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<目次>
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 @歴史 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 A橋梁 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 Bトンネル 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 C変電所 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 D技術 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 E設計 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 F文化 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 G提案 真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 H補遺
ここでは、旧信越本線の碓氷線にかかわる技術、設計、工事などについて現地で入手した資料を中心に調べてみた。まず、鉄道技術から。 ◆碓氷線建設以前の「馬車鉄道」 我が国の鉄道の歴史においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅-横川駅間が明治18年((1885年)に、さらに軽井沢駅-直江津駅間が明治21年(1888年)に開通すると当区間が輸送のネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させる事が強く望まれた。 それ以前にあっては、碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていた。だが、馬車鉄道では輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。 下の写真は、碓氷馬車鉄道と建設工事中の第五隧道(トンネル)である。 明治24年(1891年)、めがね橋下を撮影した貴重な写真である。碓氷鉄道ができるまで、横川と軽井沢間はこの碓氷馬車鉄道がつないでいたことになる。下の写真からは馬車鉄道は5両あることが分かる。 碓氷馬車鉄道。第五隧道(トンネル)工事現場近く 旧国道18号線付近 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 碓氷馬車鉄道と建設工事中の第五隧道(トンネル)付近 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 以下に碓氷馬車鉄道についての詳細を示す。この馬車鉄道は、その後の碓氷線の軌道、橋梁、トンネル工事などで必要となるレンガなどの資材も運んでいる、。
◆「アプト式」鉄道技術 碓氷峠の場合、中央線で用いられたスイッチバックやループ線などを設ける方法では対処できないため、現地視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にアプト式(アブト式)のラックレールを用いる事を提案した。 そして結果的に提案し採用されたのは、仙石貢と吉川三次郎のプランである。
下の図はアプト式の根幹技術、ラックレールのイメージ図である。 アプト式の根幹技術、ラックレールのイメージ図 出典:Wikipedia アプト式とラックレール 出典:Wikipedia アプト式のラックレールに対応した列車の車輪と歯車(ギア) 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15
◆日本の幹線鉄道で最初の電化 トンネル編で述べたように、26カ所にも及ぶ隧道(トンネル)の連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れた。実際、4名の隧道番(トンネル番)が殉職している。 1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線鉄道の電化が行われた。 この電化により碓氷線の区間所要時間は80分から40分に半減し、輸送力は若干増強された。しかし、輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。 1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。 19. これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし 20. くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ さらに『鉄道唱歌』と同じ年に作成された現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い ◆機関車技術 ED42型 アプト式を支えるもうひとつの十な技術は、機関車である。 当初、蒸気機関車で出発した碓氷線だが、深刻な煙害問題から幹線鉄道では我が国最初の電化が行われた。電化後の主要な機関車はED42型と言われている。 そのED42形電気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身、鉄道省(後の運輸通信省)が製造した直流用電気機関車である。 当初、急勾配区間用アプト式電気機関車としてEC40形が開発利用されtが、途中からその置き換え用としてED42型が導入された。 急勾配区間用アプト式電気機関車第一号のEC40形 ラックレールが見える 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 基本設計はスイスから輸入したED41形を参考とし、1934年(昭和9年)から1948年(昭和23年)までの間に、日立製作所、東芝、川崎重工業、三菱重工業、汽車製造で28両が製造された。 車体は前後とも切妻の箱形車体で、車体前後端にデッキが設けられている。運転台は坂下の横川寄りにのみ設けられた片運転台型である。前位側の屋根上に停車場構内で使用するパンタグラフを1基搭載する。本線上では第三軌条から集電するため、集電靴が片側2か所に設備されている。 ED42型機関車第一号機 碓氷峠鉄道文化むらで保存している 出典:Wikipedia 形態的には、1 - 22の戦前形と23 - 28の戦時形に分類される。戦時形は材料、機器の代用化や車体工作の簡易化が行なわれ、外観上は外板の薄板化に窓隅や側面エアーフィルター枠の角形化、屋上モニタの廃止が目立っている。 走行部のシステムは、モデルとしたED41形と基本的に同一であるが、元の構造が複雑だったこともあり一部の設計が変更された。電動機は、動輪用に2基、アプト式軌条のラックレールに噛み合わせる歯車駆動用1基の計3基が搭載されている。 ラック台車(歯車用台車)は車体中央部に設けられ、動輪の第2軸、第3軸に荷重を分担して負担させるようになっている。走行用台車はボギー式となり、各台車のホイールベース間に電動機1基ずつが装架され、動力は側面のジャック軸から連結棒で各動輪に伝達される。 その用途から一貫して横川機関区に配置、信越本線横川 - 軽井沢間において運用された。また1951年(昭和26年)からは急勾配区間での降坂時に電力回生ブレーキを使用可能なように機器が改造された。 1963年(昭和38年)9月30日に横川 - 軽井沢間が全面的に粘着運転の新線に切替えられ、アプト式ラックレール区間を廃止したことで本形式は役目を終え、同年12月9日に全機が廃車、除籍されている。 この間の1961年(昭和36年)10月1日からは、信越本線に初めて設定された特急列車「白鳥」の牽引も行なっている。 ◆ED42型仕様 全長:12810mm 全幅:2950mm(集電靴を含めた全幅) 全高:3940mm 運転整備重量:62.52t 電気方式:直流600V(第三軌条方式、架空電車線方式併用) 軸配置:B-b-B 台車形式:― 主電動機:MT27形×3基 歯車比(動輪):20:93(1:4.65) 歯車比(歯輪):63:105×26:58(1:3.72) 1時間定格出力:510kW 1時間定格引張力:9300kg(14000kg) 1時間定格速度:13.5km/h 動力伝達方式:歯車1段減速、連結棒式(2段減速歯車式) 制御方式:非重連、抵抗制御(2段組み合わせ制御) 制御装置:電磁空気単位スイッチ式 ブレーキ方式:EL14A空気ブレーキ、電気ブレーキ(後に回生 ブレーキ併用)、手用動輪用ブレーキ、手用ラック歯車用帯 ブレーキ、空気式ラック電動機用帯ブレーキ 最高運転速度:粘着運転区間25km/h、ラック運転区間18km/h 以上、Wikipedia kara引用、参照 下の写真は第五隧道(トンネル)を出て第三橋梁(めがね橋)を渡るED42型機関車。アプト式のラックレールが見える貴重な一枚。 第五隧道(トンネル)から第三橋梁(めがね橋)上を走る列車 アプト式のラックレールが見える 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 第二トンネルと第三トンネルの間を行く 上りの急行列車ED42型機関車 撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15 つづく |