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斗南藩の軌跡

C円通寺と徳玄寺

 
青山貞一

環境総合研究所(東京都目黒区)

掲載日:2014年5月22日
独立系メディア E-wave Tokyo
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@八重の桜から斗南藩へ  A斗南ヶ丘の夢  B旧斗南藩墳墓の地 C円通寺と徳玄 D斗南藩士上陸の地



 この後、旧斗南藩が藩庁としたむつ市にある円通寺に行った。


斗南藩史分布図(むつ市)  出典:むつ市

◆円通寺

 現地では円通寺は、斗南藩の藩庁とされたことで有名である。

 明治維新におきた戊辰戦争のうち東北戦争で新政府軍に敗れた会津藩(23万石)が、1869年(明治2年)、五戸に転封となり斗南藩(3万石)となったが、1871年(明治4年)に藩庁がこの寺に移されている。

 明治3年4月には黒羽藩と旧盛岡藩三戸代官所にて領地引継ぎ、当初は藩庁を旧盛岡藩五戸代官所に置いた。明治四年(1871)二月、円通寺に斗南藩庁を移し藩主の仮館としている。

 なお、 円通寺の山号は吉祥山。本尊は釈迦如来。恐山菩提寺の本坊でもある。円通寺は、1522年(大永2年)、南部氏の援助により曹洞宗の僧聚覚によって創建され、1659年(万治2年)に中興されている。

 出典:Wikipedia他


斗南藩史跡地 円通寺(むつ市)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2014-5-17


斗南藩史跡地 円通寺本堂内部(むつ市)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


斗南藩史跡地 円通寺
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2014-5-17

◆斗南藩史跡地 円通寺

 明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、全国唯一移封処分を受け最北の地へ挙藩流罪となったのです。

 ここ円通寺は、明治4年2月18日数え年3才の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。

 現在も容大愛玩の布袋像などが保存されています。また、同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に玩中の藩学校日新館もここに移されました。境内にはこの地に残った会津人の手により、明治33年8月容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑が建てられました。碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。


   
斗南藩史跡地 円通寺(むつ市)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


斗南藩史跡地 円通寺(むつ市)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2014-5-17

 円通寺から歩いてすぐのところに、徳玄寺がある。


両寺院の位置関係  出典:グーグルマップ 

◆徳玄寺

 徳玄寺は、文禄三年(1594)、加賀の僧が五戸石澤に庵を結び、寛永二年(1625)、田名部に移したといい創建は古い。

 徳玄寺は円通寺に斗南藩の藩庁が置かれた際、藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所であり、同時に重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた場所でもあったとされている。


斗南藩史跡地 徳玄寺(むつ市)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


斗南藩史跡地 徳玄寺本堂内部(むつ市)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17



◆斗南開発の館 徳玄寺

 表高23万石を誇り、奥羽第二の雄藩であった会津藩は全国諸藩の中で最も皇王の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ全国唯一の移封処分を受けてここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。

 ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。

 当時の容大公は数え年3歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。

 またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた所でもありました。

 東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。


つづく