ウズベキスタン現地予備調査 サマルカンド2日目 考古学博物館① Arxeologik Muzey Visit in Samarkand 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月19日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
アフラシャブ考古学博物館① アフラシャブ考古学博物館② アフラシャブ考古学博物館③ アフラシャブ考古学博物館④ シャー・ヒー・ジンダ霊廟群、サマルカンド市民のお墓を視察した後、私達は下の地図にありますサマルカンドの考古学博物館に向かいました。博物館の実際(正式)な名前は、アフラシャブ博物館です。 以下はその入り口をはいったところで、博物館を写した写真です。 サマルカンドの考古学博物館、正式にはアフラシャブ博物館という 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 This photo of Afrasiab is courtesy of TripAdvisor This photo of Afrasiab is courtesy of TripAdvisor 博物館の敷地の一角に以下の記念碑がありました。Buyuk Ipak Yo'lida boshlangan do'stlik va hamkorlikka bag'ishlangan yodgorlik とあります。訳してみると、「グレートシルクロードは、友情と協力に捧げ記念碑を開始しました」とあります。おそらく韓国がアフラシアブの遺跡発掘調査に協力したことと関連がありそうです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ところで、サマルカンド郊外にある今のアフラシャブの丘は生命感がまったくない、まさに土の塊となってます。しかし、チンギスカンのモンゴル軍によって徹底的に破壊される前、何世紀もの間、サマルカンドの街はこのアフラシャブの丘の上に営々と築かれてきたのです。 アフラシャブの丘を発掘調査した結果、文化の痕跡が11層もの厚さで積み重なっているのことが確認されています。「アフラシャブの名」は、伝説の最初のソグド王から採ったもので、当時の街は城壁で囲まれ、4つの大きな門がありました。この門を通じてシルクロードと結ばれ、遥か彼方から運ばれてくる物資や商人たちで賑わっていたのです。 出典:ウズベキスタン大使館配付資料 実はこのアフラシャブ(Afrosiab)は、もともとサマルカンドの中心地があった場所です。ここに8世紀に最初のモスクが建てられますが、チンギス・カンのモンゴル軍によりほぼ全面的に破壊されます。すなわち、モンゴル軍によって破壊される前、アフラシャブ(Afrosiab)の丘に営々と旧サマルカンドのまちを造築してきたのです。 ◆旧サマルカンド アフラシャブ
※本稿はサマルカンド3日目午後のサマルカンド郷土史博物館の記述と併せてご覧ください。 グレコ・バクトリア王国の歴史 ウズベキスタンの歴史 サマルカンドの歴史 まずアフラシヤブ (サマルカンド)について、紹介しましょう。 上述のように、「アフラシャブ」には古代から中世にかけて都市として存在したマルカンド周辺地域における最古の遺跡です。 マルカンドはサマルカンドの昔の名称です。そのマルカンドは防衛上の理由からアフラシヤブの丘の上に建設されました。南は渓谷に、北は現在のサマルカンドの一部である肥沃な土地に囲まれていたのです。 アフラシヤブは紀元前7~6世紀に人が住みだしたとされ、ソグディアナ文化の中心地となっていました。「カラーイェ・アフラーシヤーブ (Qal’a-ye Afrasiyab、アフラシヤブの城) は、17世紀の終わりに記された資料に見られています。 アフラシヤブの名前はシャー・ナーメに登場するトゥーラーンの英雄アフラースィヤーブと関連があると考えられています。多くの研究者、学者はアフラシヤブをタジク語で北の境界に位置する黒い河の対岸を意味するパルシャーブ が変形したものであると考えており、アフラー はペルシア語で対岸を意味するファラー (Far?) の詩における形としています。 シャーブは黒を意味するシャーと文脈により水、川、海を意味するアーブ が合わさったものと考えられています。 現在のアフラシャブの丘。サマルカンド歴史博物館の裏手にあります 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 現在のアフラシャブの丘。サマルカンド歴史博物館の裏手にあります 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-3-3 アフラシヤブ地域は約220haに渡っており、アフラシヤブの遺構の深さは約8~12mです。アフラシヤブの考古学的な調査は19世紀の終わりに行われています。1920年代に、考古学者のミハイル・マッソンにより引き続き調査が行われました。 ミハイル・マッソンの考古学的な研究によりサーマーン朝の宮殿はかつてアフラシヤブに存在したことが明らかになっています。そして1960~70年代にかけは再び発掘調査が行われました。アフラシヤブの考古遺跡ではアフラシヤブ壁画と呼ばれる壁画も発見されています。 以下はサマルカンド3日目のサマルカンド郷土史博物館の記述と一部重複します。 このアフラシャブの丘の上にマルカンドそして旧サマルカンドのまちが形作られました。 サマルカンドのまちは、商才に長けたソグド人の町として、いくつもの王朝の支配を受けながらも、数世紀にわたって繁栄を続けてきました。 しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由の路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されてしまいました。
