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千葉県3大壇林跡短訪

飯高壇林跡飯高寺
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
2021年10月15日視察 2021年10月31日公開
独立系メディア E-wave Tokyo

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飯高神社2   飯高神社3  飯高神社4   小西壇林1    小西壇林2




◆全国有数の飯高檀林
 出典:匝瑳市教育委員会公式Web

 檀林とは仏教の学問所のこと。飯高檀林は全国有数の歴史と規模を誇り、日蓮宗の学問所(現在の大学に相当)として栄えた。天正8年(1580年)から明治7年(1874年)まで294年にわたって、法華宗(日蓮宗)の学問所がおかれた寺である。

 最盛期には600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出した。廃檀当時のまま保存され、その中の総門、鼓楼、鐘楼、講堂は国指定の重要文化財となっている。また、境内全体は県指定史跡に指定され、うっそうとした杉林が歴史の重みを感じさせてくれる。

・檀林の修学課程

 飯高檀林を今の学校に例えると、「大学」としてみることができまるが、初等教育課程から専門研究課程に至る8階級が設置されていた。次の8課程で、名目部に入学してから全課程を終了するまで36年間もの期間を要したといわれる。

 名目部
  四教儀部
  集解部
  観心部
  玄義部
  文句部
  止観部
  御書科

 今日の学校のように学期があったわけではなく、年に6カ月間学ぶという方法がとられ、そのうち3カ月間は自分で学習(説法など)しなければ単位が取得できなかった。また、病気などで1日でも講義を欠席すると、進級できなかったようだ。この講義のある日を「物読日」と言っていた。

・檀林の管理組織

 檀林の最高責任者を「化主」と言い、これは現在の学長に当たる職である。教授陣を「能化」、庶務および教授の補佐役を「上座部」と言っていた。

 大きく分けると以上の組織から成り立っていたが、このうち上座部は檀林の最終課程にある止観部から上位5人が選ばれ、一老・二老・三老・四老・五老と分かれ、講義を補佐し、または学徒の生活行儀指導の推進者でもあったようだ。

 こうした管理組織の中で教師も所化(学徒)と起居を共にして、学問・日常生活を通じ、研鑽を重ねた。学徳の優れた有力な能化や上座が中心となって学寮を増築するなどし、徐々に規模を拡大し、享和3年(1803年)の「御由書明細書」によると、59軒の学寮が立ち並んでいたと書かれている。

檀林の地位

 日蓮宗学徒の教育機関(檀林)は主に関東、関西方面に創設されていきたが、飯高檀林がその中に占める地位は、檀林間の編入学の取り扱いに明確に示されている。それによると、下総の中村檀林(現在の多古町南中)の止観部(大学院程度)から転入した場合は、一課程下の文句部の最末に編入され、また関西の諸檀林から転入してくると、教授格の者でも助手格まで落とされていた。

 以上のことから、数ある諸檀林のうちでもその優位性ははっきりと示され、日蓮宗の中における最高で最大の学問機関として位置付けることができる。


◆本堂(講堂)


森の中の飯高寺の講堂(=飯高壇林)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



飯高寺の講堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



飯高寺の講堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



本堂(講堂)の正面の青山貞一
撮影:池田こみち iphone



飯高寺の講堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



飯高寺の講堂の天井
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


飯高寺の講堂の回廊
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



本堂(講堂)の正面右側面の青山貞一
撮影:池田こみち iphone



本堂(講堂)の背面正面右の青山貞一
撮影:池田こみち iphone



飯高寺本堂と方丈の連絡回廊
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



飯高寺本堂と方丈及び庫裏
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下は飯高寺・飯高壇林等の伽藍の詳細解説
 出典:近世日蓮宗関東檀林・京都檀林

大講堂

 大講堂:慶安元年再興、桁行14間梁間9間、寄棟造、銅板葺、一軒疎垂木、平入(当初は入母屋造、茅葺)

 大廊下、中廊下、書院、学問所、対面所、庫裏、井戸屋(1間2間)、籾蔵、槙小屋、堂番部屋、裏門石段百弐拾段、鼓楼、鐘楼、材木小屋、井戸屋(5尺四方)、所化部屋(梅小路、桜小路、楓小路、柳小路、無門小路)

一切経蔵

 一切経蔵、文句議論所、妙見社(2間に4間)、玄義論談所、橋門(堀切に橋を渡し茅葺屋根を架する、2間×9間)、

 所化部屋(松小路、藤小路、竹小路)、妙見社(2間に4間)、七面社、総門、

 食堂、浴室、教蔵院(玄能寮)、表門、裏門、所化部屋(四軒小路、三軒小路、ニ軒小路、三軒小路(ママ)、松崎小路、野路小路)

 境内は台地上にあり、南北に長い瓢箪形の敷地を持つ。

 南に惣門があり北に大講堂があり、その中間に堀切があり橋門を渡す。惣門前石段下に食堂、惣門内左に教蔵院、竜眠庵などがある。橋門を渡ると右に談合所、左に経蔵、北進すると左右に所化寮が並び大講堂に至る。

 大講堂前庭左に鐘楼、右(東)に鼓楼があり、東は裏門石坂に通じる。大講堂裏に方丈(庫裏)居間があり廊下で繫がる。境内山裾にも学寮があった。享和3年には衆寮59棟、所化寮125軒を数える。


 
 なお、飯高寺・飯高壇林の詳細については、以下を参照のこと。
飯高壇林の歴史の詳細


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