シルクロードの今を征く Now on the Silk Road アヤソフィア2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) モスク アヤソフィア1 アヤソフィア2 アヤソフィア3 アヤソフィア4 アヤソフィア5 アヤソフィア6 アヤソフィア7 次はイスタンブルのアヤソフィア2です。 ◆アヤソフィア2 歴史 創建 アヤソフィアは、元来キリスト教の大聖堂です。最初の聖堂は、首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって350年頃に建設が始まり360年2月15日に、アリウス派僧侶の司教アンティオキアのユードクシウスによって]献堂されました。 単に大教会(メガリ・エクリシア)と呼ばれており、聖堂は再建されても常に巨大なものであったため、以後もほとんどこのように呼ばれています。最初の教会堂は木造屋根をもったバシリカだったらしく、「偉大な教会」(Μεγάλη Ἐκκλησία (Megálē Ekklēsíā, "Great Church"))またはラテン語で「Magna Ecclesia」と呼ばれました。これは、都市内にあったどの教会よりも大きな建物であったためです。今日ではその位置しか知られていません。 404年にコンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂されました。この聖堂も現在のものとは全く違うバシリカであり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾された梁が残っています。 しかし、この聖堂も 532年1月の首都市民の反乱(「ニカの乱」)における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂とともに再び焼失してしまいます。 コンスタンティノープルのソクラテスが440年に記したところによると、教会は346年にコンスタンティウス2世によって建設されたといいます。しかし7世紀 - 8世紀以降からの口伝では、この大建築物はコンスタンティヌス大帝によって建てられたといいます。ヨハネス・ゾナラス(英語版)は2つの説を整合させ、コンスタンティウス2世はニコメディアのユーセビウスが献納した建物が壊れたため修理をしたのだと述べました。 ユーセビウスは339年から341年にコンスタンティノープルの司教職を務め、大帝は337年に亡くなっているため、最初の教会が大帝によって創建されたという考えは可能です。この最初の教会は、コンスタンティノープル大主教のヨアンネス・クリュソストモスが皇帝アルカディウスの妃アエリア・エウドキアと対立し404年6月20日に追放処分に科せられた後に発生した暴動で焼失しました。 現在に至る構築 ![]() アヤソフィア大聖堂の内部 Source: Wikimedia Commons 2度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝はただちに再建することを決定し、その設計を技師(ミヒャノピオスまたはミヒャノコス)トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロスにゆだねると、金に糸目をつけず世界中から工員を集め、工事開始を急かしました。 過去のパジリカ復旧ではなく全く新たに設計され直した大聖堂の建設過程は、プロコピオスによって詳細に報告されています。両者は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱を煉瓦ではなく大型の石材で造成することによって、クリープによる変形や乾燥収縮がおきないようにしました。 このように緻密に建設を進めたにも関わらず、ドーム下部のアーチ架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で亀裂や破壊がおこったとされています。プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、南と北のアーチは養生段階で下部のティンパヌムに過大な荷重をかけたため、窓の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めました。それでも、巨大なバットレスをドーム直下にまで補強するなどの方法によって41.5 mの高さのドームは建設されました。 工事は5年11か月という短期間で終了し、 537年12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教メナスによる献堂式を迎えました。この時ユスティニアヌスは、古代イスラエル王国のソロモン王の神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから、 「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられています。プロコピオスは著書『建築について』にて、計算された巧みな比率を持ち、比率陽光が豊かに差し込む会堂内部を「美の伝道」と称え、中央の半球状ドームはまるで金の鎖で天空から吊るされたようだと感想を述べました。 しかし、計画では真円になるはずだったドームは、建築中の歪みによって南北に2 m程度長い楕円形になっており、また、ドーム基部に現在よりも大きな開口部を設けていたため、553年から頻発した地震によって亀裂を生じました。 特に557年12月14日の地震によって聖堂は大きなダメージを受け、558年5月7日に東側のアーチと半ドーム、そして中央ドームの半分が崩壊しました。この崩落の主な原因は、非常に重い支持構造と、平たいドームの重さによる強いせん断荷重であったためです。これらがドームを支えていたアーチに変形を引き起こしました。 再建工事は直ちに着手され、残存していたドームは取り除かれました。現在にみるドームは、小イシドロスらの専門委員会によって内壁を補強した上に架けられた第2ドームです。彼らは旧来のドームにあった構造上の弱点を分析し、まずアーチの壁厚を調整して、ドーム基部を正方形に近づけ、元よりも約6.4 m高いドームを構築し、現在に至る高さ55.6 mへ改めました。また、軽量の建築材料を用いる工夫も施し、形状もリブ構造とペンデンティブを備えるものに改良し、その直径も32.7 - 33.5 mとなっています。 ドーム再建後、562年12月24日に新たに献堂式が行われ、賞賛の合唱の中ユスティニアヌスは総主教エウテュキオスとともに戦車に乗って堂内に入ったとされます。このドームは989年10月26日と1346年5月19日に大規模な崩落をおこしており、10世紀の崩落ではドーム西側3分の1を、14世紀の崩落では南東方向の半分を失いました。その際、基本的なデザインを維持したまま修復されましたが、ドームの開口部は段階的に縮小されました。 また、563年には小イシドロスによって外側にドーム基部まで立ち上がる4基の塔状バットレスが建設されました。これは現在3基が現存しており、堂内の4つの主柱に対応し、内部には折れ曲がった階段があります。その後も補強を目的とした構造物の増築は続き、特に9世紀に行われた南北のティンパヌムは大規模な工事となりました。 726年、皇帝レオーン3世はイコノクラスムを先導し、一連の勅令を発する中で軍にすべてのイコンを除く命令を下しました。これによってすべての宗教画や像はアヤソフィアから取り除かれました。イコノクラスムはレオーン4世の皇后エイレーネー(後に女帝)が主導した787年の第2ニカイア公会議でいったん終息しましたが、829年に即位した皇帝テオフィロスはイスラム美術の影響を強く受け、生物の表現一切を禁じました。 989年10月25日の大地震は西側ドームのアーチ部分を崩落させました。皇帝バシレイオス2世はアルメニア人建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人のアルキテクトのトルダトに修復の主導を依頼しました。 トルダトは落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入しました。この工事には6年が費やされ、994年5月13日に完成しました。この時、4大天使の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の使徒ペテロとパウロの間でキリストを抱いた聖母マリアが加えられました。側面の大きなアーチには、預言者や教父らの絵画が施されました。 ユスティニアヌスによって再建されたアヤソフィア大聖堂は、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられました。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られます。 14世紀にコンスタンティノープルを訪れたロシア人スモレンスクのイグナティオスの記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「ノアの箱船の扉」やイエスが磔にされた「聖十字架」、「アブラハムのテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていました。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されており、内ナルテクス南端の、現在では出入り口となっている部分は、総主教宮殿への通路となっていました。 トプカプ宮殿1へつづく |