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スィトライ・モヒ・ホサ6

The Sitora-I-Mohi-Hosa Palace 6

旧ハーレムとプール

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月7日
独立系メディア E−wave Tokyo

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市民がかよう金曜モスク


◆旧ハーレムの関連施設

 広大な敷地内には、側室の若い女性を泳がした大きなプールや30人のそれら側室を住まわせたハーレムもあります。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-26

ハーレム(トルコ語 harem)

 日本語ではハーレムと呼ばれますが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」が一般的です。ここではハーレムとして統一します。

 ハーレムとはイスラム社会における女性の居室のことです。この名称はトルコ語からイスラム世界の外側の諸外国語に広まったもので、アラビア語ではハリームと呼ばれています。ハリーム、ハラームとも原義は「禁じられた(場所)」という意味で、ハーレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称です。

 歴史的には、10世紀以降、イスラム国家の宮廷において後宮の発達が著しく進んだことにともない、この呼称も定着するようになったといわれています。


オスマントルコのトプカプ宮殿におけるハーレム  出典:Wikipedi


オスマントルコのトプカプ宮殿におけるハーレム  出典:Wikipedi


Rosatiのハーレムダンス  出典:Wikimedia

 このハーレムを厳密に運用するには、多くの夫人を抱え女性を労働力とせずに、家庭内に置いておくことが可能な経済力が前提でした。これは、裏返して言えば、イスラム世界で最も富裕な存在である王侯貴族の宮廷においてハーレムが厳密かつ大規模に営まれていたということを意味します。

 確かに、イスラムの教主であるカリフの権威が絶頂に達したアッバース朝においては、『千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハレムが営まれていました。

 『クルアーン』は預言者の妻たちが顔を見せてよいのは、同性の女性たちと自分の家族、親族の男性を除くと、彼女らの所有する奴隷のみであると語っているため、ハーレムでは奴隷身分の者が労働に召し使われることとなりましたが、カリフのような富裕な王侯貴族のもとでは、このような奴隷は去勢されて宦官とされていました。

 宦官が召し使われたという点では古代オリエントや中国の後宮と同じです。また、ハーレムに住まう夫人たちの身辺には奴隷身分の侍女たちも置かれていましたが、イスラム法では女奴隷の生んだ子は父が認知すれば自由人として認められることができると定められていたため、彼女たち女奴隷はハーレムの夫人たちの夫の子供を私生児ではなく嫡出子として産む可能性がありました。

 従って、女奴隷とは側室候補でもあり、夫の子を産めば奴隷身分から解放され、一躍王侯貴族の夫人として尊敬される身になることも珍しくなかったことは、江戸城の大奥の侍女とも似ています。

 マムルーク朝の初代スルターンとなったシャジャル・アッ=ドゥッルは奴隷身分から君主の子を生んで解放され、王の妃へと身分を上昇させた女性の典型的な例です。

出典:Wikipedia

 下はグーグルアースの衛星写真です。プールは衛星写真からも確認できます。


出典:グーグルマップ

 ハンはプールに泳ぐ女性に高台からリンゴを投げ入れその日の相手を決めたと私立学芸員が言っていましたが、他の文献にも同じことが書かれていたので、事実であると思われます。

 下の白い建物はハーレムがあった建物です。現在は博物館となっています。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-26

 道路を挟んで博物館、プールの反対側にブハラ・ハンがプールに泳ぐ女性に高台からリンゴを投げ入れその日の相手を決めたという高台がありました。下の写真の右にそこに上る階段が写っています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-2-26

 下の写真がその高台です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-2-26

 下は高台の前の青山貞一です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-26


つづく