ギリシャ旅行記 古代ギリシャと現在のギリシャ 鷹取 敦 掲載月日:2013年12月25日
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■ギリシャ・ツアー年末のせわしない時期ですが2013年12月18日〜24日のギリシャツアーに参加しました。往きは成田空港夜9時20定刻のUAEアブダビ首長国の国営航空であるエティハド航空で、アブダビ国際空港の4時間の乗り継ぎを含め、アテネ国際空港(エレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港)まで24時間、帰りは同じくアブダビで乗り継ぎ成田まで18時間を要しました。ギリシャ滞在は12月19日午後から22日までの実質3日半です。 全体の日程は以下のとおりです。2日目と3日目は長距離の自動車移動(約6時間ずつ)があるため、せわしない日程ですが、短期間で多くの場所を訪れることが出来ました。
■古代ギリシャ文明と近現代のギリシャ人ギリシャといえば、世界遺産に象徴されるエーゲ文明、古代ギリシャや、エーゲ海に面した暖かく、のんびりとした観光地のイメージが強く、一方、最近ではユーロ危機の引き金となった財政破綻やそれに伴う大規模なデモ等が日本ではよく知られています。古代ギリシャはヨーロッパ文明(政治、哲学、芸術)の源として、欧州や米国の過去としても認識されており、このことが近現代のギリシャの歴史に大きな影響を与えています。一方、古代ギリシャのイメージに反して、国家としてのギリシャは比較的新しく、1829年にアドリアノープル条約にて独立が承認され、1830年にバイエルン王国の王子オソン1世を国王に迎えて、ギリシャ王国として独立してからまだ180年あまりの若い国です。一定の地理的領域を持つ国家として統一されたのはこの時が初めてと言われています。 古代ギリシャにおいてはアテネやスパルタなどの都市国家が存在する世界であり、中世においてはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の主な構成民族がギリシャ人で公用語もギリシャ語でした。ただしビザンツ帝国においては、ギリシャ人は自らを「ヘレネス」(ギリシャ人)とは呼ばず「ロミイ」(ローマ人)と自称していました。ローマ帝国の臣民であり、正教キリスト教徒でありギリシャ語話者であることがギリシャ人のアイデンティティでした。イスラム国家であるオスマン帝国の支配下でも、イスタンブール(コンスタンティノープル)に世界総主教座が置かれ、イスラム教徒を支配者とする枠組みにおける、ギリシャ語を話す正教キリスト教徒がギリシャ人でした。 そのため、独立前のギリシャ人のアイデンティティは正教キリスト教徒にあり、多神教を祀った古代ギリシャ世界は異教徒の世界でした。18世紀西ヨーロッパからギリシャにも啓蒙主義が浸透し、自分たちが古代ギリシャ文明の正当な継承者であるという意識が押し出されてきたそうです。 歴史的には、独立した後のギリシャ王国、現在のギリシャ共和国の国民だけがギリシャ人ということではなく、地理的に広い範囲の人々が広義のギリシャ人ということになります。ギリシャの初代大統領カポディストリスは、イオニア諸島出身でロシアの外務大臣を務めた人物、現在のアテネ国際空港の名前にもなっているヴェニゼロスは、当時、オスマン帝国領だったクレタ島出身で、クレタ島がギリシャ領になったのはバルカン戦争によるものです。独立後、多くの「ギリシャ人」が、独立した国家であるギリシャに移住したり、トルコとの戦争の結果の強制的住民交換協定により強制的に移住させられたりしています。 独立当初のギリシャの領土は現在よりも小さかったのですが、19世紀から20世紀はじめまで、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とするギリシャ国家の実現を目指した領土拡張運動がイデオロギーとなり、幾度かの領土拡張を経て現在の国土に至っています。 (出典:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3d/ Map_Greece_expansion_1832-1947_ja.svg) 一方で、独立当初のギリシャ王国が、バイエルン王国から王子オソン1世を国王に迎え、その後、デンマーク王子であるゲオルギオス1世を国王に迎えたのは、独立戦争において列強諸国の支持を得るためと言われており、オスマン帝国、西欧列強諸国、ロシア等に翻弄されてきた歴史を象徴しています。 その後、枢軸国による占領、内戦、キプロスをめぐるトルコとの紛争、軍事独裁、民主制復活、EC正式加盟、ユーロ導入、債務危機までのギリシャの近現代史も非常に興味深いものとなっています。 ■ギリシャの財政危機現在のギリシャの財政危機は、軍事政権終焉後の選挙で勝利を収めた中道左派、全ギリシャ社会主義運動PASOK政権に端を発していると言えます。軍事政権直後のカラマンリス政権(新民主主義党ND)がECへの公式加盟を目指して、最低賃金の改定、公務員の基本給与の増額、設備投資、資金調達に関する規制の廃止等、穏やかな景気浮揚策をとり、自由市場システムを発展させることを目指すと同時に国家が主導的な役割を果たす国家統制的な側面を持っていました。 これに対してECの加盟に反対していたアンドレアス・パパンドレウは、EC加盟の10ヶ月後に政権を取り、女性地位向上、内戦後の国内の和解的な等の評価される政策を進める一方、経済的には民衆迎合的な政策を、借金を財源に行い、これがギリシャ経済の負の遺産になったと言われています。その後政権交代しても、民衆迎合的な政策を止めることができず、2009年にパパンドレウ首相(アンドレアス・パパンドレウの息子)が政権を奪回した際に、前政権NDが財政赤字の見通しについてウソをついていたことを明らかにしたことにより、ギリシャ財政危機が表面化し、ユーロ危機に繋がりました。直接的には前政権の批判ですが、元をたどれば自分の親が首相だった時からのツケだったわけです。 ちなみにパパンドレウは3代つづけて首相を務めています。ゲオルギオス・パパンドレウは第二次世界大戦期と1960年代、息子のアンドレアス・パパンドレウは1980年代と1990年代に、孫のゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウは2009年から、それぞれ首相を務めています。 ギリシャでは政権交代のたびに公務員が増え、統計も不正確なため、財政状況も公務員の数すら正確に把握できていない、と言われているそうです。 ギリシャ人の生活はのんびりしていて、朝から2時頃まで仕事をして、その後、お昼を食べてその日の仕事は終わりなのだと、現地でガイドさんが説明していました。一方、ユーロに加盟してから物価が上昇し、近年の緊縮財政もあり生活が厳しいため、仕事をいくつも掛け持ちしている人も少なくないようです。 ■現代ギリシャ人とデモギリシャでは債務危機の後の緊縮財政に反対する大きなデモが行われていますが、軍事政権の終焉のきっかけを作ったのが当時の学生デモだったということもあり、ギリシャ人にとっては「デモは文化」と言われているようですが、これによりギリシャの主要産業である観光に大きな影響が出ているそうです。今回のツアー中には遭遇しませんでしたが、在ギリシャ日本大使館のホームページでは「ギリシャでは、現在、アテネ、テッサロニキ等の都市部で大規模なストライキやデモが頻繁に実施され、市民生活に大きな影響を及ぼしています。ストライキ・デモの予定は頻繁に変更となっているため、報道等から最新の関連情報の入手に努めてください。」とされています(http://www.gr.emb-japan.go.jp/portal/jp/)。外務省の海外安全ホームページでは2013年12月25日現在有効な情報として「アテネ等における爆弾爆発および放火事件等の発生に関する注意喚起 」が示されています(http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcspotinfo.asp?infocode=2013C020)。 資料:「物語 近現代 ギリシャの歴史 独立戦争からユーロ危機まで」、村田奈々子著 「ギリシャ危機の真実」、藤原章生 つづく |