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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所(概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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ヴォルィーニと東ガリシア大虐殺( Volhynia & Eastern Galicia: ウクライナ  周辺地図
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概要

 ヴォルィーニ(Volhynia)と東ガリシア(Eastern Galicia)におけるポーランド人虐殺は、ウクライナ蜂起軍(UPA)によるナチス・ドイツ占領下のポーランドで行われた民族浄化の一部である。

※ 英  Volhynia and Eastern Galicia Massacres
   独 Wolhynien und Ostgalizien Massacres
   ウクライナ Волинь та Сх?дна
      Галичина Мааре
   ロシア Волыни и Восточной
      Галичина западной стороны
   波 Wo?y? i Wschodnia Galicja Masskres
   日 ヴォルィーニと東ガリシア大虐殺

 ヴォルィーニ、ポリーシャ、ルブリン地域と東ガリシアの地域で1943年に始まり、1945年まで続いた。[1] 大量虐殺のピークは1943年の7月と8月であり、犠牲者の大半は女性と子供だった。[2]  UPAの殺害方法は特に残酷であった[3] [4] 。東部ガリシアで40.000人~ 60.000人が、ヴォルィーニにおける死亡は30,000~40,000人、両地域の合計で10万人 [5] [6] [7] [8]が犠牲となっている。

 この殺害は、ウクライナ民族主義組織(OUN-B)のバンデラ派とウクライナの反政府武装組織による第2回会議の下、 1943年2月17日~23日(他の情報源によると1943年3月)に起きた。殺害の目的はウクライナ人以外のすべての国民を将来にわたりウクライナ国から追放することにあった。[9]  UPAは、ポーランドの民間人の掃討にその活動を限定するものでなく、当該地域のポーランド人をすべて消滅させたかった。[10] 

 この暴力は、UPAの民族主義的立場を支えているウクライナ正教会の聖職者の多くが支持していた。[11] 虐殺は、ポーランドとウクライナの軍隊がドイツの占領地で、またヴォルィーニのポーランド軍がウクライナの攻撃に呼応して国内紛争を引き起こした[12]。[13] [14]

 2008年、ヴォルィーニとガリシアのポーランド人に対するウクライナの民族主義者が犯した大虐殺は、ポーランド国立記念館によって記述されたように明確な特性をもつ大虐殺である[15] [16]。 2016年7月22日、ポーランド議会はこの虐殺を認めた決議案を可決した。[17] [18]


背景(本件はガリシア・ヴォルィーニ戦争についても参照のこと)

 ガリシアとヴォルィーニ公国は11世紀にポーランドとロシアの国境に位置する領土として形成された[境界の明確かが必要]。この二つの公国は、ポーランドのカシミール大王3世が1349年に敗北したモンゴルからガリシア-ヴォルィーニ公国を獲得し、14世紀にポーランドの一部となった[19]。


1939年のヴォルィーニ(Volhynia)と東ガリシア(Eastern Galicia)の地図
Map of Volhynia (blue) and Eastern Galicia (orange) in 1939

 ポーランドとウクライナの緊張は、17世紀のフメリニツキーの乱(Khmelnytsky蜂起)にまでさかのぼり、領土、宗教、社会的側面での対立は今も両国の記憶に残っている[20]。両国の関係は常に仲が良かったわけではなく、クレスシー地域(現代西部ウクライナと西ベラルーシに相当)に住むポーランド人とウクライナ人、さらにチェコ人、ドイツ人、スロバキア人、ユダヤ人そしてその他民族と共に、数百年にわたる市民レベルにおいても、経済的、政治的レベルでも協力して生きてきた。

 2つの地域にはポーランド人とウクライナ人が住み、その他、チェコ人、スロバキア人、新たに入ってきたアルメニア人とともに後にポーランドに編入された。19世紀には、ヨーロッパ全土でナショナリズムが起こり、市民の民族性が問題になり、第一次世界大戦後に紛争が新たに発生した。ポーランド人もウクライナ人も、ヴォルィーニとガリシアの領土を主張した。

 戦後、特にポーランドで形成されたウクライナ民族主義者組織による準軍事行動の繰り返しとそれに続く国の抑圧の結果として、1930年代には第2次ポーランド共和国で政治紛争が激化した。1930年の夏、ウクライナの農民は2,200の土地・建物に火をつけた[22]。その後の州警察による連座としての集団懲罰は、ポーランド政府とウクライナ人民の間の敵意を一層深めることになった[22]。

 第二次世界大戦が始まり、1939~1941年のソ連の侵攻と併合(ポーランドの9月キャンペーンを参照)に始まり、好戦的なウクライナ人の民族主義過激派は、ポーランド人の領土に対する野望を信用せず、彼らの領土からポーランド人を一掃する機会を狙っていた。歴史的にはウクライナの土地と考えられていた領土であり、ポーランド人国家がウクライナ人に迷惑を掛けたことに対する明確な報復として、領土からポーランド人を浄化する絶好の機会と見ていた。[要出典]ヴォルィーニとガリシアのポーランド人の殺害は、ソ連の領土併合の直後から始まり、ドイツ占領時に頂点に達した。そして、戦争の最後の年にソ連が西ウクライナを再占領した後も続いた。


第一次世界大戦後のポーランド - ウクライナ関係
(詳細は東ガリシアにおけるウクライナ人の鎮定(1930)を参照のこと。)

 オーストリア=ハンガリー政府が第一次世界大戦後に崩壊したとき、ポーランド人とウクライナ人はウクライナのルワフ(Lwow)、ウクライナ語でリヴィグ(Lviv)、ドイツ語でレンベルグ(Lemberg)という町の統括を巡ってもめていた。人口はほとんどがポーランド人だったが、周辺の郊外地域にはウクライナ人が多い村々に囲まれていた[24]。この地域は1772年までポーランド・リトアニア連邦に属していたが、その後ポーランドの分割とともにオーストリア帝国に併合された。

 ポーランドとウクライナの戦争として知られているこの紛争はウクライナの指導者シモン・ペトリューラ(Symon Petliura)がウクライナの主張/要求を西に拡大しようとして、ヴォルィーニにも広がっていった。戦争は民間人の犠牲者の数が比較的少なく、両陣営のプロの軍隊によって戦われた。1919年7月17日、停戦が調印された。1919年11月21日、パリ平和会議は東ガリシアをポーランドに与えた。この領土の損失に失望した西部ウクライナの退役軍人たちの世代にとって、ポーランドがウクライナの主要敵国であるとの確信を残すこととなった[25]。

 ポーランド国家が再建され、分裂から1世紀以上経っているにもかかわらず、ポーランドとソビエトロシアの境界線はベルサイユ条約によって確定されることはなかった。その結果、ウクライナとベラルーシは両方とも旧ロシア帝国の一部とみていたソヴィエトが1920年のポーランド・ソビエト戦争を始めた[26]。ソビエト軍はウクライナ軍をポドリアに退去させ、ペトリューラはポーランドのジョゼフ・ピウスツキー(Jozef Pi?sudski)と同盟を結ぶことを決めた。

  1920年4月21日、ピウスツキーとペトリューラは、ズブルチ川(Zbruch River)をポーランドとウクライナの国境とすることを受け入れる軍事同盟に署名した[26]。この合意に続いて、西ウクライナ共和国の政府はそれを裏切りとみて、ウィーンに亡命した[27]。ソビエトとの戦争終結後、リガの和平は1921年にウラジミール・レーニンにより署名された。其の結果、ヴォルィーニと東ガリシアは第二ポーランド共和国に併合され、残りの現在のウクライナはウクライナソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦(USSR)の一員となった。

 一方で、追放されたウクライナ政府は1923年3月14日に国際連盟の大使評議会によって解散させられた。長い一連の交渉の後、国際連盟は、こうして、「ポーランドがガリシア東部の民族学的条件が完全に自治権を持つに値する地域であると認めることを考慮したうえで」東ガリシアをポーランドに編入することを決定した。[28]


バンデラ(Bandera)派閥 略称OUNの台頭 OUN-B

 ヴォルィーニのポーランド人の虐殺につながる意思決定とその実施は、主にOUNの過激派であるバンデラ(Bandera)派閥(略称:OUN-B)による仕業であり、他のウクライナの政治的または軍事的なグループによるものではなかった[29]。OUN-Bのイデオロギーとは;統合的な国家主義であり、純粋な国家と言語が望ましい到達点・目標であり[30]、

 国家対国家の武力闘争と暴力の賛美[31]であり、全体主義であり、これらによってこそ、国家は一人一党によって支配されなければならないと考えていた。OUNの中道派であるMelnyk派閥はムッソリーニの独裁主義の特徴を賞賛したが、OUNの中でもより過激派であるBandera派閥はナチズムの体制・特徴を賞賛した[32][33]。OUNの設立当時、ウクライナの中で最も人気のある政党はウクライナの民主同盟であり、ポーランドのルールに反して、ポーランドからの独立を達成するための平和的かつ民主的な手段を求めた。

 一方、OUNは、もともと西ウクライナにおける末梢的な運動であり、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の長である Metropolitan Andrey Sheptytsky といったウクライナ社会の主流派からは暴力集団として非難されており、OUNのリーダーについては、「誰であれ、若者の士気をくじき、風紀を乱す者は人民の的である」と指摘されていた。OUN-Bが人気を高め、究極的にはウクライナ社会の権力を独占し、虐殺が起こるべくして起こる上で必要な条件として、複数の要因が寄与していた[34]。


第二ポーランド共和国における戦間期

 1939年のソビエト侵攻の直前、ヴォルィーニは第二ポーランド共和国の一部だった。 イェールの歴史家、ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)によると、1928年から1938年までのヴォルィーニは「東欧で最も野心的な信教の自由を政策とする地域」であった [35]。ピウスツキーとその仲間たちは、ウクライナの文化、宗教的自治、および正教会のウクライナ化を支援することを通じて、ポーランド国家へのウクライナの忠誠心を達成し、国境地域におけるソビエトの影響を最小限に抑えることを望んでいた。このアプローチは、1935年のピウスツキーの死後、徐々に放棄された[35][36]。

