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斗南藩の軌跡


@八重の桜から斗南藩へ
 
青山貞一

環境総合研究所(東京都目黒区)

掲載日:2014年5月22日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


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@八重の桜から斗南藩へ  A斗南ヶ丘の夢  B旧斗南藩墳墓の地 C円通寺と徳玄 D斗南藩士上陸の地



  NHKの大河ドラマ「八重の桜」の後半で頻繁に「斗南藩」という言葉が出てきたが、私にとって今回青森県、とりわけ下北半島を訪れた目的のひとつはその「斗南藩」の足跡を追い史跡を訪問することであった。

 理由だが、会津藩(今の福島県西部)には、文武両道あるいは学術に優れた人材が多数おり、それらの人材は、戊辰戦争後、一旦やむなく「斗南藩」に移り、明治政府でも要所要所で活躍していたからである。

 戊辰戦争で敗退はしたものの、会津藩そして斗南藩には反骨で正義感が強く、至誠で秀逸な人材がいた。その斗南の地をぜひ一度訪れてみたかったのである。会津藩の農民や民衆が斗南藩に移住した地を自分の目で確かめてみたいという思いもあった。

 それは秩父事件でさえ、明治政府に反旗を翻した農民が、その後現在に至るまで非国民、逆賊呼ばわりされている現実を見るにつけ、戊辰戦争で明治政府と闘って負けた会津藩のひとびとが本州最果ての僻地でどういう生活を送ったかについて関心があったからである。

 私は先に行った山田清彦氏インタビューの冒頭で、青森県に原子力船、原発、放射性廃棄物処理施設、高レベル放射性廃棄物中間貯蔵庫など、非常にリスクが高い施設が次々に押しつけられた背景には、明治維新で未だ逆賊とされた会津藩、斗南藩へのいわば嫌がらせ、バッシングがあるのではないかと質問している。

◆山田清彦氏に下北半島の核燃料サイクル施設を聞くYou Tube 

 幕末から明治維新にかけ、戊辰戦争が起きたとき、会津藩(今の福島県西部地域)は朝敵として幕府に敵視され、薩長軍、東京鎮台などが会津に攻め込んだ。さすがの会津藩もこの闘いに破れた。明治政府は会津藩に猪苗代湖畔・磐梯山の裾野の小さな土地か下北半島の斗南と呼ばれる広大な土地のいずれかを選択するよう迫った。

◆戊辰戦争敗退後の会津藩と斗南藩

 戊辰戦争で、まだ少年期の明治天皇を奉じる明治政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにも拘わらず、「朝敵」呼ばわりされたのである。 降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在:青森県むつ市)に斗南藩を立てた。また、藩士数名はカリフォルニアに移民した。

 一方、廃藩置県を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。廃藩置県では、会津地方は若松県となったものの、福島県1876年以前(旧の二本松藩など)と磐前県(旧の磐城平藩と中村藩)と合併され、福島県に入れられた。

  会津藩は最終的に青森県下北半島の地を選択し、以降、会津から陸、海経由で多くの会津武士、農民らが新天地に向かった。日本本土最北端のこの地は、荒れ果てた火山灰の土地と厳寒の地であった。会津から渡った人々は開墾に尽力しものの、精根尽き果て死んだひとも多い。また山川健次郎のように、その後米国に留学し東京大学の総長となったひともいた。

出典:Wikipedia

 ところで、下の図のピンク色部分が往事の「斗南藩」の領地である。 現在、それらの地域は下北半島の大部分と八戸の西側にある飛び地部分である。下北半島はど斧の形をしているが、その下北半島の斧の刃の部分から柄の半分が「斗南藩」であった。

 具体的には、下の地図にあるように、平成の市町村合併で大幅に変わっているものの、現在の自治体名で言えば、むつ市、横浜町、野辺地町、平内町、大間町、東通村、佐井村、風間浦村が北部「斗南藩」に、また十和田市、六戸町、五戸町、田子町、三戸村、新郷村が北部「斗南藩」に含まれるものと思われる。 


出典:http://blog.livedoor.jp/tamabaka/archives/50556767.html


青森県内市町村地図  出典:マピオン

 今回の現地視察では、図らずも北部「斗南藩」に当たるむつ市、横浜町、野辺地町、平内町、大間町、東通村、佐井村、風間浦村のすべてを訪問することが出来た。

 しかも、「斗南藩」の中心は現在のむつ市にあったこともあり、むつ市にある「斗南藩」の史跡地の多くを訪問することができた。

 下の地図は、むつ市に現存する主な「斗南藩」の史跡だが、今回は、訪問順で斗南ヶ丘(旧斗南藩史跡地秩父宮両殿下御成記念碑)、旧斗南藩墳墓の地、円通寺、徳玄寺、斗南藩士上陸の地である。その他、野辺地町でも「斗南藩」の史跡を訪問することが出来た。


斗南(会津)藩士の史跡図(むつ市)


斗南(会津)藩士の史跡図(むつ市)

 青森駅前のホテルを朝に発ち、むつ市に向かって車を運転し最初に出会った史跡は、野辺地戦争の史跡であった。野辺地戦争は、下の解説にあるように、戊辰戦争で明治政府側についた弘前藩・黒石藩連合軍が、徳川幕府側の盛岡・八戸藩連合軍に野辺地で撃退させられたことを指している。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17

◆野辺地戦争
 野辺地戦争は明治元年9月23日におきた、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。奥羽越列藩同盟側の盛岡藩は9月20日に新政府に降伏し、22日に新政府に降伏が受け入れられていた。だが翌23日、新政府側の弘前藩及び黒石藩の連合軍が野辺地へ侵攻。交戦の結果、盛岡・八戸藩連合軍が弘前・黒石藩連合軍を撃退して戦闘は1日で終了し、新政府からは両藩の私闘として処理された。 弘前藩はこのほかにも鹿角郡濁川にも放火のために出兵を行っており、本格的な侵攻ではなく、実績作りのための放火活動であると言われる。戦争と言われているが実際は小規模な局地戦であった。
出典:Wikipedia
 

三沢市先人記念館で撮影
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-18


野辺地戦争死者墓所にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


野辺地戦争死者墓所にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


野辺地戦争死者墓所にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


野辺地戦争死者墓所にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-5-17

つづく