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龍口寺と片瀬八ヶ寺 日蓮聖人の生涯概要 龍口寺 法源寺 常立寺 本蓮寺 腰越漁港 小動岬 昼食 本成寺 本龍寺 東漸寺 妙典寺 勧行寺 小動神社 日蓮聖人の生涯概略 日蓮聖人は、貞応元年(1222年)、安房国(千葉)の安房鴨川小湊でお生まれになられた。 その後、天福元年(1233年)、安房鴨川の清澄入山、道善房(天台僧侶)に師事する。父母の元を離れ近くの天台宗清澄寺(千葉県鴨川市・現在は日蓮宗)で仏道修行に励むこととなった日蓮聖人は、この寺で4年間、寝食を忘れて学問や修行に打ち込んだ。 その後、天台宗清澄寺の道善房を師として正式に出家し、名を「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と改めた。 鎌倉遊学へ出発。念仏及び禅を修学。 鎌倉遊学より清澄山へ帰還され、『戒体即身成仏義』を述作。さらに比叡山へ遊学。園城寺・高野山・天王寺で学んだと伝えられている。 その後、建長五年(1253年)、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋から昇る朝日に向かって声高らかに「南無妙法蓮華経」と初めてお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされると共に誓願を立てられた。この頃名を「日蓮」と改められた。 鎌倉において辻説法を開始した。岩本實相寺(静岡県富士市)にて一切経を閲読したとされ、鎌倉の草庵で『立正安国論』を述作された(安国論寺)が。松葉ヶ谷法難にある。 文応元年(1260年)。『立正安国論』を著し、最明寺入道を介して前執権で幕府最高の実力者である北条時頼に上申した。『立正安国論』が奏進(そうしん)されて約40日後、幕府や念仏批判に恨みを持っていた僧らにより、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされたが難を逃れた。 弘長元年(1261年)、日蓮聖人は、反感を持つ者の讒言(ざんげん)により捕らえられ、伊豆の伊東へ流罪の難にあわれたが後(弘長三年(1263年))に伊豆流罪赦免される。 文永元年(1264年)、檀越の招きに応じ東条の松原の大路にさしかかった日蓮聖人一行は、地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃され、弟子一人は討ち取られ、二人が重傷を負い、自らも眉に三寸(9cm程)の疵(きず)を受け、左の手をうち折られました。 文永八年(1271年)、日蓮聖人は、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかかるが、江の島の方向から月のように輝くものが飛んできて、刀を三つに折り、処刑役人は目が眩み、その場に倒れ、兵士たちは恐れおののき、斬首の刑は中止され、その後佐渡流罪となった。 これが龍ノ口寺のもととなった法難であり、腰越龍ノ口刑場跡に、滝口寺が創建されている。 この部分が瀧口寺の経緯 その後、日蓮聖人は、佐渡流罪となるが、佐渡の三昧堂(さんまいどう)で、文永九年(1272年)、『開目抄』述作される。また文永十年(1273年)『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』述作される。また大曼荼羅御本尊を初めて書き顕す。 日蓮聖人は、この後、文永十一年(1274年)、佐渡流罪より赦免され鎌倉へ帰還する。佐渡流罪より赦免され鎌倉に戻った日蓮聖人は、平頼綱から蒙古襲来の予見を聞かれるが、法華経中心の政策への転換を幕府に対して行った(3度目の諌暁)。しかし、幕府は聞く耳をもちませんでした。 日蓮聖人は、文永十一年(1274年)、波木井実長の招きで甲斐国身延山(山梨県身延町)に入り、この地で法華経を伝える人材養成に務め、大勢の弟子や信者と共に、昼夜をとわず法華経の講義や唱題修行に精進された。 建治元年(1275年)、『撰時抄』を述作される。 弘安四年(1281年)、身延に十間四面の大堂建立。 日蓮聖人は、体調不良で湯治のため弘安五年(1282年)、身延山を下山する。病の療養の為、常陸の湯へ向かう道中、武蔵国池上宗仲公の館(東京都大田区池上=現在の大坊本行寺)で養体が悪化し休息された。 日蓮聖人は御入滅になることを予感され、池上の地で本弟子六人を定め、力を合わせ法華経流布に精進することを命じ、日蓮聖人生涯の精神的帰依ともいうべき『立正安国論』の講義をされた。 10月13日辰の刻(午前8~10時)、弟子・信者多数の唱題の中、池上で静かにご生涯を閉じられました。池上の山に季節外れの桜の花が咲き、日昭上人の打つ臨終を知らせる鐘の音が悲しく響いた。日蓮聖人のご入滅。 「いづくにて死候とも、はか(墓)をば身延のさわ(沢)にせさせ候べく候。」(波木井殿御報)のご遺言に従い、ご遺骨は身延に埋葬された。 |