シルクロードの今を征く Now on the Silk Road アヤソフィア5 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) モスク アヤソフィア1 アヤソフィア2 アヤソフィア3 アヤソフィア4 アヤソフィア5 アヤソフィア6 アヤソフィア7 次はイスタンブルのアヤソフィア5です。 博物館内部の装飾 ![]() アヤソフィア内部北面 アーケードとティンパヌム ![]() アプス半ドームにある聖母子のモザイク画 アヤソフィア博物館の内装は、ほぼモスク時代のものを踏襲し、2階までの壁面は多色大理石と金地モザイクで、その上部は漆喰で飾られています。アーケードは大理石の象眼細工で覆われ、古代建築から剥ぎ取られた大理石円柱によって支えられていますが、 柱頭部分は新規に製作されたアカンサスの葉の模様のある変形イオニア式で、ユスティニアヌスのモノグラムが刻まれています。つまり、この部分は創建当時のものなのです。 プロコピオスによると、創建当時、ドームには巨大な十字架が画かれ、アプスには図像が配されていたらしいのです。このモザイクは、円蓋の崩落や、726年から843年の聖像破壊運動によって破壊されましたが、プロコピオスやその他の同時代の人びとの記録には、ドームの十字架以外についての記録がないため、そもそも創建当時、人物などのモザイクはなかったのではないかと考えられています。聖像破壊運動の後は、さまざまなモザイク画が作成され、今日その一部を見ることができます。 1453年にアヤソフィアはイスラム教のモスクとなりましたが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていました。しかし、1847年から1849年のフォッサーティの改修作業の過程で壁面の調査も行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命により、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われました。当時はまだアヤソフィアはモスクとして利用されていたため、この調査記録がまとめられた後、堂内壁面は再び漆喰が塗られました。 トルコ革命後、1931年にアメリカのトーマス・ウィットモア主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、1935年には、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは無宗教の文化財として公開されました。その後、ビザンティン研究所は1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行いました。 20世紀後半には歴史的建造物の保存に力が注がれるようになりました。アヤソフィアの内部は各所に痛みが見られ、内部円柱の傾きやドームの歪みなどが発見されています。これらの主な原因は短期間で完成させた工事によるもので、レンガの間に盛られたモルタルがほぼレンガと同じくらい厚く、しかも充分な乾燥を待たずどんどん積み上げられたために長い間にクリープ現象が進んだものと考えられています。 それでも大規模な崩壊が起きなかった事は、6世紀の設計が優れていた証左になります。1990年からはトルコと日本の国際共同学術調査が開始されました。 モザイク画 ![]() ティンパヌムのモザイク画ヨハネス・クリュソストモス Source:Wikimedia Cmmons 大聖堂内部には、今日少数かつ断片的にではありますがキリスト教聖堂であったころのモザイク画が残っています。 モザイク画のクローズアップを見るには、トルコ人ファインアート写真家のアフメト・エルトゥウの写真がアヤソフィア北のギャラリーで常設展示されています。 『聖母子と大天使』(870年代?) アプスに残るモザイク画。5 m近い聖母子の座像の両脇に大天使を配しますが、北側の天使像はほとんど失われています。記録に残る銘文と、876年に総主教フォティオスが行った説教から、聖像破壊運動が収束した後に描かれたと考えられますが反論もあります。 フォティオスの説教がこの図像を指すものであれば、これは新たに画かれたことを暗に述べていますが、中期ビザンティンの「新しい(Nea)」という概念は、聖像破壊運動以前の伝統への回の意味が強く、聖母子と大天使の図像は元の装飾を忠実に再現したものか、漆喰に塗り込められていたものを再びクリーニングしたのか、あるいは新たにデザインされたものかは不明です。 ![]() 南入口の「キリストと皇帝」のモザイク画 Source:Wikimedia Cmmons 大セクレトンの聖人像(870年代) セクレトンは、2階西南にある小部屋で、かつては総主教宮殿からの通路の一部でした。聖像破壊運動により、768年あるいは769年に総主教ニケタスによって壁画が剥ぎ取られましたが、その後、モザイクによって再び装飾されました。ゲルマニクスやニケフォロスといった、聖像破壊運動にあってイコンを擁護した総主教のほか、聖像破壊運動の後に総主教となったタラシオス、メトディオスの図像が断片的に残存しています。 