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アンコール遺跡群現地調査報告


アンコール・ワット(Angkor Wat)


歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年2月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載禁
アンコール遺跡全体目次

<アンコール・ワット>
はじめに  東門  第1回廊  第2回廊  第3回廊、中央祠堂
十字回廊  千神経蔵  前庭  経蔵・西門  概要  歴史  修復活動



◆アンコール・ワットの歴史

 アンコール・ワットは12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教の寺院として30年を超える歳月を費やし建立されました。

 1431年頃、アンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られますが、再発見され、アンチェン1世は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施しました。

 孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたといいます。

 以下は日本の巡礼者によって作られた大変貴重な絵地図(1623年 - 1633年)です。図は、下が西、上が東、左が北、右が南となっています。

 よく見ると、四隅にも伽藍が配置され、門やその周辺は現在よりはるかに、伽藍があることが分かります。さらに第一回廊、第二回廊、第三回廊、中央祠堂などの主要な伽藍もしっかり書き込まれています。


日本の巡礼者によって作られた地図(1623年 - 1633年)
Source: Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


 下の図は、上を北にしたものです。


日本の巡礼者によって作られた地図(1623年 - 1633年)
Source: Wikimedia Commons

 ちなみに下の伽藍配置図は上が北となっています。


アンコールワット平面全図

 1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残しています。

 1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院が知られていたことが伺えます。

 以下に森本右近太夫一房を紹介します。

森本一房(生年不詳 - 延宝2年3月28日〈1674年5月3日〉)について

 森本一房は、江戸時代前期の平戸藩士です。加藤清正の重臣森本一久(儀太夫)の次男でもあります。森本一房は右近太夫(うこんだゆう)と名乗ります。

生涯

 寛永9年(1632年)、カンボジア(当時は南天竺と呼ばれた)に、父の菩提を弔い、年老いた母の後生を祈念するために渡り、インドの祇園精舎と思われていたアンコール・ワットの回廊の柱に墨書(落書き)を残しました(十字回廊の右側。現在は上から墨で塗り潰されています。

 森本一房はカンボジアに渡る前、加藤家を辞して肥前・松浦藩に仕えていました。主君清正が死し、父儀太夫一久も後を追うように死した後、加藤忠広の下で混乱する家臣団に嫌気がさして肥前国の松浦氏に仕えたとあります。

 松浦氏は領内に平戸を持ち、国際的な貿易港だったこともあり、一房もまた朱印船に乗ることができたと推測されます。一房は無事日本へ帰国しますが、直後に始まる「鎖国」政策の一環としての、日本人の東南アジア方面との往来禁止に伴い、その後の消息は不明でしたが、帰国後、松浦藩を辞した一房は、父の生誕地である京都の山崎に転居したことが明らかとなっています。

 1674年に京都で亡くなり、1654年に逝去した父とともに墓は京都・乗願寺にあります。

アンコール・ワット壁面の落書き

 12行にわたって4体の仏像を奉納したことなどを記しています。

森本一房による落書きの文面一覧

・「寛永九年正月初而此所来
 寛永九年正月初めてここに来る
・生国日本/肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫/一房
 生国は日本。肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房
・御堂心為千里之海上渡
 御堂を志し数千里の海上を渡り
・一念/之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為
 一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために
・其仏像四躰立奉者也
 ここに仏四体を奉るものなり
・摂州津池田之住人森本儀太夫
・右実名一吉善魂道仙士為娑婆
・是書物也
・尾州之国名谷之都後室其
・老母亡魂明信大姉為後世是
・書物也
・寛永九年正月丗日」

出典:Wikipedia


 さらに1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介によって西欧と世界に広く知らされるようになります。

 下の絵は1866年にアンコールっワットの中央祠堂を撮影した写真です。


中央祠堂(1866年撮影)
Source: Wikimedia Commons

 1887年、カンボジアが仏領インドシナとされ、1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行いました。

 ※フランス極東学院は、多くのアンコール遺跡の修復に係わって
   いることが、本稿のアンコール遺跡の各論における技術から分かります。

 太平洋戦争下の1942年から1943年にかけて、日本の真宗大谷派が派遣した東本願寺南方美術調査隊が現地を訪れ、写真などを残しています。

 1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊されました。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたといいます。

 1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来ました。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だったのです。

 周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来ます。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であることから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれたのです。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できました(現在は修復されています)。

 だがこれが、遺跡自身には災いしました。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けたのです。内戦で受けた弾痕も、修復されつつありますが一部にはまだ残っています。

 内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定されました。


カンボジア国旗
Source: Wikimedia Commons

 今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいます。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げています。

 参道の石組みの修復は日本人の石工が指導しており、その様子はNHK『プロジェクトX』で取り上げられました。


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