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撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 佐渡現地視察総合目次 根本寺① 三昧堂 根本寺② 根本寺③ 根本寺と言えば「日蓮と三昧堂」、ここでは三昧堂について紹介する。下は現在の三昧堂の写真である。 以下は三昧堂の前に立つ池田こみち・ 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 ◆塚原の三昧堂 佐渡・塚原の墓地にあった葬送用の堂。流罪中の日蓮大聖人が滞在された。「死人を捨つる所」(916㌻)にあった一間四面の狭い堂で、祭るべき仏もなく、板間は合わず壁は荒れ放題にまかせ、日の光もささない、廃屋同然の建物であった(同㌻)。佐渡流罪 開目抄全文 開目抄(口語訳) ◆三昧堂の詳細 以下は、日蓮上人が文永八年(1271)九月十二日、鎌倉で連行され、、鎌倉の滝口で処刑寸前になったものの、その後処刑できず佐渡流罪となったこと。佐渡の松ヶ崎に到着後、佐渡での配所である廃屋同然、死体置き場の一角にあった三昧堂に半年にわたり滞在することになった経緯である。出典は日蓮が三昧堂滞在中に執筆した「開目抄」などである。 文永八年(1271)九月十二日、日蓮大聖人は、松葉ケ谷の草庵から鎌倉の街中を重罪人のように引き回されて評定所へ連行され、平左衛門尉より「佐渡流罪」をいい渡されました。しかしこれは表向きの評決であって、内実はひそかに大聖人を斬罪に処する計画が企てられていました。事実、深夜になると大聖人は処刑のために竜口(現在の神奈川県鎌倉市滝口)の刑場へ護送されています。 その途中、鶴岡八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人は馬から下りられ声高に、 「いかに八幡大菩薩はまことの神か」(種々御振舞御書 新編 1059)と叱責し、法華経の行者に対する守護はいかばかりかと八幡大菩薩を諌めれました。 また由比ケ浜をとおり過ぎたところで、大聖人は熊王丸という童子をつかわして四条金吾に事の次第を知らせると、金吾はただちに大聖人のもとに駆けつけ、殉死の覚悟で刑場までお供をしました。 刑場に到着したとき、金吾はおもわず嗚咽しましたが、大聖人は、 「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるゝぞ」(種々御振舞御書 新編1060) とたしなめられました。 その処刑の瞬間、突如として江ノ島の方角より 月のような光り物が南東より北西に光り渡り、太刀取りはその強烈な光に目が眩んで倒れ伏せました。取り囲んでいた兵士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、ある者はひれ伏すなどのありさまで、結局、大聖人の命を断つことができませんでした。 この大聖人の身のうえに起こった竜口における法難は、これまでの上行菩薩の再誕日蓮としての仮の姿(垂迹身)を発って、久遠元初自受用報身如来即日蓮という真実の姿(本地身)を顕されたという重大な意義をもっています。 これを「発迹顕本」といいます。 このことについて大聖人は、 「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて云々」(開目抄 新編563)と明かされています。 この「魂魄」とは、まさに久遠元初の自受用報身としての魂魄であり、大聖人はこの竜口法難という身命を賭する大法難のなかで、久遠元初の御本仏としての御境界を開顕されたのでした。 佐渡配流 竜口における頸の座の後、大聖人は、相模国依智(神奈川県厚木市)の本間邸に一カ月近く拘留されました。 そして、文永八年(1271)十月十日、佐渡配流のために依智を出発されました。そして同月二十八日に佐渡の松ケ崎へ着き、十一月一日には配所である塚原の三昧堂へ入られました。 極寒の地・佐渡の三昧堂での御生活は、「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のように死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、板間上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(種々御振舞御書 新編1062) と記されているように、このうえなく厳しい状態でした。しかも島民たちは念仏信者であり、大聖人は常に身の危険にさらされていました。 このようななか大聖人は、翌年の一月十六日、塚原において領主・本間六郎左衛門の立ち合いのもと、数百人の諸宗の僧らを相手に問答し、これらをいとも簡単に打ち破られました。問答が終り立ち去ろうとする六郎左衛門に対し、大聖人は、近いうちに鎌倉に戦が起こる旨の予言をされました。 その一カ月後、大聖人の予言は「二月騒動」という北条一門の同士討ちとして現れ、この予言的中により、島民の中には大聖人に畏敬の念を抱く者たちが出てくるようになりました。 ◆極限状態の根本寺で遺したものとは…? 出典:日蓮宗公式Web 峠越えの目的地・地頭の屋敷跡にあるのが、根本寺です。日蓮聖人は、ここ「塚原」と呼ばれる地で佐渡最初の半年を過ごし、「開目抄」を記しました。当時の草庵跡近くには三昧堂が建っており、今でも多くの信徒さんがここを訪ねてくるようです。 塚原での日蓮聖人の生活について、竹中上人にお話をうかがいました。 「佐渡は、日蓮聖人の人生の仕上げの地といえます。佐渡がなかったら、大聖人の生涯を語ることはできない。それくらい大切な時期を過ごされました。 ここ塚原の地は、元々死体置き場だったのです。 そんな環境の中、寒さもしのげず、食べ物も与えられないのですから、生きては帰れないかもしれない。塚原での生活は、そういった危うい環境でした。しかし日蓮聖人は、何があっても『法華経を正しく広める』という使命を果たさなければならない、と考えたのでしょうね。そのような中、ここ塚原で『開目抄』、そして一谷(いちのさわ)で『観心本尊抄』という教義の要となる書を記されたのです。 出典:日蓮大聖人『御書』解説 『開目抄』は、いわば法華経の正しい心得方を説いたもの。『観心本尊抄』には、何をご本尊として崇め法華経指導に励めばよいのか、ということが記されています。 これらを総合し分かりやすく言えば、日蓮聖人は“人間らしく生きてくれ”とおっしゃっているのです。「人間らしく」というのは、周りに生かされていると気づき、感謝し、慈悲の精神を持つこと。そういった人の生き方を日連聖人は伝えたかったのではと思うのです。 佐渡で日蓮聖人ゆかりの地を巡っているのですか?本来なら、やはり日蓮聖人と同じく冬を体験するのがいちばん良いですよ。冬の佐渡の寒さはそりゃあ厳しいもんです(笑) 。しかし日蓮聖人が至った境地に少しでも近づくためには、その環境を身をもって感じることも大事。そうすることで、日蓮聖人の偉大さがまたよく分かると思いますよ」 三昧堂にある絵には、雪の積もる草庵の様子が描かれています。秋の取材時(10月)でもひやりとする境内。本格的な冬を迎えたときの厳しさは想像に難くありません。 三昧堂にある絵には、雪の積もる草庵の様子が描かれています。 なるほど…。なんだか、日蓮聖人に触れた人々の人間らしい葛藤が伝わってくるようなエピソードですね。 ※日蓮聖人の塚原滞在中に、村人や諸宗の僧徒約100人が法論で攻めようと詰め掛けたが、日蓮聖人は一問一問理路整然と論破したという事件 つづく |