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短訪 平林寺 松平信綱

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

May 15 & December 29, 2015
Independent Media E-wave Tokyo
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◆松平信綱と平林寺 出典:平林寺公式Webより


出典:平林寺

 松平信綱は、関東の天領を支配した幕府の下層家臣団の一人で羽生領の代官大河内久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれました。

 大河内家は祖父秀綱が家督を継いで徳川家康に仕えたのち、幕府の代官頭伊奈家の家老を務めた家柄ですが、とても大名・老中など幕閣に進めるような家柄ではありませんでした。

 ところが、信綱の父久綱の弟である正綱が、家康の命により徳川氏の傍系「長沢松平」氏を継ぎ松平姓を名乗ることとなり、家康に仕えて近習出頭人から幕府の勘定頭に進み幕府財政を担当。寛永2年(1625)には、相模国甘縄ニ万ニ千百石の城主となったのです。

 信綱は、この叔父正綱の養子となることを望み、長沢松平氏を継ぎました。慶長9年(1604)に家光が誕生すると、信綱はその明敏な頭脳を見込まれて家光附きの小姓となり、伊豆守から寛永4年一万石の大名に列し、老中へと進み、武蔵国忍三万石から寛永20年侍従に昇叙し、正保4年(1647)には川越七万五千石の城主になりました。

 信綱は、幕府政治の確立に尽力し功績を残しましたが、川越藩政においても武蔵野新田開発や野火止用水の開削など多くの功績を残しています。「知恵伊豆」と称され、三代将軍家光への奉仕には数多くの逸話が残されています。

 元和6年(1620)信綱24歳の時、養父正綱に実子正信が生まれたことにより、信綱は松平家から別に家を興し「大河内松平」氏を名乗りました。

 平林寺が大河内氏により葬送の地となったのは、文禄4年(1595)に大河内秀綱の祖母である寿参尼が死去し、家康によって復興された岩槻の平林寺に埋葬されたのが始まりです。その後、祖父秀綱、実父久綱、養父正綱がいずれも平林寺に葬られました。また相前後して秀綱・久綱・信綱などの子女も平林寺に葬られたため、大河内松平氏にとって、平林寺はおろそかにできない廟所となったのです。


◆松平信綱とは 出典:Wikipedia


出典:Wikipedia

 松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られています。


◆松平信綱の生涯 出典:Wikipedia

出生

 慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれます。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力です。生母・深井氏は白井長尾氏の末裔であり、母方の祖父・深井好秀は長尾景春の玄孫でした。

養子

 慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となります。あるとき正綱が1人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願しました。

 正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねました。「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えました。

 正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども1通り父母に申してのとになり字を遣わそう」と挨拶しました。両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十郎なり」と述べたといいます。

家光の小姓・元服

 慶長8年(1603年)9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁しました。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になりました。そして慶長10年(1605年)12月3日に5人扶持となります。

 慶長16年(1611年)11月15日に前髪を落として元服します。慶長18年(1613年)1月28日に井上正就の娘と結婚しました。ただし慶長15年(1610年)から慶長16年(1611年)にかけて胃病を患い在郷で養生していたといいます。

◆徳川 家光

 徳川家光は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の二男(嫡男)。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。


徳川家光

 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。

出典:Wikipedia

出世の道

 元和6年(1620年)1月20日に500石を与えられました。 このとき家紋も三本扇としました。この年の12月下旬に養父の正綱に実子の松平利綱(正次・左門)が生まれると、信綱は名跡を継ぐのは利綱であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年(1623年)6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けました。7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官されました。

 寛永元年(1624年)5月16日には1,200石を加増されました。寛永3年(1626年)7月には家光の上洛に再度従います。

 寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられ、合計1万石の大名となりました。このときに一橋門内において屋敷を与えられました。寛永7年(1630年)5月17日には上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増されます。

 寛永9年(1632年)1月に大御所だった秀忠が死去すると、信綱は養父と共に遺銀400枚を賜わりました。 4月13日に家光の日光山参詣に従います。11月18日には老中と小姓組番頭を兼務しました。

 寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に6人衆に任命されます。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられました。

 この年の5月から井上正重らと近江国や大坂・奈良などを巡検しました。11月には徳川忠長配流の地を予定してか上総国佐貫を巡検しています。

 寛永11年(1634年)3月3日に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定。6月には家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、6月27日に家光より駿府城で刀と盃を賜わりました。7月29日に従四位下に昇叙されます。

 寛永12年(1635年10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免されました。 11月には寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定。11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を固めて職務を円滑に進めることができるように改革を進めました。

 寛永13年(1636年)4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務め、12月の朝鮮通信使の日光参詣では惣奉行として随行しました。

 寛永14年(1637年)10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応しています。


◆幕藩体制の完成

 戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で川越藩に移封されました。

 信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水(これは後述します)の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めました。

 島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった(これについても後述します)。またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させました。

 寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括しました。

 寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めました。慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜わりましたが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶しました。この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めています。

家綱時代

 慶安4年(1651年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変[19]を7月に鎮圧しました。承応元年(1652年)9月に老中暗殺を目的とした承応事件も鎮圧しました。明暦3年(1657年)1月の明暦の大火などの対応に務めています。

最期

 寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕しました。1月19日に小用がつかえたが服薬して回復しました。1月21日には将軍の上使として大久保忠朝が派遣されました。

 1月26日には病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いして遺言までしています。1月27日には久世広之、1月29日に本多忠隆らが派遣されて茶・菓子・薬を賜わった。このため見舞いの使者がおびただしく訪れています。

 3月になると危篤状態となり、3月15日に老中の阿部忠秋に嫡子・輝綱のことを頼んだといいます。3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。跡を長男の輝綱が継いでいます。

 以下は松平信綱の家臣団です。これだけ有能な家臣をもっていたことも、信綱が高く評価されるゆえんかも知れません。

 ※ 松平信綱の家臣団

 なお、以下は徳川信綱に対する才智と評価    

・幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された。

・家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」(『空印言行録』)と評し、忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。また「伊豆守ごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の三好政盛に語った。

・柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。

・酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している。

・阿部忠秋は「何事にもよらず信綱が言うことは速い。自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」とその才智を認めている(『事後継志録』)。

・行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ、のちの大正11年(1922年)12月に埼玉県で最初の市制を布かれるきっかけになった。信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である。

・政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)。

出典:出典:大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)


つづく