 ガリシアの農村の人々の不安は、ポーランド警察が地域を平和・安定化するために地元のウクライナ人に対して連帯責任(集団的責任)の方針を厳守させることとなり、その結果として、ウクライナのコミュニティセンターと図書館の撤去、財産と生産物の没収、そして抗議する者たちに対して殴打するといった行動に現れた。

 ウクライナ国会議員たちは、市民が選挙でポーランドの候補者に投票することを恐れ、選挙に参加することを妨げるために家の中で拘束されていた[37]。ウクライナの窮状、抗議、および鎮定は、「世界の注目を集める事件」として国際連盟で注目をあび、ポーランドは欧州の政治家からの非難を浴びることとなった。進行中のポーランド国家政策は、その地域における民族の亀裂を深化させることとなった[37]。

 1930年代、ウィーンで結成されたOUNは、ポーランドの内相ブロニスラフ・ピエラキ(Bronis?awPieracki)のような有名なポーランドの政治家や、 TadeuszHo?owkoのようなポーランドとウクライナの穏健派の暗殺をはじめとするポーランドでのテロ活動を行った。

 ヴォルィーニは、一方ではポーランド警察と、他方では多くの不満を抱いたウクライナ農民が支持する西ウクライナ共産主義者との間の、一層激しい紛争の場所となった。共産主義者はストライキを組織し、1935~1936年に少なくとも31人の警察の情報提供者の疑いのある者たちを殺害し、ポーランド国家と「協力」しあとしてウクライナの当局者を暗殺し始めた。警察は大量逮捕を実施し、1935年に18人の共産主義者を殺害したと報じ、さらに、1936年には銃撃戦と逮捕行動の課程で少なくとも31人を殺害した。[38]

 1937年から、ポーランド政府は、ポーランド化の道具として宗教を利用し、正教会の信者をローマカトリック教に改宗させるために積極的なキャンペーンを開始した[39]。190以上の正教会が破壊され、150校がローマカトリック教会に改宗させられた[40]。残りの正教会の教会は、説教の中でポーランド語を使用することを余儀なくされた。1939年8月、ヴォルィーニ州の首都ルーツクで最後に残った正教会は、ポーランド政府の法令によってローマカトリック教会に改宗させられた[39]。

 1921年から1938年の間に、数千人のポーランド入植者と戦争退役軍人が、インフラ整備が遅れているヴォルィーニとガリシア地域に定住するよう奨励された。そこは、建物がなく、道路も鉄道への接続もない地域だった。多大な困難があるにもかかわらず、1939年までに人口は17,700人にまで膨れあがり、3500の新しい集落ができた[41]。ウクライナの情報では、ガリシアとヴォルティニアへのポーランド人入植者の数は、1930年代の入植者をあわせると総数で30万人に達したと推定されていた[42]。ソ連からシベリアへの強制追放により、入植者の定住期間が短かったこともあり、結果として地元住民の反ポーランド人感情に火をつけることとなった[42] [43]。

 第2ポーランド共和国が実施した厳しい政策や、時にはOUN-Bの暴力に刺激され、[44][45]、2つの民族間の対立がさらに悪化した。1934年から1938年の間に、ウクライナ人に対する一連の暴力的で時には致命的な攻撃がポーランドの他の地域でも行われた[47]。

 ヴォウィン・ヴォイビードシップ(Wo?y?Voivodeship)地域においても、いくつかの新たな政策が実施された結果、ウクライナの言語、文化、宗教が抑圧され、敵対関係が拡大した[49]。ヴォイビードシップの人口の約68%が第1言語としてウクライナ語を話したが(下表を参照)、事実上、警察を含む政府と行政のすべての職務はポーランド人が取り仕切っていた[50]。

 北東大学(Northeastern University)のジェフリー・バーズ(Jeffrey Burds)は、ポーランドの民族浄化への高まりは、第二次世界大戦中にガリシアとヴォルティニアで起こったことがその根源にあると考えている[47]。

 ウクライナの人々は、ポーランド政府の政策に対して憤慨した。ヴォルィーニの当時の大衆の気持ちについてのポーランドの報告書は、1938年10月から若いウクライナ人の次のようなコメントを記録している。「私たちはあなたがたで柱を飾り、あなたたちの妻たちで木々を飾る」と。第二次世界大戦が始まるまでに、OUNメンバーは2万人もの活動的な組織へと増大し、一方でその数の何倍もの支持者がいた。[51]


ソ連の政策(1939-1941)
(詳しくは その他の情報:ウクライナ西部のソ連合併、1939-1940を参照)

 1939年9月、第二次世界大戦の発生時に、モロトフ・リッベントロップ協定の秘密協定に従って、ポーランドは西からナチス・ドイツに、そして東からソ連に侵略された。ヴォルィーニは、ソビエトによって2つの州(旧ソ連の自治共和国内の地方行政区)、すなわち、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のRovnoとVolynに分割された。

 併合に際して、ソビエトの内務人民委員部は、社会運動家や軍の指導者を含むポーランドの中高層階級を主に排除し始めた。1939~1941年の間、20万人のポーランド人がソビエト当局によってシベリアに追放された[52]。多くのポーランド人捕虜は東ウクライナに追放され、そのほとんどはハリコフの内務人民委員部事務所の地下で処刑された[53]。ソ連の東ヨーロッパの一部、ウラル、シベリアに移送されたポーランド人市民の数は、およそ120万人から170万人に及ぶと推定されている[54]。

 数万人のポーランド人が、ソビエト占領地帯からドイツ人が支配する地域に逃げた[52]。追放と殺人によって、地域社会の指導者であったポーランド人の命が奪われていった。

 ソビエト占領中、地方自治体のポーランド人たちはウクライナ人とユダヤ人に取って代わられ、ソビエト内務人民委員部はウクライナの独立運動を腐敗させていった[55]。すべての地方でウクライナの政党が廃止された。20,000~30,000人のウクライナ人活動家がドイツ占領地へ逃亡した。逃げなかった人のほとんどは逮捕された。

 例えば、穏健な左翼の民主党ウクライナ民主同盟の頭であるディミトロ・レビツキー博士や戦前のポーランド議会のウクライナ代表団のチーフ、そしてその同僚の多くが逮捕され、モスクワに追放され、二度と消息はわからなかった[56]。ウクライナ社会の中で中程度またはリベラルな政治的傾向を代表するような個人、組織、および政党をソビエトが追放したことにより、彼らは、西部ウクライナのなかで唯一、重要な組織としての存在感をもっていた政党として、地下で活動していた過激な「左翼ウクライナ民族主義者組織」を去っていった[57]。


ナチス・ドイツによる政策(1941-1943)

 1941年6月22日、ソ連が占領していたポーランド東部の領土は、ドイツ、スロバキア、ハンガリー軍に襲われた。ヴォルィーニの赤軍は数日間しか抵抗できなかった。1941年6月30日、ソビエト連邦軍は東方へ撤退し、ウクライナの民族主義者たちによるサボタージュ行為もあってヴォルィーニはナチスに蹂躙された。

 OUNはウクライナの人民民兵組織を組織してポグロムを開催し、ドイツ人を支援してポーランド人、ユダヤ人、共産主義者やソビエト活動家とみなされた人々の一斉検挙と処刑を行った[58] [59] 、中でも最も注目されるたのは、ルワフ(Lwow)、スタニスワブフ(Stanis?awow)、コーロステニ(Kosten)そしてソカル(Sokal)だった。[60]

 1941年、ウクライナの指導者であったステパーン・バンデーラ(Stepan Bandera)の2人の兄弟がドイツ民族対策本部の強制収容所(ボルクデュシュケ・カポス)においてアウシュヴィッツに投獄されている間に殺害された[61]。ヘウム(Che?m)地域では、ドイツ当局との協力のもとで394人のウクライナのコミュニティリーダーがポーランド人によって殺された[62]。

 ドイツ占領の初年、OUNはメンバーにドイツ警察に加わるよう促した。警察官として、彼らは武器の使用を訓練され、その結果、彼らは約20万人のヴォルィーニのユダヤ人を殺害するドイツ軍親衛隊を支援することができた。実際のユダヤ人殺害に対するウクライナの警察の役割分担は小さかったが(主に補助的な役割を果たした)、ウクライナ警察が学んだのは;ドイツの虐殺技術、すなわち事前の詳細な計画と慎重な立地選定、絶滅する前に地元住民に偽の保証を行うこと、そして、突然の包囲と大量殺戮といったことだった。1942年から行われたこの訓練は、1943年のポーランド人の殺害におけるUPAの効率性を裏付けている。[63]。


民族浄化
前奏曲
 
 Mykola LebedとRoman Shukhevychの管理下にありウクライナの唯一の民族主義グループであるOUN-Bは、ヴォルィーニのポーランド人を対象とした民族浄化をもくろんでいた。ウクライナ人民革命軍の創設者であるタラース・ブーリバ=ボロヴェツ(TarasBulba-Borovets)は、この考え方を拒否し、反ポーランド人大虐殺が始まったときにそれを非難した[64] [65]。 OUN-Mの指導者たちは、このような作戦が1943年時点で有利であるとは信じていなかった。[66]

 ヒトラーがソ連を攻撃した後、ポーランド亡命(臨時)政府とウクライナのOUN-Bは、ドイツとソ連の間で双方が消耗する戦争が起きた場合、この地域はポーランド人とウクライナ人の争いの場となると考えていた。この地域をポーランドに取り戻すことを望んでいたポーランド亡命政府は、将来の反ナチス蜂起の全体計画の一部として、この地域を迅速に武力で取り戻そうと計画した[67]。この考え方は、OUNがナチスと先に連携していたことによって一層複雑なものとあり、1943年までポーランド政府軍とOUNの間の合意はできなかった[66]。

