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千葉県3大壇林跡短訪

小西壇林(正法寺)1
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
2021年10月15日視察 2021年10月31日公開
独立系メディア E-wave Tokyo

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飯高神社2   飯高神社3  飯高神社4   小西壇林1    小西壇林2


青山貞一・池田こみち・千葉北東部3壇林視察計画

 
 匝瑳市から大網白里市にある正法寺・小西壇林跡までは、上の図にあるように、約40kmだが、大きな渋滞もなく、45分ほどで小西壇林跡に到着した。
 
小西壇林跡は中村壇林、飯高壇林と比べると、伽藍と言うか、施設が余り残っていない。これは明治6年の大火で諸堂の大半を焼失し、小西檀林は廃止のやむなきに至ったことが背景にある。

 資料によれば、小西檀林の最盛期は以下の図にあるように、関東3大壇林で一番栄えた大きな壇林だったことが分かる。


出典:正法寺・小西壇林跡

 だが、現在は以下の写真にあるように、総門、本堂、鐘楼しか残っていなかった。左から鐘楼、総門、本堂、庫裏である。


出典:正法寺・小西壇林跡

 まずは正法寺・小西壇林の概要を紹介する。

◆正法寺・小西壇林 概要


出典:Wikipedia

 以下の出典:正法寺公式Web

 最盛期には900人を超える学僧を擁した小西檀林の旧跡で、小西法縁発祥の寺である。寛政3年(1791年)の絵図によると、広大な境内には徳川家東金鷹狩り御殿を移した、本院7堂6殿5棟、塔頭4ヶ寺1院、学寮73舎という大伽藍が配置されている。

 惜しいことに明治6年の大火で諸堂の大半を焼失し、檀林は廃止のやむなきに至った。現存する伽藍は旧講堂を改築した本堂と、徳川家綱公の寄進による中門、元禄年間建立の総門(以上、町指定文化財)のほか、妙見堂・鐘楼堂・客殿・庫裡などがある。

縁起


 長禄2年(1458年)、小西城主・原肥前守胤継(はらひぜんのかみたねつぐ)が平賀本土寺9世・妙高院日意上人を開山に迎え自邸を寺に改めたもので、これ以後、当時と平賀は両山一致制を敷、7代130年余にわたる強固な関係を保った。

 7世妙道院日悟上人は天正8年(1580年)、徳川家康公から檀林開設を許可され、京都松ヶ崎檀林より通王院日裕を招き、ここに小西檀林が開講した。この後、法灯は自證院日詔上人(池上14世)、智見院日選上人(身延26世)など、宗門選り抜きの逸材に継承され、当寺は隆盛を極めた。

小西檀林と小西法縁

 法縁は檀林出身僧の同窓組織として享保年間(1716-35年)にはほぼ確立し、入檀子弟は各出身寺の本寺(法縁寺)によって谷(学寮)を別にした。

 小西檀林の場合は江戸谷・茂原谷・伊豆谷の三学寮で構成し、その主な本寺として、江戸谷は小室の妙法寺、浅草の幸龍寺(現、烏山)、深川の浄心寺。茂原谷は茂原の藻原寺、大野の本遠寺、和歌山の報恩寺、本所の法恩寺、谷中の一乗寺。伊豆谷は韮山の本立寺、三島の本覚寺、雲金の妙本寺などがあった。

 また近隣の本寺、ことに幸龍寺・浄心寺・法恩寺など江戸の大刹には、各寺に十数院の宿坊(塔中)が整っていた。谷と宿坊を行き来して交互に生活を送った。
 かくて小西檀林は飯高・中村両檀林と共に「関東三大檀林」と称され、近世まで多くの高僧・学匠を排出し、その法縁・法脈は今なお全国に及んでいる。

主な什宝

・後西天皇女理寶宮御筆妙高山扁額(町指定文化財)
・日朗上人・日像上人・日意上人・日乾上人・
・日悟上人筆本尊、日暹上人筆首題(寛永7年/1630)、
・諸本山貫首署名金泥法華経(元禄年間)
・狩野隼人筆涅槃図(元禄年間)
・境内に原肥前守胤継子孫・能登守行朝日源大居士の墓所(町指定文化財)がある。
・隣地に小西檀林総鎮護柏原大明神社あり。


小西壇林(正法寺)2につづく