク城はアラブ、チンギスハーン(モンゴル)、ソビエト(ロシア)など何度も外敵により破壊されては建て直されており、現存するアルク城は18世紀のものとされています。 7世紀にはフタ・ハウタンという女王が、このアルク城の砦でアラブ軍と戦ったとされています。モンゴル軍が襲来してきた時、多くの住民がアルク城に立てこもり抵抗しましたが、結局チンギス・ハーンによって住民は虐殺され、同時に城も破壊されています。 その後も何度も外敵に襲われました。アルク城は破壊と修復を繰り返してきましたが、ロシア革命後の1920年、ソビエトの赤軍による爆撃によりほぼ城全体が崩壊し、現在は石造りの部分のみが往事の面影を残しています。 下は1920年9月、ソビエトの赤軍による襲撃でブハラ城が炎上しり崩壊している航空写真です。 1920年9月、ソビエトの赤軍による襲撃でブハラ城が火災となり 崩壊している航空写真 Source: English Wikipedia ロシア革命におけるロシア内戦の間、1920年、ミハイル・フルンゼの指揮下の赤軍の破壊によりアルク城は大きな被害を受けました。フルンゼはアルクの建築物、構造体の大部分を航空機で爆撃するように命じています。 ただし、秘密の場所(特にハーレム建物)は爆撃を免れました。最後のエミール、アリム・ハーン(1880〜1944)らは、アフガニスタンに逃げ、残された建築物の爆撃を命じたと言われています。 アルク城は石や泥ではなく木造の建築物が中心でしたが、1920年のソビエト軍の爆撃で焼け落ち、現在残っている城は石造りの部分のみとなっています。 また城壁の壁面には近くで見ると狭い間隔で木材がとび出ていることが分かります。これは城壁を建築、修復する際に足場として使われたもののようです。 アルク城の城壁(要塞の壁)の前の青山貞一です。擁壁は16mあります。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-2-25 アルク城の城壁です。よく見ると、水抜きの穴とともに、足場用の木の棒がささっているのが見えます。 アルク城の城壁 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-2-25 アルク城の城壁 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-2-25 何と観光用のフタコブラクダがいました! アルク城の城壁の周りを歩く観光用のラクダ 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-2-25 下はアルク城(要塞)の入口を横から撮影した写真です。 アルク城(要塞)の入口 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-2-25 下は正面玄関を歩いて登っていった場所から撮影したブハラ歴史地区側の写真です。この後、左側の窓口で入場券を購入し、写真、ビデオ撮影料金を支払って中に入りました。 私達のホテルは正面より左側にあります。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-2-25 下の写真も正面玄関からアルク城に入る途中に撮影したものです。 これらアルク城の前の広大な広場はレギスタン広場といいます。レギスタン広場はサマルカンドで有名ですが、アルク城の前のレギスタン広場は、かつては公開処刑場としてブハラハーンの暴政に異議を申し立て反抗した市民たちの首を切り落としていた場所でもあるようです。 下の写真の左上にある白い建物の下にある木造の柱と屋根のある部分は、 ブハラ王が公開処刑を見届けるための監視台だったそうです。欧州には中世、魔女狩りや宗教改革に関連し公開の拷問や処刑がありましたが、ブハラでも公開処刑がこの広場で行われていたのです。 ブハラ王が公開処刑を見届けるための監視台 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-2-25 つづく |