 東ガリシアでは、ドイツ占領下において、ポーランド人とウクライナ人の間の敵対関係は激化した[68]。1939~1941年にかけてのウクライナ政府がソビエト政府と連携し、さらに、後のドイツ政権と連携したことからして、地元のポーランド人の一般的な合意事項は、ウクライナ人をこの地域(領土)から除外しなければならないというものだった。1942年 7月、リビフに居た自国軍スタッフによる覚書には、100万から150万人のウクライナ人をガリシアとヴォルィーニからソビエト連邦やポーランド全土に分散して追放しなければならないと勧告していた[68] [69]。

 一部のウクライナ自治政府の提案は、ワルシャワの自国軍とロンドンのポーランド亡命政府によって議論されていたように、地元のポーランド人の間では支持されないと思われた。1943年の初めに、地下のポーランド人はウクライナ人との和解の可能性を検討するようになった。しかし、これは、いずれの側もリヴィウへの要求を撤回することを望んでいないので、実現しないことが判明した[68]。

 OUNは、戦前でさえ、全体的な形での完全なナショナリズムの概念に固執し、そのため、ウクライナ国家の民族的均質性を求め、ウクライナの領土からポーランド人を一掃することによってのみポーランドの敵を打ち破ることが出来ると考えていた。

 OUN-Bの視点からすると、ユダヤ人は既に消滅しており、ロシア人とドイツ人は一時的にウクライナにいるだけだったが、ポーランド人は強制的に抹殺しなければならない存在だった[66]。 OUN-Bは、ポーランドとの戦前の国境を再確立する際に、将来的なポーランドの力を奪うためにも、ドイツが依然としてその地域を管理している間に、迅速に動かなければならないと信じていた。その結果、ヴォルィーニとガリシアの現地OUN-B指揮官(少なくともOUN-B指導者そのもの)は、テロと殺人によるポーランド人の民族浄化が必要であると判断した[66]

 ポーランドとウクライナの両方の地下報告からもわかるように、当初、ウクライナのナショナリストの唯一の主な関心事は、この地域で活動している強力なソビエトのパルチザングループだった。グループは主にソビエト連邦軍で構成され、当初は地方の居住地を襲撃することに特化していたため、ドイツ軍のテロを増やすことを期待していたOUNとポーランドの自衛隊の両方にとって邪魔になっていた。 

 これらの懸念は、ソビエトのパルチザンのための実際の支援活動や支援活動と言われた活動との関係でヴォルイーニ村全体を鎮定化した際に、すぐに具体化された。ポーランドの歴史編集では、これらの行動のほとんどをウクライナの民族主義者のせいにしたが、現実には、ドイツの直接監督下でウクライナの補助警察によって行われたものだった。

 最も知られている事例の1つは、1942年11月13~14日に、ルーツク郡のOborki村の鎮定であった。ほとんどの行為はウクライナの職業警察が実施したものだったが、53人のポーランド人村民の殺害は、その作戦行為を監督していたドイツ人によって個人的に行われた犯罪行為だった[70] [71]

 1942年に何ヶ月もの間、OUN-Bはヴォルィーニの状況を管制することが出来なかった。そこでは、増大するドイツの恐怖に対抗するため、ソビエトのパルチザンたちや多くの独立したウクライナ人の自営グループが形成されていたのである。

 最初のOUN-B軍事グループは、他の独立したグループを抑圧することを目標として、1942年秋にヴォルィーニで創設された。OUNは、ウクライナにおけるポーランド人問題を解決する方法として、1943年2月までにウクライナの民間ポーランド人を殺害する政策を開始した。1943年3月、約5,000人のウクライナの警官が武器で負けて、UPAに加わった。十分に訓練され、よく武装しているこのグループは、UPAがヴォルィーニで活躍する他のウクライナ人グループの優位に立つ上で貢献した。

 すぐに、新しく創設されたOUN-B軍は、4つのOUN-M部隊とウクライナ人民革命軍を含むヴォルイーニの他のウクライナ軍団を破壊するか、または吸収することができた。ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)によると、バンデラ党派のパルチザンたちは、 MelnykやBulba-Borovetsへの繋がりを想定して、何万人ものウクライナ人を殺害した[64]。OUN-Bは、ウクライナ人にポーランド人を殺害するよう促すポスターとチラシを添えて、「外国の要素」を粛正するための手続きを進めた。1943年の春、UPAはヴォルイーニの農村部の支配をドイツから奪取し、其の支配を確実なものとし、ポーランド人に対する大規なUPA活動を開始した[52] [66]。


ヴォルィーニ(Volhynia)
出来事

 1939年から1943年の間に、ヴォルイーニのポーランド人はすでにその地域の人口の約8%(およそ20万人)に減少していた。彼らは田舎に散らばり、ソ連の追放によって彼らの精鋭(エリート)を奪われ、地方のパルチザン自治軍も、国家権威もなかった(ドイツ人を除く)[72]。

 1943年2月9日に、Hryhory Perehyniakが指揮するUPAグループは、ソヴィエトのパルチザンであると偽って、Sarny郡のパロッシル居留地を襲った[73] [74][75]。それは虐殺の序曲と考えられており[76]、その地域のUPAが犯した最初の大量殺人として認められている。犠牲者数は推定は、149人[77]から173人[78]である。

 1943年3月にコストポリー郡とSarny郡から始まり、虐殺は西側方面へと組織的に行われていった。4月、彼らはKrzemieniec、Rivne、Dubno、Lutskの領域に移動した[79]。1943年3月下旬から4月上旬にかけて、最初の数日で約7,000人の非武装の男性、女性、子供が殺害された[80]。

 4月22~23日の夜、Ivan Lytwynchuk(別名Dubovy)が指揮するウクライナ人グループが、Janowa Dolinaの居住区を攻撃し、600人を殺し、村全体を焼き払った[81]。生き残った人はほとんどが友好的なウクライナ人の家に避難した人々だった[82]。Lipnikiの村では、ミロスワフ・ヘルマシェフスキ(Miros?awHermaszewski:ポーランドの唯一の宇宙飛行士)氏の家族全体とともに[83]、およそ180人の村人全員が殺された[84]。その殺害者たちは、ウズベキスタンのキシエリン攻撃に関与していた作曲家クルゼシミール・デブスキ( Krzesimir D?bski)の祖父母を殺害した[85]。しかし、デブスキの両親は生き残って、友好的なウクライナ人家族の家に避難した。

 その他の大虐殺について、UPAの報告によると、Szumski地方のKutyやWebski地方のNowaNowica地方のポーランド人居留地は、ゲシュタポとドイツ当局との協力によって清算された[86]。“ポーランドの資料によれば、少なくとも53人のポーランド人が殺害されたが、Kuty自衛隊はUPA攻撃を撃退した。残った住民は、銃声が鳴り響くKutyに到着したドイツ人に付き添われて村を放棄することを決めた[87]。UPA司令官の一人であるMaksymSkorupskyiは、日記に次のように書いている。「連日、日没後、Kutyでの行動が始まってからは、空はあちこちが火災で燃え上がっていた。ポーランドの村は燃えていた。」[87]。

 1943年6月までに、Kowel、W?odzimierzWo?y?ski、およびHorochowの各郡に攻撃が広がり、8月にはLuboml郡にも攻撃が広がっていった。Kurskでのソビエトの勝利は、民族浄化が大虐殺の激化の刺激となり、1943年6月と8月にはピークに達した[55]。1943年6月、UPA-NorthのDmytro Klyachkivsky主席司令官は、以下のような秘密の命令を出している:

 我々は、ポーランドを構成する要素を一掃するための一大行動を起こす必要がある。ドイツ軍が撤退するので、我々はこの機会をとらえて、16歳から60歳までの男性全体を粛正すべきである。我々はこの戦いに負けることはできない。ポーランド軍を弱体化させるためにあらゆることをする必要がある。大規模な森林の隣にある村と居住地は、地球の表面から抹消されるべきである[88] [89]。

 それにもかかわらず、犠牲者のほとんどは女性と子供だった[2]。1943年中頃、ポーランドの民間人の殺害の波の後、ポーランド人はUPAとの交渉を開始しようとした。 ポーランド亡命政府とAKの2人の代表、Zygmunt RumelとKrzysztof MarkiewiczはUPA指導者と交渉を試みたが、1943年7月10日にKustyczeの村で捕獲され殺害された[91]。一部の情報筋によると、彼らは死ぬ前に拷問されたと主張している[92]。

 翌日の1943年7月11日、虐殺の最悪の一日とされ[93]、UPAが村から村へ行進し、ポーランドの民間人を殺害したとする報告が多数ある[93]。その日、UPAの部隊は、コウェル、ホロチョウ、ウロジミエス・ヴォウィンスキーの3つの郡にあるポーランド人の村と集落を取り囲んで攻撃した。作戦行動は午前3時に開始され、ポーランド人は逃げる機会がほとんどなかった。

 虐殺の後、ポーランド人村は焦土と化した。生き残った少数の人々によると、行動は慎重に準備されていた。大虐殺の数日前、ウクライナ人の村でいくつかの会合が開催され、その間にUPAのメンバーは村人にすべてのポーランド人の虐殺が必要であると話していた。其の結果、1943年7月11日、ウクライナ人は167の町と村を攻撃した[95]。数日以内に、不特定多数のポーランド人の村が完全に破壊され、人々が殺害された。

 グロー(Gurow)のポーランド人の村では、480人の住民のうち70人しか生存していなかった。オルセーシン(Orzeszyn)の居住地では、UPAは340人のポーランド人のうち306人を殺し、サドウダ村では600人のポーランド人住民のうち、わずか20人しか生存しなかった。また、ザガイェ(Zagaje)では、350人ポーランドのうち、生存していたのはごくわずかだった[94]。この虐殺の波は、7月16日まで5日間続いた。UPAは、特にポーランド人が追放され、殺されたり追放されるまで、特に農村部で民族浄化を続けた。これらの行動は多数の部隊によって行われ、これらの部隊はうまく調整され、徹底的に計画されていた[55]。

 1943年8月、ポーランドのGaj村(Kovel近く)が焼失し、600人が虐殺され、WolaOstrowiecka村で、14歳以下の220人の子供を含む529人が殺され、Ostrowkiには246人の子供を含め438人が殺された。1992年9月にこれらの村で掘削が行われ、死者の数が確認され
た[94]。