なお、チンギス・カンのモンゴル帝国による中央アジア攻撃については、以下のような文献があります。 中央アジア遠征ではサマルカンドで火炎兵器の投擲機、カタパルト式投石機などの最新鋭の城攻兵器の技術を入手するが、これらはホラズムやホラーサーンの諸都市に対する攻撃で早くも使われました。 攻城にあたってはあらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に他都市への見せしめのために略奪されました。 その攻撃は熾烈を極めチンギス・カンの中央アジア遠征のとき、バーミヤーン、バルフなどの古代都市はほとんど壊滅してその後も再建されず歴史上から姿を消しています。 反対に降伏した都市に対しては法外でない程度の税金を納めさせ、モンゴルへの臣従を迫り、モンゴル帝国の監察官(ダルガチ)を置く以外は以前と変わらない統治を許しており、住民の宗教に対しても基本的に干渉せず寛容政策を取ったとされています。 このモンゴル帝国の威光は、中央アジアではティムール帝国として受け継がれます。これも中央アジアへ多大な影響を及ぼした。ティムール帝国は、西はアナトリアのオスマン朝(オスマン帝国)、東は明へと圧を加えましたが、特に西方は、後述するようにオスマン朝に敵対するビザンツ帝国の寿命に影響しています。ティムール帝国はのちにインド方面に後継王朝の種をまきますが、これが大英帝国とも関連するムガール帝国となっています。 下は破壊される前のアブラシャブに築かれた旧サマルカンドです。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドは、下の絵地図にあるように、三重の城壁に囲まれていたことが分かります。このアフラシヤブ(Afrosiab)地域は考古学者等により永年発掘が進められており、多くの遺跡、文物が発見されております。 下の地図からでは規模は分かりませんが、アフラシヤブ地域は約220haあったとされているので、かなりの広さがあったものと推察されます。おそらく1.5km×1.5kmほどはあったと考えられます。 そして旧サマルカンドの町は、敷地内を流れる複数の川からの表流水の供給が、まちの生命線であったと思われます。チンギス・カンのモンゴル帝国がここを襲撃したとき、その水供給システムを徹底的に破壊したという記録もあり増す。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 下はアフラシャブにおけえる四つの城壁の位置を3次元立体地形図で示しています。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの地形図 ~四つの城壁~ 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 下は、主要な3つの表流水(河川)源を示しています。モンゴルの攻撃によりこれらの水源が徹底的に破壊されたため、その後のサマルカンドは現在の位置に移転し展開されています。なお、北東を流れる河川は、現在もほぼ同じ位置に流れています。 私達は博物館視察後、ウルグ・ベグベグ天文台に向かいますが、その途中、上記の河川の存在を確認しています。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド ~主要な3つの表流水源~ 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 下も、主要な3つの表流水(河川)源を示しています。モンゴルの攻撃によりこれらの水源が徹底的に破壊されたため、その後のサマルカンドは現在の位置に移転し展開されています。ただし、上の地図と河川、溜め池の位置が微妙に変化していることが分かります。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 紀元前2-3世紀のEramizdan avvalgi III-II ASR Arga doir Arxelologik Topilmalar 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘 ほぼ旧サマルカンドの位置がそのまま保全、保存されています 出典:グーグルアース 衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘の北部 出典:グーグルアース 衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘の北部 右上には住宅地が広がっています 出典:グーグルアース サマルカンド考古学博物館2へつづく |