ティンパヌムの聖人像(877年頃) ドームを支えるアーチの下にある、南北の半円形壁面に残る聖人像です。北側に小イグナティオス、メトディオス、グレゴリオス・タウマトゥルゴス、ヨハネス・クリュソストモス、イグナティオス・テオフォロス、キュリロス、(アレクサンドリアの)アタナシオスが画かれ、南側にニコメディアのアンシモス、大バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ディオニュシオス・アレオパギテス、ニコラオス、アルメニアのグレゴリオスが画かれていましたが、今日ではヨハネス・クリュソストモス、小イグナティオスの図像がほぼ完全なかたちで残り、メトディオスらの図像の一部が残っています。 『キリストと皇帝』(10世紀初頭?) ナルテクスから本堂への中央入り口上部にあるモザイク画です。この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画がありました。今日見ることのできるモザイクは、キリストを取り囲むように大天使と聖母マリアの2つのメダイヨンが配置され、キリストに礼拝を行う皇帝が画かれています。これがいつ、誰が作成させたのか、皇帝が誰であるのかということについては銘文がなく、テオフィロス説、レオーン6世説など諸説あるが定かではありません。 『聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世』(10世紀後半) 西南の玄関からナルテクスへの入り口上部にあるモザイク画。中央に立つ聖母子に、向かって左側のユスティニアヌスがアヤソフィアを、右側のコンスタンティヌスがコンスタンティノープルの街をそれぞれ捧げている図が描かれています。作成時期や動機については不明です。 ![]() アヤソフィア内部の「キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻」のモザイク画 『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』(1042年から1055年頃) 南側2階廊に残っています。モザイクの下部は失われていますが、銘文から人物が特定できます。この図像は、もともとゾエが最初に結婚したロマノス3世によって寄進されたものだと考えられていますが、ゾエが後にミカエル4世、コンスタンティノス9世と2度再婚しているため、夫である皇帝の顔や銘文は、恐らくその都度作り直されました。今日でもその跡ははっきりとわかります。 ゾエの顔とキリストの顔にも修正された跡がありますが、なぜこの部分にまで修正を施さねばならなかったのかについては、諸説があります。コンスタンティノス9世は、マンガナのハギオス・ゲオルギオス聖堂建設やエルサレムの聖墳墓聖堂の修復など、莫大な国家予算を聖堂の装飾や建設に注ぎ込みました。 ![]() 聖母子と12世紀の皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻のモザイク画 『聖母子と皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇后エイレーネー(イリニ)』(1122年から1134年頃) Source:Wikimedia Cmmons 12世紀に作成された、コンスタンティノープルに残る唯一のモザイク画です。12世紀に東ローマ帝国領内で作成されたモザイクは、今日ほとんど残っていないため、貴重で。図像の配置や銘文は、側にある『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』に影響を受けていることがわかります。すぐ横の柱側面には、彼の長男アレクシオスの図像もあります。 『デイシス』(1260年頃) Source:Wikimedia Cmmons 元々は2階廊の壁面いっぱいに画かれたものでしょうが、下部はほとんど失われています。それまでのモザイク画に比べてキリストの顔が立体的に描かれているのが特徴です。そのほかにも、南窓からはいる光を効果的に利用するような工夫が成されているため、ビザンティン美術の最高傑作とされています。ミカエル8世パレオロゴスがラテン帝国に奪われていたコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力ですが、文献がないため詳細は不明です。 ![]() 「デイシス」のモザイク・イコン Source:Wikimedia Commons 『エンリコ・ダンドロの墓碑』(1205年) ラテン帝国の時代に造られたもので、デイシスと向かいあう位置の壁面近くにあります。「狐」と呼ばれ第四次十字軍を巧みに操ったエンリコ・ダンドロの墓碑です。これはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンの『コンスタンティノープル征服記』にも記されています。遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国の皇帝メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還されました。 トプカプ宮殿1へつづく |