 同じ月、UPAは、ポーランド人のすべての村に、「48時間以内にバグ川やサン川の対岸に退去せよ、さもなければ、死だ(殺す)」という通知を出した[97]。ウクライナ人の攻撃者たちは、虐殺行為を村や集落に限定し、町や都市は攻撃しなかった。

 殺害はヴォロディームィル・クビヨーヴィチ(Volodymyr Kubiyovych)の下、ウクライナ中央委員会によって反対された。 それに応えて、UPA部隊はウクライナ中央委員会の代表者を殺害し、説教壇でウクライナ中央委員会からの訴えを読んだウクライナ人のカトリック司祭も殺害した[98]。

 虐殺を目撃したポーランドの歴史家W?adys?awFilarは、ウクライナ人士官たちがUPA-OUNの指導者に行動を報告した資料から多数の文書を引用している。たとえば、1943年9月終わり頃、司令官LysyiはOUN本部に次のように報告した:“1943年9月29日、私は、WolaOstrowiecka(Wola Ostrowieckaの虐殺を参照)とOstrivky(虐殺を参照)の村で行動を起こした。

 私は最年少のものから始めてすべてのポーランド人を粛正した。その後、すべての建物が焼き払らわれ、すべての物品が没収された”[99]。その日、Wola Ostrowieckaでは、529人のポーランド人が殺害され(14歳未満の220人の子供を含む)、Ostrowkiでは、ウクライナ人が438人(246人の子供を含む)を殺した[100]。


方法

 残虐行為は無差別に制限なく行われた。被害者は、年齢や性別にかかわらず、繰り返し拷問されて死に至った。ノーマン・デイヴィス(イギリスの歴史学者:Norman Davies)は其の著書「ノー・シンプル・ヴィクトリー(簡単な勝利はない)」のなかで、大虐殺についての短いが非常に衝撃的な描写をしている;

 村々は虐待された。ローマカトリック教の司祭たちは斧で打たれはりつけされた。教会はすべて、教区民とともに焼かれた。離れたところの農場は、干し草用三つ叉(熊手)や台所用ナイフを手にした暴徒たちに襲撃された。喉を切ら、妊婦たちは銃剣で突かれ、子供たちは二つに切断された。男性は畑で待ち伏せされ、連行された。加害者たちは州の将来について判断することができなかった。しかし、少なくとも彼らは今後はポーランド人がいなくなることだけは判断できた[101]。

 1944年の初めから、OUN命令は次のように述べている:

 すべてのポーランド人の痕跡を一掃する。カトリック教会や他のポーランド人の礼拝堂などすべての壁を破壊する。中庭の果樹園や樹木を破壊して、そこに誰かが住んでた痕跡をなくすこと、・・・・ポーランド的なものが何か残っていると、ポーランド人は私たちの土地に対して権利を主張するかもしれないということに注意せよ。

 UPA司令官の1944年4月6日の命令は、「彼ら[ポーランド人]とは容赦なく戦え。たとえ、ポーランド人と異種族間で結婚している場合も例外なく」というものだった[102]。

 ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)は殺害について次のように述べている:「ウクライナのパルチザンは、家を燃やし、逃げようとした人々を中に押し戻し、射殺した、そして、屋外で捕まえた人々は、三日月型の鎌や干し草用の三つ叉を使って殺害した。時には、斬首したり、はりつけにしたり、手足を切断されたり、内蔵が飛び出したりした遺体をさらし、残りのポーランド人が(恐怖で)逃げだすよう促した」[52]。

 同様の状況をNiall Ferguson も説明していた。それによると「村全体が全滅させられた。男たちは撲殺され、女たちは暴行され手足を切断され、赤ん坊たちは銃剣で突かれた。[103]。ウクライナの歴史家ユリ・キリクク(Yuryi Kirichuk)は、この紛争は中世の反乱と類似していると述べている[104]。

 ポーランドの歴史家であるPiotr?ossowskiによると、ほとんどの攻撃で使われた方法は同じだったという。最初、地元のポーランド人は彼らの身には何も起こらないと確信していた。その後、夜明けになって、村は武装したUPAのメンバーに取り囲まれ、その背後には斧や、ハンマー、ナイフ、鋸などをもった農民たちがいた。彼らに見つかったポーランド人たちはすべて殺された。時にはポーランド人たちは(殺害を)楽にするため、一カ所に集められた。大虐殺の後、衣服、穀物、家具を含むすべての物品は盗難された。多くの場合、犠牲者たちは虐待され、体は切り裂かれた。ポーランド人の存在のあらゆる痕跡は抹殺され、彼らの家々は焼き尽くされた[55]。

 虐殺は、ウクライナ人の全般的な支持を得たと言っても過言ではないかもしれないが、地元のウクライナ人からの幅広い支持がなければ、できなかっただろうと示唆されている。殺害に参加したウクライナの農民は、自分たちの独自のグループとして、SKVまたはSamoboronni Kushtchovi Viddily(Самооборонн?Кущов?В?дд?ли、СКВ)を創っていた。犠牲者の多くは、ポーランド語の知識がなくてもポーランド人として認識され、他の人々と一緒にСКВによって殺害された[106]。

民族的に混血した集落に住んでいたウクライナ人たちは、近隣住民の虐殺に参加するように物的なインセンティブが与えられるか、UPAの警備隊(Sluzhba Bezbeky)に夜の間に逃げるように警告されたが、残りの住民はすべて夜明けに殺害された。多くのウクライナ人は危険を冒し、場合によってはポーランド人を匿おうとして命を落とした[52] [107]-

 そのような活動はUPAによって敵に協力する行為とみられ、厳しい処罰を受けた[108]。2007年、ポーランド国立記念館(IPN)は、Kresowa Ksiega Sprawiedliwych 1939-1955という文書を公表した。OUNとUPAによって駆除されたポーランド人を救ったウクライナ人について( "紛争地の正義の本:Borderland's book of Righteous。OUNとUIAによる絶滅からポーランドを救うウクライナ人について")という本である。

 この本の著者、IPNの歴史家、Romuald Niedzielkoは、ウクライナの民間人がポーランド人の隣人を助けた1341の事例を文書化した。そのため、ウクライナ人384人がUPAによって処刑された[109]。ポーランド人とウクライナ人の混合家族の場合、UPAのある共通の指示は、ポーランドの配偶者とその結婚で生まれた子供を殺すことだった。そのような命令を拒否した人々は、しばしばその家族全員と共に殺害された[43] [110]。


自衛隊

 1943年4月に始まった虐殺は、ポーランド人を刺激し、自衛隊を組織することとなり、ヴォルイーニでは1943年に100の自衛隊が結成されることとなった。時にはこれらの自衛隊組織がドイツ軍から武器を入手した。またあるときは、ドイツ軍は武器を没収し、指導者を逮捕した。これらの組織の多くはUPAの圧力に堪えられず、壊滅させられた。唯一、AKやソ連のパルチザンから援助を得ることができた最大の自衛組織だけが生き残ることができた


[111] 武装闘争 - 自衛隊(Home Army) Wo?y?のための連合の司令官KazimierzB?bi?skiは、AKのパルチザン部隊に対する命令として次のように述べている[112];

 私はウクライナの肉屋が用いる方法の使うことを禁じている。 我々は、ウクライナの農家を焼くことも、報復でウクライナの女性や子供を殺すことないだろう。自衛隊のネットワークは攻撃者から自分自身を守り、攻撃者を攻撃しなければならないが、平和な人々とその所有物にだけは手を出さない。- "ルーボン(Lubon)"にて

 1943年7月20日、AKは、ポーランドの自衛隊に対し、その指揮下に入るように求めた。 10日後、ポーランド人のいない領土でウクライナの独立を支持し、民間人の殺害を終結させることを宣言した[113]。ポーランドの自衛隊は、1943年の夏に始まったウクライナの民間人の復讐虐殺に参加し、虐殺と関係ないウクライナ人の人々はポーランド人パルチザン部隊の手勢に苦しめられた。

 証拠としては、1943年8月26日付けの地元のポーランド自衛隊に当てた手紙が含まれている。それは、Ak司令官であるカジミエス・バムビンスキー(KazimierzB?bi?ski)が近隣のウクライナ人村落を焼き払い、道を横切っているウクライナ人を皆殺にし、民間のウクライナ人所有物を盗んだことを批判する内容の手紙だった[114]。 ヴォルイーニでポーランド人の報復的な行為によって殺されたウクライナ人の総数は、2,000~3000人と推定されている[115]。第27軍隊歩兵師団は1944年1月に設立され、UPAと戦い、そしてドイツ国防軍とも戦う任務を課せられた[113]。


死亡者数

 ウクライナの情報源によると、1943年10月、ポーランド政府のヴォルィーニ代表団は、Sarny、Kostopol、Rowne、Zdo?bunowの郡でのポーランド人犠牲者の数は15,000人を超えると推定した[116]。 ティモシー・スナイダーは、1943年7月のUPAの行動により、ヴォルィーニでは少なくとも40,000人(1944年3月にはガリシアで10,000人)のポーランド人の民間人が死亡[19]、その結果として、その後1944年9月までに20万人が、そしてその後さらに80万人のポーランド人が西側へ逃げることとなったと推測している[52][117]。


東ガリシア
 写真:現在のウクライナ、1944年3月12日にUPAに襲われたポドカミエヌ修道院の塔に残る


弾痕

 1943年後半と1944年初めに、ヴォルィーニの大部分のポーランド人が殺害されたか、またはその地域を逃げた後、紛争はガリシアの近隣の州に広がった。そこでは、人口の大半がまだウクライナ人であったが、ポーランド人の存在感は強かった。ポーランド人の村が普通に破壊され、住民が警戒せずに殺害されたヴォルィーニの場合とは異なり、ガリシア東部ではポーランド人は逃げるか殺されるかの選択を与えられる場合があった。

