メアリー・ステュアートの足跡を追って スコットランド2200km走破 スターリングブリッジの戦場 Battlefield of Stirling Bridge 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2018年12月10公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
スコットランド総目次へ* 闘いと苦難の歴史 ウォレス・モニュメント ウィリアム・ウォレス スターリングブリッジ戦場 ロバーツ・ブルース バノックバーン戦場 スターリング大学 スコットランドの偉人 スコットランド人の独創性 ◆出典、翻訳等について 本稿では、現地調査時に入手した資料、撮影した写真以外に、概要、歴史などでは日本語、英語のWikipediaを、また写真についてはWikimedia Commonsを、さらに地図についてはグーグルマップ、ストリートビューを使用しています。その以外については逐次出典を付けています。さらに、Wikipedia の英文版など外国語版などについては、逐次池田、青山が日本語訳しています。 スコットラドがイングランドに最初に勝利したスターリングブリッジの戦いの戦場は、スターリング城のすぐ南に行ったところにあります。この戦場は国立ウォレス・モニュメントのタワーの上からよく見えます。 ◆スターリングブリッジの戦場(Battlefield of Stirling Bridge) 出典:グーグルマップ 下は国立ウォレスモニュメントから見たスターリングブリッジの方向です。直線距離で1.5kmほど離れています。 出典:グーグルマップ ◆スターリング・ブリッジの戦いの概要 スターリング・ブリッジの戦い( Battle of Stirling Bridge)は、1297年9月11日にウィリアム・ウォレス、アンドリュー・マリー率いるスコットランド軍がスコットランド総督サリー伯ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍を打ち破った戦いで、スコットランド独立戦争におけるスコットランドの初の大きな勝利であり、スコットランドの自信は回復し、ウィリアム・ウォレスの名声は高まった。スターリング橋の戦いともいいます。 スターリングブリッジの戦いの戦場跡 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 スターリングブリッジの戦いの戦場跡 ウォレス・ナショナル・モニュメントより撮影 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 スターリングブリッジ 出典:Wikimedia Commons Public Domain, Link 現在のスターリングブリッジ 出典:グーグルマップ・ストリートビュー オールド・スターリングブリッジ 出典:グーグルマップ・ストリートビュー オールド・スターリングブリッジ 出典:グーグルマップ・ストリートビュー ◆スターリング・ブリッジの戦いの背景 ウィリアム・ウォレスは、1297年5月にイングランドに対して反乱を起こしてから何度かの小競り合いに勝利し、これに呼応して各地で反乱が広がって行きましたが、そのリーダーの1人が豊かな領土を有するサー・アンドリュー・マリーだったのです。 総督ワーレンは、既に老齢でスコットランドの気候を嫌ってほとんどイングランドに滞在しており、これらの反乱の知らせを受けても、当初は軽視して対応が遅れていましたが、9月にイングランド軍を引き連れスコットランド中部に入りました。これに対し、ウィリアム・ウォレスとアンドリュー・マリーの部隊は連合してスターリングの橋をはさんでイングランド軍と対峙しました。 ◆スターリング・ブリッジの戦闘 バノックバーンの戦いを前にして自軍兵士を整列させるロバート1世 出典:Wikimedia Coomons Public Domain, Link イングランド軍の騎士隊750人、歩兵18000人に対しスコットランド軍は騎士隊150人、歩兵7000人と数でもイングランドが優勢でしたが、ダンパーの戦いでスコットランドに大勝しているサリー伯は、兵力差以上にスコットランド軍を甘く見ており、橋は2人縦列で通る幅しかないにも拘わらず、別部隊を浅瀬から迂回させる提案を却下して、橋を渡っての進軍を命じました。 スコットランド軍はイングランド軍の先鋒が橋を渡るのを待った上で、槍で武装したスコットランド歩兵が横手から橋のたもとに突撃して、敵の先鋒と後続の連絡を遮断しました。孤立したイングランド軍先鋒は、ばらばらに崩され指揮官のクレッシンガムを始め、多数が戦死したのです。 橋を渡っていないサリー伯の本隊は無傷であり、まだ多数の兵を擁していましたが、サリー伯はこれ以上の戦いをあきらめ、橋を破壊してベリックに撤退しました。 ◆スターリング・ブリッジの戦いの影響 この勝利によりウィリアム・ウォレスの名声は高まり、まもなくナイトに叙任され、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」に任じられます。アンドリュー・マリーは、この戦いの負傷により数週間後に死亡しています。イングランドに対するスコットランドの初の大きな勝利であり、スコットランドの自信の回復に寄与しました。 この戦い以降、イングランドに味方していたスコットランド貴族の多くが反乱側につき、イングランドは支配地の多くを失いました。エドワード1世はフランスとのフランドルの戦いを中止して対応しなければならなくなり、フォールカークの戦いにつながって行きます。 以下は主に、ウォレス・ナショナル・モニュメント内のギャラリーで撮影したスターリングブリッジの戦いの絵画です。 スターリングブリッジの戦い ウォレス・ナショナル・モニュメントで撮影 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 スターリングブリッジの戦い ウォレス・ナショナル・モニュメントで撮影 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 スターリングブリッジの戦い ウォレス・ナショナル・モニュメントで撮影 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 スターリングブリッジの戦い ウォレス・ナショナル・モニュメントで撮影 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 「ロバーツ・ブルース」につづきます スコットランド総目次へ* |