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イスタンブル(Istanbul、トルコ)

アヤソフィア3


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次はイスタンブルのアヤソフィア3です。

アヤソフィア3

カトリックからの奪還


アヤソフィアは13世紀にラテン帝国の支配にあった1204 - 1261年には
カトリックの影響下に置かれていました。
Source:Wikimedia Commons

 1261年の奪還後、床の装飾の一部に ボードゥアン1世の墓碑文は、1261年にコンスタンティノープルが奪還された際にビザンティンの人々が吐き捨てる唾に晒されましたた 。奪回した時、教会は荒れ果てた状態にありました。1317年、アンドロニコス2世パレオロゴスは亡き妃ヴィオランテ・ディ・モンフェラートの遺産を使い、教会の東と北に4つのバットレスを新設しました。

 1453年、メフメト2世はコンスタンティノープルをイスラムの勢力下に収めるため包囲した]。後に彼自身が後悔する事になりますが、メフメト2世は都市の占領が成し遂げられれば、3日間の略奪行為を許すと軍に告げました。アヤソフィアも例外ではなく、むしろ都市の宝物が収めてあると考えられ標的にされました。

 防衛網が崩れると、略奪者らはアヤソフィアへ押し寄せ、ドアを叩き壊しました。教会に避難していた、防衛の役に立たない多くの者たちは、教会に集まった人々もろとも侵略者の戦利品になり、虐殺もしくは奴隷として鎖に繋がれ、建物も荒らされ略奪されました。聖職者らは侵略者が妨害するまで祈り続けていました。メフメト2世が僕らと到着すると、彼はアヤソフィアをモスクに作りかえると宣言しました。するとウラマーのひとりが聖壇に上がり、シャハーダの暗唱が行われました。

 5月29日、 コンスタンティノープルを占拠したオスマン帝国のメフメト2世は、その日の午後に市入城するとすぐにこの大聖堂に赴きました。 彼は大聖堂入り口の土を自らのターバンに振りかけて堂内に入り、 コンスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を没収、モスクへ転用することを宣言しました。

 このときにアヤソフィア大聖堂に接続する総主教館は破壊され]、 アヤソフィア内部は十字架が取り外され、マッカ(メッカ)の方向を示すくぼみであるミフラーブが加えられましたが、 内部の改修は必要最低限にとどめられた事は、壁龕の聖人・教父像が現存している事から伺えます。

 その後、4本のミナレットが建設され、南には帝国王室の墓所に使われました。礼拝堂内にはミンバルと呼ばれる説教壇も取り付けられまいた。アヤソフィア・ジャミィと呼ばれるようになったこの聖堂はトプカプ宮殿の側に位置し、オスマン帝国の君主が毎週の金曜礼拝に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクのひとつとされました。

 しかしその状態は、例えばコルドバのペドロ・タファやフィレンツェのクリストフォロ・ボンデルモンティなど西側のからの旅行者が記したように、教会は荒廃するに任され、扉が外されたまま放置された箇所もありました。建物の手入れと改築を命じたメフメト2世は、同年6月1日には最初の金曜礼拝に赴きました。アヤソフィアはコンスタンティノープルにおけるオスマン帝国初のモスクとなったのです。

 1481年までに、南西の階段塔の上にミナレットが建設されました。次代のスルターンであるバヤズィト2世はミナレットを北東角に設置しました。このうち一つは1509年のイスタンブル地震で倒壊しましたが、16世紀半ば前後に建物の東西部分に新設されたミナレットと対角線上に当る部分に移設されました。

 16世紀にはスレイマン1世が征服したハンガリーから2基の巨大な燭台を持ち帰り、ミフラーブの両脇に据えました。セリム2世時代には建物に劣化が見え始め、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われました。

 スィナンは歴史的なビザンティン建築の西端に2基の大きなミナレットを据え、さらにスルターンの特別席が作られました。南東の建物では、1576 - 1577年にセリム2世のテュルベ(英語版)(墓廟)を据えるため、1年前にS字型の角にあった総主教のテュルベが取り壊されました。ドームの頂上には、金の三日月が取り付けられ、これが反射する光が届く35アルシン(約24 m)幅の建物周辺からは当時建っていたすべての家屋が取り除かれました。ここには後に、オスマン帝国の皇女43人のテュルベも追加されました。

 1594年には宮廷建築家(ミマール)のダヴッド・アーが、皇帝ムラト3世とヴァリデ(英語版)であるサフィエ・スルタンの命を受け、皇帝のテュルベを建設しました。その横の八角形の陵には彼らの息子メフメト3世と彼のヴァリデが葬られたが、これは1608年に王室建築家のダルグチ・アハメッド・アーの手による[44]。次代の皇帝ムスタファ1世のテュルベは、洗礼堂を作り変えて設けられた[44]。ムラト3世はまた、ペルガモンからヘレニズム調のアラバスター製つぼを2つ移し、本堂の両端に据えました。

 1717年、アフメト3世は内装のひどく損傷した漆喰の補修を命じ、多くのモザイク画がモスクの作業者らによる破壊から守られ保存される事に間接的ながら貢献しました。事実、モザイク画の石はタリスマンと信じられ、訪問者へ売られる事が横行していました。

 1847年、アブデュルメジト1世の命により、イタリア人建築家ガスパーレ・フォッサーティ(英語版)によって構造的な補強が行われ、ドームの水平推力に対抗するためドーム基部に鉄製の環状補強材が埋め込まれましたが、これはあまり有効に機能していないことが判明しています。

 主柱にムハンマドと正統カリフの名を記した円形の額が取り付けられたのもこの補修の時です。 フォッサーティは工事の内容を纏めて書籍出版を準備しましたが、同じ頃ドイツの建築家ザルツェンブルグも別に調査を許され、フォッサーティは大判の彩色図集を、ザルツェンブルグも大判の研究書をそれぞれ発行しました。


トプカプ宮殿1へつづく