 ガリシアのUPA指揮官による命令は、「もう一度私はあなたに言う:最初にポーランド人に土地を放棄することを求める、その後で彼らを粛正する。他の方法はない」と述べた。この戦術の変化は、ポーランドの自衛権の向上とポーランド人にとって有利な人口統計的バランスと相まって、ガリシアのポーランド人については、ヴォルィーニよりも著しく死亡者数が少なかった[118]。この地域でウクライナの民族主義者が使用した方法は同じで、村のポーランド人住民全員を集めて殺し、村を略奪し、焦土と化した[55]。1944年2月28日、コロスチアティン村で135人のポーランド人が殺害された[119]。

 後に、地元のローマカトリック教徒の司祭であるMieczys?awKami?skiが犠牲者を数えた[120]。虐殺を目撃したジャン・ズレスキー(タデュッサス・イサコビッチ・ゼレスキー神父 Fr. Tadeusz Isakowicz-Zaleskiの父親)は、日記に次のように書いている。「虐殺はほぼ一晩中続いた。私たちは恐ろしい叫び声を聞いた。生きたまま燃やされている家畜のうなり声が聞こえ、射撃の音がした。まるで反キリスト者の活動だった!」[121]。

 カミンスキー神父は、ポーランド人が実際にひとりも殺害されなかったコロピーク(Koropiec)では、ポーランド人とウクライナ人の混合家庭について、地元のギリシャのカトリック教徒の司祭が、説教壇から "お母さん、 - あなたは敵に授乳している。絞め殺せ"と叫んだと主張した[122]。住民が殺害され、すべての建物が焼失したポーランド人の村の中には、ズバラズ(Zbaraz)の近くのベレゾビカ(Berezowica)、テルノピル(Ternopil)の近くのイロウィカ(Ihrowica)、テルノピュル(Ternopil)の近くのプラチシ(Plotych)、ブロディ(Brody)の近くのポッカミエン(Podkamien)、そしてプルゼミスクラニ(Przemy?lany)の近くのハナチヴァ(Hanachiv)とハナチヴカ(Hanachivka)などの場所がある[123]。

 UPA司令官のRoman Shukhevychは、1944年2月25日からの彼の命令について次のように述べている:「ソ連軍の成功の観点から、ポーランド人の粛正をスピードアップする必要があり、完全に一掃しなければならない。彼らの住む村々は焼き払われ、...ポーランド人だけを破壊しなければならない」と[43]。

 最も悪名高い虐殺の1つは、1944年2月28日、ポーランド人の村Huta Pieniackaで、1,000人以上の住民に対して行われたものだった。この村は、ポーランドのユダヤ人を含む難民の避難所として機能し、ポーランドと共産主義者パルチザンのための復興拠点となっていた[124]。 1つのAKユニットがそこで活発に活動していた。1944年の冬、ソ連のパルチザン部隊1,000人が2週間村に駐留した[124] [125] [126]。 Huta

 Pieniackaの村人たちは、貧しい人々ではあるものの、1944年2月23日にウクライナとドイツの偵察攻撃と戦った強固に武装した自衛隊を組織していた[127]。 親衛隊ガリシア(第一ウクライナ)の第14Waffen擲弾兵師団の二人の兵隊が村人に殺害され、1人が負傷した。2月28日、ウクライナ人によるブロンディの第14親衛隊部隊の構成分子が、民間ナショナリストのグループの支援を受けながら500~600人の男性と一緒に戻ってきた。虐殺殺人の馬鹿騒ぎは終日続いた。

 ポーランド人自衛隊の指揮官であったKazimierz Wojciechowskiは、ガソリンでずぶ濡れにされ、中央広場で生きながら燃やされた。村は完全に破壊され、その居住者はすべて殺された[125]。主に女性と子供である一般市民は、教会に集められ、分割され、納屋に閉じ込められて火をつけられた[128]。Huta Pieniackaにおける虐殺の犠牲者の推定値は、500人(ウクライナ側の資料)[129]、1,000人(Tadeusz Piotrowski)[130]、および1,200(Sol Littman) [131]とされている。

 IPNの調査によると、この犯罪は、UPA部隊と地元のウクライナ人の民間人の支援を受けたウクライナ第14 親衛隊部隊の第4大隊[128]によって行われた[132]とされている。

 ウクライナの第14親衛隊部隊の軍事機関誌は、ポーランド人の殺害を非難した。1944年3月2日の軍事指導者がウクライナの若者へ向けて書いた記事では、ポーランド人とウクライナ人の殺人事件についてソビエトのパルチザンが非難され、著者は、「もし、神が禁じるなら?、このような非人道的行為をした者の中に、ウクライナ人の手が見つかったとしても、その手(人)は、ウクライナの国民社会から永遠に排除される。」[133]と述べている。

 一部の歴史家は、ウクライナ人の第14親衛隊部隊の殺害についての役割を否定し、完全にドイツ軍にその責任を帰属させているが、その一方で、他の人々はそれに同意していない[134]。[検証が必要]。イェールの歴史家、ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)によると、ウクライナ西部からポーランド人を一掃しようというポーランド民族浄化においてウクライナの第14師団の役割はきわめて限られていた[135]という。

 ブロディの近くにあるPidkamin(Podkamie?)村はポーランド人の避難所であり、ポーランド人はドミニカ人修道院に隠れていた。1944年3月中旬に修道士がUPA部隊によって攻撃されたとき、ポーランド自国軍がウクライナの親衛隊と協力して勘定したところ、そこに住んでいた約2000人の大部分は女性と子供だったが、250人以上のポーランド人が死亡した[124]。

 近くのPalikrovy村では、300人のポーランド人が死亡し、Maliniskaでは20人が、Chernytsiaでは16人が殺された。武装したウクライナ人の集団は修道院を破壊し、すべての貴重品を盗んだ。残されたピカミンのマリアの絵画は、現在ではヴロツワフの聖ヴォーシエック教会に保管されている。Kirichukによると、ポーランドへの最初の攻撃は1943年8月に起こり、おそらくヴォルィーニのUPA部隊の仕業だったと思われる。報復として、ポーランド人はリヴィヴ(Lviv)のウクライナ人医師Lastowieckyやプシェムィシル(Przemy?l)の人気フットボール選手Wowczyszynらを含む重要なウクライナ人を殺害した。

 夏の終わりには、「ポーランド人をサンの後ろに」というスローガンの下、ポーランド人をサン川西岸に定着させる目的で、ポーランド人を対象とした大量のテロ行為が、ガリシア東部で行われていた。スナイダーはガリシアだけで25,000人のポーランド人が死亡したと推定している[136]。Grzegorz Motyka(歴史学者)は被害者の数を3万~4万人と推定している[137]。

 1945年に虐殺された赤軍が入国した後、1945年2月2日にCzerwonogrod(ウクライナ語:Irkiv)などの場所で60人のポーランド人が殺害され、虐殺は止まらなかった[138] [139]。その前日、彼らは取り戻された領土に向けて出発する予定だったのだが。

 1944年の秋までに、反ポーランド派の行動は中止され、内務人民委員部(NKVD)と協力していた人々に対してのみテロが使われたが、1944年後半と1945年の初めにUPAはテルノピル地域で最後の大規模な反ポーランド措置を行った。 1945年2月5日から6日の夜、ウクライナ人グループは、 Buchach近くポーランド人の村Baryszwp襲撃した。そこでは、女性と子供を含む126人のポーランド人が虐殺された。数日後、2月12日から13日にペトロ・カムチャクの下にあるOUN地元のグループが、ポウィニキ(Pu?niki)のポーランド人居住地を攻撃し、およそ100人が殺され、家が燃やされた。生き残った者は主に基礎自治体プルドニク:Gema Prudnikのニーミスワヴィツェ(Niemys?owice)に移った[141]。

 1945年3月3日、約150人のウクライナ人とポーウォコーマ(Paw?okoma)に居住する少数のポーランド人が、近くの村からのポーランド自衛隊の支援を受けた旧ポーランド自国軍によって殺された。この虐殺は、早期に起こったポーウォコーマのウクライナの反政府武装勢力9人(または11人)のポーランド人[143]と近隣の村でUPAによって殺された不特定多数のポーランド人に対する殺人事件への報復行為と考えられている。


ドイツの関与

 ドイツ人は積極的に紛争を奨励したが、ほとんどの場合、彼らは直接関与しないようにしていた。協力者であるウクライナ人と後のポーランド補助警察から形成された特別なドイツ軍部隊は、ヴォルィーニの鎮定活動に配備され、その犯罪の一部は、ポーランド国軍またはウクライナ人UPAのいずれかに帰属した。

 ユリ・キリク(Yuriy Kirichuk)によると、ドイツ人は紛争の両者が対立すするように双方を積極的に刺激していた[144]。 エリックコッホはかつて「ポーランド人がウクライナ人と会って、彼を殺してくれるし、逆にウクライナ人がポーラ度人を殺してくれるように、できる限りのことをしなければならない」と言った。 Kirichukは、Sarnyのドイツ人委員から、ポーランドの苦情への対応について次のように引用している:「あなたはSikorskiが欲しい、ウクライナ人はBanderaが欲しい、お互いに戦おう" [144]と。

※ヴワディスワフ・シコルスキ(英文Wikiより)
  1881年5月20日- 4 1943年7月)は、ポーランドの軍事的、政治的指導者でした。 第二次世界大戦中、シコルスキは、ポーランド亡命政府の内閣総理大臣であり、ポーランド軍最高司令官。また、外交分野でポーランドの主張の積極的提唱者だった。

※ステパーン・バンデーラ(日本語ウィキより)
 1909年12月1日‐1959年10月15日)は、ウクライナの政治家、ウクライナ民族解放運動の指
導者である。

 ナチスは、ドイツ軍への奉仕をやめたウクライナ人警察官をポーランド人警官と置き換えた。これに参加したポーランド人の動機は、彼ら自身を守るためか、UPAの虐殺に復讐するという地域的かつ個人的なものだった。ドイツの政策は、ウクライナ人警察官が去ったあとの家族の殺害と、ウクライナ人警察官が武器で人々を追い払った村の破壊を求めるものだった。これらに対する報復は、新しく募集したポーランド人警察官を使って行われた。

 ポーランド人居住区に対するUPAの攻撃に続いて、ヴォルィーニのポーランド人がドイツ警察に参加したにもかかわらず、このことは、ウクライナの民族主義者に便利な宣伝情報源を提供することとなり、民族浄化作戦を正当化するものとして利用された。1943年8月に、OUN-Bの指導者は、ドイツ政府はポーランド人を使い破壊活動を行っている。それに応じて我々は、彼らを無慈悲に破壊する」と述べ、この状況を要約した[86]。1943年3月と4月の破壊にもかかわらず、補助警察にはウクライナ人が多数残っており、ナチスに仕えるウクライナ人はポーランド人村やその他の村の鎮定を継続していた[146]。

 1943年8月25日、ドイツ当局はすべてのポーランド人に村落と居住地を離れ、より大きな町に移るよう命じた。

 その地域に展開していたソビエトのパルチザン部隊は虐殺について知っていた。1943年5月25日、Rivne地区のソヴィエト・パルチザン部隊の指揮官は、本部への報告書のなかで、ウクライナの民族主義者がポーランド人を狙撃したのではなく、年齢や性別を考慮しないでナイフや斧で斬り殺したことを強調した[147]。


犠牲者の数
ポーランド人死傷者

 ヴォルィーニ大虐殺の間に殺害された市民の死亡者数はまだ調査中である。この間、ヴォルィーニのポーランド民族の少なくとも10%がUPAによって殺された。従って、「ポーランド人の死傷者数には、UPAが活発だった地域の戦前のポーランド人の人口の約1%と、ウクライナとポーランドのポーランド民族全体の人口の0.2%の両方を含んでいる」[148]。歴史家ウソソフスキー(?ossowski)は、多くの場合、後に証言できる生存者が居なかったため、(死傷者数についての)文書化された証拠は決して最終的なものではないことを強調している。

 戦前の東部ポーランドにおけるソビエトとナチスの侵略、UPAによる大虐殺、そして戦後のソビエトによるポーランド人の駆逐、これらすべてがこの地域のポーランド人の実質的な抹殺・排除に貢献した。残った人たちは、ヴォルィーニを去り、主に近隣のルブリン州へ移った。戦後、生存者はさらに西方のLower Silesiaへと移動した。ヴォルィーニのポーランド人孤児たちは、複数の孤児院に収容され、クラクフ周辺には最大規模の孤児が収容されていた。ヴォルィーニと東ガリシアのいくつかの旧ポーランド人村はもはや存在せず、残っている村は廃墟となっている。

 国立記念研究所は、ウクライナの国家主義者によって10万人のポーランド人が殺されたと定している(ヴォルィーニで4万~6万人の犠牲者、東ガリシアで3万~4万人、クラクフを首都とするレッサーポーランド(Lesser Poland=マウォポルスカ県)で少なくとも4,000人、ヘウム(Che?m)地域で2,000人を含む)[5]。

 東ガリシアについては、他の推定値では20,000~25,000人[149]、25,000人 [24]、30,000~40,000人[137]の範囲である。ニール・ファーガソン(Niall Ferguson)は、ヴォルィーニと東ガリシアのポーランド人犠牲者の総数は60,000~80,000人と推定している[150]。

G. Rossolinski-Liebeは70,000-100,000人[151]、John P. Himkaは10万人[7]とそれぞれ推定している。

 モティカ(Motyka)によれば、紛争の対象となったすべての領土で1943年から1947年にかけて、およそ8万~10万人のポーランド人が死亡した[115]という。ウクライナの歴史家イワン・カチャノフスキー(Ivan Katchanovski)は、35,000~60,000人という推定値の下限値[35,000人]は、上限値と比較してより信頼性が高いとしている。

 一方、6万人という上限値は、ポーランドの他の地域やヴォルィーニのウクライナ人人口と比較しても、ナチスの大量虐殺政策の結果として、この地域のポーランド人人口を数回抹殺しなければならないような仮定に基づいたものである」と指摘している[148]。

 ウラディスワウ・シエマシュコ(W?adys?awSiemaszko)とその娘エワ(Ewa)は33,454人のポーランド人犠牲者を記録しており、うち18,208人は姓が明らかとなっている[152]。(2010年7月、Ewa Siemaszkoは、報告された犠牲者数を38,600人に増やした。

 そのうち22,113人は姓が判明している)[153]。1994年6月7~9日にKarta Center(ポーランドの非政府公益財団)によってPodkowa Le?naで開催されたポーランドとウクライナの初の合同会議と、それに続いて開かれた50人ほどのポーランド-ウクライナ人が参加した歴史家会議において、ヴォルィーニにおけるポーランド人の死者数は5万人と推定され決着し[154]、

妥当な数値であるとされた[155]。

※KARTA Center (英文Wikiより)
 The KARTA Center (Polish: O?rodek KARTA) or The KARTA Center Foundation(Polish: Fundacja O?rodka KARTA) is a Polish non-governmental public benefit organization, whose aim is documentin and popularizing the recent history of Poland and history of Eastern Europe and strengthening tolerance and democracy.

 社会学者 Piotrowskiによると、UPAの活動が、Wo?y? Voivodeshipで68,700人の死者がでたと推定した[156]。Per Anders Rudlingによれば、UPAはこの地域で4万~7万人のポーランド人を殺したと述べている[43]。一部の極端な推計によれば、ポーランド人犠牲者の数は30万人に上っている[157] 。また、この数字には虐殺で殺されたポーランド化されたアルメニア人が含まれるとされている。Kuty [158]


ウクライナの死傷者

 ポーランド人の手によるウクライナ人犠牲者数は、ヴォルィーニで2,000-3000人と推定されている[43]。他の地域で殺害された人々を合わせると、ウクライナ人の死傷者数は10,000~12,000人であり[5]、その大部分は東ガリシアと現代のポーランドで発生していた。カタリナ・ウォルツク(Kataryna Wolczuk)によると、紛争の影響を受けるすべての地域のウクライナの死傷者数は、1943年から1947年の間に1万~3万人と推定されている。[159] UPAに関する基本的な研究論文の著者であるモティカ(Motyka)によると、ウクライナ人犠牲者数3万人という推定は支持されていない[161]。

 ティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)は、OUNの国家主義の形式に従わなかった地元のウクライナ人は反逆者と見なされたため、UPAがポーランドと同じくらい多くのウクライナ人を殺した可能性が高いと述べている[2]。虐殺の冒頭から1ヶ月以内に、ポーランド自衛隊は同じやり方で対応した。(その結果)すべての紛争はポーランド人がウクライナの民間人に対して復讐するという結果をもたらすことになった[2]。

 Motykaによると、ウクライナ人犠牲者の数は、ヴォルィーニで2,000~3,000人、紛争の対象となっているすべての地域で10,000~15,000人とされている[6]。 G. Rossolinski-Liebeは、第二次世界大戦中および戦後を合わせると、ポーランド人がウクライナ人(OUN-UPAメンバーと民間人)を10,000~20,000人殺したと主張している[151]

 2016年7月4日に、レフ・ワレサ元大統領、アレクサンダー・クワシニエフスキー、ブロニスラウ・コモロフスキーを含む45人の現役および元政治家のグループが、紛争時にポーランド人が与えた傷害に対する許しを求めてウクライナに手紙を出した[162]。この手紙は、1ヶ月前に元大統領レオニード・クラヴク(Leonid Kravchuk)やヴィクトル・ユシチェンコ(Viktor Yushchenko)を含む、ウクライナの様々な政治家や俳優たちが発表した同様の声明に応えたものだった[163]。

 また巻末に「ウクライナ人によるポーランド人死傷者の推定数、Estimates of casualties, Poles killed by Ukrainians」あり。なお、これ以降に英文翻訳未了分あり。


責任

 ウクライナの反政府武装勢力が武装組織となったウクライナ民族主義者組織(OUN)は、将来のウクライナ国家の社会経済的領域からウクライナ以外の国家を一掃することを必要に応じて強制した[166]。

 ウクライナ民族主義組織は、すべてのメンバーが遵守しなければならないものとして、1929年にウクライナ民族主義者の十戒を採択した。この十戒は、「最も危険な行為をすることを躊躇ないこと」また、「あなたの国の敵を憎み冷酷に扱うこと」と述べている[167]。

 バグ川の東部を民族的に浄化する決定は、1943年にウクライナの反政府武装勢力によって行われた。1943年3月、OUN(B)(具体的にはMykola Lebed [168])は、第2ポーランド共和国の東部に住んでいたすべてのポーランド人を集団死刑に処し、数カ月後にUPAのローカル部隊に急いで作戦を完了するよう指示した[169]。

 そのポーランド人住民の領土を浄化する決定は、将来起きるべき出来事の道筋を決定した。Timothy Snyderによると、ポーランド人の民族浄化は、ウクライナ民族主義者団体のなかでも極端なBandera派の仕業であり、その組織のMelnyk派や他のウクライナの政治的または宗教的組織によるものではなかった。

 ポーランドの捜査官は、OUN-Bの中央指導部は、1943年2月に、戦後、民族的に純粋な領土を獲得するために、すべてのポーランド人をヴォルィーニから追放することを決めたと主張している。この決定の背後にいた人物として、ポーランドの調査官は、Dmytro Klyachkivsky、Vasyl Ivakhov、Ivan Lytvynchuk、Petro Oliynykを特定している[170]。


 民族暴力は、ウクライナの人々に対して、ポーランド人とモスクワのユダヤ人たちを同じく殺害するように駆り立てるポスターやパンフレットが流布したことでさらに悪化した[171] [172] [173]

 PiotrZaj?c検察官によると、ポーランド国立記念館は、2003年に調査において、その事件に関する3つの異なるバージョンについて考察した:[174]

1.ウクライナ人はポーランド人を追い出そうと計画していたが、時間の経過とともに 収拾が付かなくなった。
2.ポーランド人を撲滅する決定はOUN-UPA本部によって行われた。
3.ポーランド人を撲滅する決定は、組織内の内部紛争の過程でOUN-UPAの指導者の一部によって採択された。

 IPNは、第2版が最も可能性が高いと結論付けた。[要出典]


和解

 民族浄化の公式な承認についての問題は、ポーランドとウクライナの歴史家と政治指導者の間の議論の問題として残された。事件に関してポーランドとウクライナの和解をもたらす努力が進行中である。ポーランド側は和解に向かって歩みを進めてきた。2002年、アレクサンダー・クワシニエフスキー大統領は、ヴィスワ作戦(オペレーション・ビスチュラ:Operation Vistula)と呼ばれる移転計画について、「悪名高いヴィスワ作戦は、ウクライナ起源のポーランド人市民に対して共産主義当局が犯した忌まわしい行為の象徴である」と述べた。

 彼は、1943年から1944年の「ウビスワ作戦は、クライナの反政府武装勢力によるポーランド人の虐殺に対する復讐であった」との主張は、「集団罪の原則」を呼び起こしたとして「虚偽で倫理的に認められない」と主張した[175]。ウクライナ政府はまだ謝罪していない[176] [177]。2003年7月11日に、アレクサンドル・クワシニエフスキーとレオニード・ククマ大統領は、ボリヒワ村(以前はポーリック)で開催された式典に出席し[178]、和解の記念碑を除幕した。ポーランド大統領は「ポーランド人に対する虐殺の責任をウクライナの国の責任とすることはできない、どの国も、国を有罪とすることはできない、常にそうした犯罪の責任はそれを犯した特定の人間が負うべきものである」と述べ、ウクライナ全土を非難することは不公正であると述べた。[179]。


大量虐殺の問題

 この事件が「大量虐殺」や「民族浄化」として特徴づけられるべきかどうかについては議論となっている。歴史家Per Anders Rudlingは、OUN-UPAの目的は、すべてのポーランド人を抹殺することではなく、むしろ、民族的に同質な状態を達成するために、民族的に取り除く/浄化することであった、と述べている。

 その目的は、ポーランドがウクライナの独立を崩壊させた1918~20年の繰り返しを防止することであった。当時、ウクライナの独立をポーランド人として打ち砕いたポーランド国軍は、1939年以前の国境の内側でポーランド共和国を復元しようとしていた[43]。

 イワン・カチャノフスキーによれば、UPAによるヴォルィーニのポーランド人大量殺戮は大量虐殺として分類できないという。なぜなら、UPAがポーランド国全体または大部分を全滅させようとしている証拠がないからである。UPAの行動作戦は、ほとんどが比較的狭い地域に限られていたため、殺されたポーランド人の数は、戦争前にUPAが運営していたポーランドとウクライナの領土の全ポーランド人人口のごく一部であったからと指摘している[148]

 ポーランド国立記念館は、UPAがヴォルィーニとガリシアそして戦前のルブリン県のポーランド人に対して犯した犯罪を調査するため、10,000ページ以上の文書と国家間協定や議定書などを収集した。委員会の検察官ピョートル・ジャヨンク氏は、「ポーランド国民に対して犯した犯罪には大量虐殺の特徴があることは間違いない」と述べている。また、公開された国立記念研究所の論文でも、次のように述べている。

 ヴォルィーニの虐殺は、1948年の国連、民族虐殺の防止と処罰に関する条約に掲げられているすべての虐殺の特徴を有している。ここでは、虐殺について、次のように定義している。すなわち、虐殺とは、特定の国、民族、人種、あるいは宗教的集団の全体あるいは一部を抹殺しようとする行為であると。 [181]

 2009年7月15日、ポーランド共和国下院は、満場一致で「東部国境におけるポーランド人の悲劇的運命」に関する決議を採択した。決議の文章は、「ウクライナの民族主義者組織とポーランドの東部地域のウクライナの反政府勢力による反ポーランド人行為が開始され - その民族浄化による大量殺戮は大量虐殺(ジェノサイト)を特徴付けた行為」から2009年7月は66周年となる、と述べている。 [182]

 2016年7月22日、ポーランド共和国下院は、ウクライナの民族主義者によってヴォルィーニと東ガリシアで殺害されたポーランドの犠牲者の名誉をたたえるため、正式に7月11日を国の記念日(National Day of Rememberance)とすることを宣言した。[17][18]

人気のある文化(作品)
 ヴォルィーニにおけるポーランド人の大量虐殺については、2016年の映画「ヴォルィーニ」に描かれている。


脚注 Note

1. Massacre, Volhynia. "What were the Volhynian Massacres?". Volhynia Massacre. Retrieved 2018-03-10.

2. Timothy Snyder. "A Fascist Hero in Democratic Kiev". The New York Review of Books. NYR Daily. Bandera aimed to make of Ukraine a one-party fascist dictatorship without national minorities... UPA partisans murdered tens of thousands of Poles, most of them women and children. Some Jews who had taken shelter with Polish families were also killed.

3. Filip Mazurczak (13 July 2016). "The Volhynia Genocide and Polish-Ukrainian Reconciliation". Visegrad Insight. UPA's methods were sadistic.

4. Siemaszko, Ewa. The July 1943 genocidal operations of OUN-UPA in Volhynia (PDF). pp. 2?3. Archived from the original (PDF) on 2016-04-01. The Polish underground document provides a condensed account of this terrible savagery.

5. Massacre, Volhynia. "The Effects of the Volhynian Massacres". Volhynia Massacre. Retrieved 2018-03-10.

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11. The Witnesses". Special issue. Institute of National Remembrance.
The participation of the Ukrainian

12. clergy was significant. In many localities Orthodox priests consecrated
the murder tools.

13. Micha? Klimecki (2013). "Combat involvement of Poland's 27th Infantry Division of the Volhynia Home Army against UPA" (PDF). Institute of National Remembrance. 5 / 8 in PDF. Archived from the original (PDF) on 2016-08-12. Polish forces engaged the Ukrainian Insurgent Army in a series of offensive combat actions. One of the first such confrontations was on January 10?15, 1944

14. Snyder 2003, p. 175.

15. Burds, Jeffrey (1999). "Comments on Timothy Snyder's article, "To Resolve the Ukrainian Question once and for All: The Ethnic Cleansing of Ukrainians in Poland, 1943?1947"". 1 (2). Journal of Cold War Studies. (1) Chronology. The more I study Galicia, the more I come to the conclusion that *the defining issue was not Soviet or German occupation and war, but rather the civil war between ethnic Ukrainians and ethnic Poles.

16. Piotr Zaj?c, "Prze?ladowania ludno?ci narodowo?ci polskiej na terenie Wo?ynia w latach 1939?1945 ? ocena karnoprawna zdarze? w oparciu o ustalenia ?ledztwa OK?ZpNP w Lublinie" [in:] Zbrodnie przesz?o?ci. Opracowania i materia?y prokuratorow IPN, t. 2: Ludobojstwo, red. Rados?aw Ignatiew, Antoni Kura, Warszawa 2008, p.34-49. Quote="W ?wietle przedstawionych wy?ej ustale? nie ulega w?tpliwo?ci, ?e zbrodnie, ktorych dopuszczono si? wobec ludno?ci narodowo?ci polskiej, nosz? charakter niepodlegaj?cych przedawnieniu zbrodni ludobojstwa."

17. PolskieRadio.pl (2 June 2013), Prezes IPN: zbrodnia na Wolyniu to ludobojstwo.
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" http://tass.ru/en/world/887135 http://tass.ru/en/world/887135

18. Radio Poland "Polish MPs adopt resolution calling 1940s massacre genocide" http://www.thenews.pl/1/10/Artykul/263005,Polish-MPs-adopt-
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The assassinations of foreign affairs minister Bronis?aw Pieracki or of a supporter of peaceful Polish-Ukrainian cooperation, Tadeusz Ho?owko, are two examples of OUN-B terrorist campaign.

In one of many such incidents, the Papal Nuncio in Warsaw reported that Polish mobs attacked Ukrainian students in their dormitory under the eyes of Polish police, a screaming Ukrainian woman was thrown into a burning Ukrainian store by Polish mobs, and a Ukrainian seminary was destroyed during which religious icons were desecrated and eight people were hospitalized with serious injuries and two killed. See Burds 1999.

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Taras Bulba-Borovets wrote: The axe and the flail have gone into motion. Whole families are butchered and hanged, and Polish settlements are set on fire. The 'hatchet men', to their shame, butcher and hang defenseless women and children....By such work Ukrainians not only do a favor for the SD [German security service], but also present themselves in the eyes of the world as barbarians. We must take into account that England will surely win this war, and it will treat these 'hatchet men' and lynchers and incendiaries as agents in the service of Hitlerite cannibalism, not as honest fighters for their freedom, not as state-builders. John Paul Himka. Ukrainian past and future. September 20, 2010, Retrieved January 19, 2013.
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"From a Polish point of view, the defeat of both Germany and Russia would open the field in the east. As early as 1941, it was understood that a future rising against German power would involve a war against Ukrainians for Eastern Galicia and probably Volhynia as well, to be prosecuted if possible as a quick "armed occupation."[15] The AK's plans for a rising, as formulated in 1942, anticipated a war with Ukrainians for the ethnographically Ukrainian territories that fell within Poland's prewar boundaries. By 1942 the formation of sizable Polish partisan units in the east could not but remind Ukrainians of Polish territorial claims." (Snyder 2001)

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もっと読む Further reading

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外部リンク External links

Wikimedia Commons has media related to Volhynian massacres.

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An abbreviated preface to the monographic book of W?adys?aw Siemaszko and Ewa Siemaszko, November 2000.

[show] v t e

Massacres of ethnic Poles in World War II

[show] v t e


大虐殺トピックス Genocide topics

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出典:Wikipedia 英文版の概要を日本語に翻訳(池田こみち訳)

ナチス・ドイツ占領したのポーランドのホロコースト

これは主にウクライナにおけるホロコーストの絶滅収容所、強制収容所、
ゲットー、大量虐殺などの位置を示す地図である。
シレツ巨王政収容所は地図のキエフの南西にあるが地図上には記載がない。。
出典・Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link
Map of Volhynia (blue) and Eastern Galicia (orange) in 1939
出典・Source:Wikimedia Commons
By <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Gryffindor" title=
"User:Gryffindor">Gryffindor</a> - <span class="int-own-work" lang="en">
Own work</span>, CC0, Link
1931年12月9日の国勢調査に基づく母国語を話すポーランド人口
(Central Statistical Office (Poland)), Public Domain, Link
Victims of a massacre committed by UPA in the village of Lipniki, Poland, 1943     
出典・Source:Wikimedia Commons  
By Władysława Siemaszków, Ludobójstwo, page 1294, from Henryk Słowiński collection -
<a rel="nofollow" class="external free" href="http://www.starwon.com.au/
~korey/Wolyn%2043.htm">http://www.starwon.com.au/~korey/Wolyn%2043.htm</a>,
Public Domain, Link
The mass grave discovered during the second exhumation in Wola Ostrowiecka, in present-day Ukraine (August 2011)[96]
出典・Source:Wikimedia Commons
By Leon Popek - <a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Private_collection" class="extiw" title="en:Private collection">Private collection</a>, CC BY-SA 3.0, Link  
 出典:Massacres of Poles in Volhynia and Eastern Galicia 1943-1944
 (Moivie)
 出典:Massacres of Poles in Volhynia and Eastern Galicia 1943-1944
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 (Moivie)
OUN-UPA Genocide Victims' Avenue in Legnica, Poland
出典・Source:Wikimedia Commons , Public Domain, Link
Plaque for victims of Volhynia massacres at Church of St. Bridget in Gda?sk
出典・Source:Wikimedia Commons  CC BY-SA 3.0, Link


ウクライナ人によるポーランド人死傷者の推定数
Estimates of casualties, Poles killed by Ukrainians
Source:Wikipeida English
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Timothy Snyder 50k ? ? ? In?Past and Present
Timothy Snyder >40k 10k ? ? [164] 10k is in March '44, >40k in July '43
Timothy Snyder 40-60k in '43 25k ? 5k The Reconstruction of Nations, 2004 5k is Lublin and Rzesz?w; "killed by UPA"; "limited the death toll of Polish civilians to about twenty-five thousand in Galicia"
Timothy Snyder 5?10k ? ? ? [52] ""Polish preparations and Ukrainian warnings limited the deaths to perhaps 5 000-10 000""
Grzegorz Motyka 40-60k ? - 80-100k 6-8k W kr?gu ?un w Bieszczadach, 2009, page 13 net is from '43 to '47
Grzegorz Motyka 40-60k 30-40k ? 100k Od rzezi wo?y?skiej do akcji "Wis?a", 2011, pages 447?448
Ivan Katchanovski 35-60k ? ? ? Terrorists or National Heroes? Politics of the OUN and the UPA in Ukraine Katchanovski considers the lower bound 35k to be more likely; cited Snyder, Hrytsiuk
Grzegorz Hryciuk 35-60k ? ? ? ""Vtraty naselennia na Volyni u 1941-1944rr." Ukraina-Polshcha: Vazhki Pytannia Vol. 5. Warsaw: Tyrsa 2001" Cited by Katchanovski
Grzegorz Hryciuk 35.7-60k ? ? ? Hryciuk G. Przemiany narodowosciowe i ludnosciowe w Galicji Wschodniej i na Wolyniu w latach 1931?1948 / G. Hryciuk. ? Torun, 2005. ? S. 279. Cited by Kalischuk
Grzegorz Hryciuk ? 20?24 ? ? Straty ludnosci w Galicji Wschodniej w latach 1941?1945 / G. Hryciuk // Polska?Ukraina: trudne pytania. ? Warszawa, 2000. ? T. 6. ? S. 279, 290, 294. Cited by Kalischuk; from 43?46; 8820 in '43-mid'44; "according to relevant contemporary Polish sources"
Grzegorz Hryciuk 35.7-60k 20-25k ? G.Hryciuk,?Przemiany narodowosciowe i ludnosciowe w Galicji Wschodniej i na Wolyniu w latach 1931?1948, Toru? 2005, pp.?279,315 for Galicia "primary balance" relied on "fragmentary and often incomplete documentation" and witnesses' testimonies
P.R. Magocsi ? ? ? 50k Magocsi; A History of Ukraine, p 681 among the more reasonable estimates
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Rossolinski-Liebe - ? 70-100k - The Ukrainian national revolution?(2011),?Celebrating Fascism...?(2010) [6]?(?)
Ewa Siemaszko 60k 70k 130k 133k Bilans zbrodni, 2010?[7] According to Rudling it is the most extensive study of the Polish casualties (Rudling, "The OUN, the UPA and the Holocaust...", p.?50)
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Czes?aw Partacz ? ? ? 134-200k Przemilczane w ukrai?skiej historiografii przyczyny ludob?jstwa pope?nionego przez OUN-UPA na ludno?ci polskiej?[in:]?Prawda historyczna na prawda polityczna w badaniach naukowych. Przyk?ad ludob?jstwa na Kresach Po?udniowo-Wschodniej Polski w latach 1939?1946, Bogus?aw Pa? (edition), Wroc?aw 2011
Lucyna Kuli?ska ? ? ? 150-200k ""Dzieci Kres?w III" Krak?w 2009 p.?467"
Anna M. Cienciala - - 40-60k The Rebirth of Poland. University of Kansas, lecture notes by professor Anna M. Cienciala, 2004 During WWII, the Bandera faction of the Ukrainian Insurrectionary Army (UPA) murdered 40,000?60,000 Poles living in the villages of former Volhynia and former East Galicia
Pertti Ahonen et al. - - 100,000 Pertti Ahonen, Gustavo Corni, Jerzy Kochanowski, Rainer Schulze, Tam?s Stark, Barbara Stelzl-Marx,?People on the Move: Population Transfers and Ethnic Cleansing Policies During World War II and Its Aftermath. Berg Publishers. 2008. p.?99. "100,000 killed & 300,000 refugees in ethnic cleansing conducted by Ukrainian nationalists"
George Liber 25?70k 20?70k 50?100k ? Total Wars and the Making of Modern Ukraine, 1914-1954 1943-44, "between 50,000 and 100,000 Poles"
Author Volhynia Galicia VOL+GAL V+G+P E. POL Source Notes
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Grzegorz Motyka 2-3k 1-2k - 10/11-15k 8-10k Od rzezi wo?y?skiej do akcji "Wis?a", 2011, page 448 1943?1947;?According to Motyka, numbers of Ukrainian casualties from hands of Poles >= 30k are "simply pulled out of thin air".
P.A. Rudling 20k ? 11k in "Historical Representation of the Wartime Accounts of the Activities of the OUN..." citation: "Most mainstream estimates" "growing consensus, is [...] up to 20,000 Ukrainians killed by AK in Volhynia."
P. R. Magocsi ? ? 20k Magocsi; A History of Ukraine, p 681 among the more reasonable estimates
T. Snyder 10k ? ? Past and Present[citation needed] ""Over the course of 1943 perhabs ten thousand Ukrainian civilians were killed by Polish self-defence units Soviet partisans Nazi policemen"."
T. Snyder ? ? - +5k The reconstruction of nations[citation needed] in Lublin and Rzesz?w
Rossolinski-Liebe - ? 10-20k Celebrating Fascism...[citation needed] both UPA members and civilians, during and after the war. Rossolinski cites Motyka's estimation of 2006.
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Anna M. Cienciala - - - 20k - The Rebirth of Poland. University of Kansas, lecture notes by professor Anna M. Cienciala, 2004 ...the Poles killed some 20,000 Ukrainians, mostly in former East Galicia in reprisal.
George Liber 2?20k 1?4k 8?20k ? Total Wars and the Making of Modern Ukraine, 1914-1954 1943-44, "and 8,000 to 20,000 Ukrainians died"

Responsibility
The?Organization of Ukrainian Nationalists?(OUN), of which the Ukrainian Insurgent Army would have become the armed wing, promoted removal, by force if necessary, of non-Ukrainians from the social and economic spheres of a future Ukrainian state.[166]
The Organization of Ukrainian Nationalists adopted in 1929 the?Ten Commandments of the Ukrainian Nationalists, which all members of the Organization were expected to adhere to. This?Decalogue?stated "Do not hesitate to carry out the most dangerous deeds" and "Treat the enemies of your nation with hatred and ruthlessness".[167]
The decision to ethnically cleanse the area East of?Bug River?was taken by the Ukrainian Insurgent Army early in 1943. In March 1943, OUN(B) (specifically?Mykola Lebed[168]) imposed a collective death sentence of all Poles living in the former eastern part of the Second Polish Republic and a few months later local units of UPA were instructed to complete the operation with haste.[169]?The decision to cleanse the territory of its Polish population determined the course of events in the future. According to?Timothy Snyder, the ethnic cleansing of the Poles was exclusively the work of the extreme Bandera faction of the?Organization of Ukrainian Nationalists, rather than the Melnyk faction of that organization or other Ukrainian political or religious organizations. Polish investigators claim that the OUN-B central leadership decided in February 1943 to drive all Poles out of Volhynia, to obtain an "ethnically pure territory" in the postwar period. Among those who were behind the decision, Polish investigators single out?Dmytro Klyachkivsky, Vasyl Ivakhov, Ivan Lytvynchuk, and Petro Oliynyk.[170]
Ethnic violence was exacerbated with the circulation of posters and leaflets inciting the Ukrainian population to murder Poles and "Judeo-Muscovites" alike.[171][172][173]
According to prosecutor Piotr Zaj?c, Polish Institute of National Remembrance in 2003 considered three different versions of the events in its investigation:[174]
1. the Ukrainians at first planned to chase the Poles out but the events got out of hand in the course of time.
2. the decision to exterminate the Poles was taken by the OUN-UPA headquarters.
3. the decision to exterminate the Poles was taken by some of the leaders of OUN-UPA in the course of an internal conflict within the organisation.
IPN concluded that the second version was the most likely one.[citation needed]

  Souce:Wikipedia English version