シルクロードの今を征く Now on the Silk Road アヤソフィア4 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) モスク アヤソフィア1 アヤソフィア2 アヤソフィア3 アヤソフィア4 アヤソフィア5 アヤソフィア6 アヤソフィア7 次はイスタンブルのアヤソフィア4です。 ◆アヤソフィア4 宗教施設から博物館への転換 オスマン帝国の滅亡から12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され、翌年に博物館として公開しました。 長年敷かれていたカーペットが取り払われて大理石の床のオンファリオン(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現しました。 しかし建物の構造には劣化が見られ、ワールドモニュメント財団 (WMF) は1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載されました。建物の銅製の屋根にはクラックが入り、そこから染み込んだ水がフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていました。 同様に湿気は下からも上がってモザイク画に影響していた。さらに地下水が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、石材や塗料を脅かしていました。アメリカン・エキスプレス社の財政的援助を受け、WMFは1997年から2002年にかけて修復のための費用を交付すると保証しました。 第一段階として、天井部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、トルコ文化観光省参加の下で行われた。第二段階はドーム内部の保存のため、若いトルコ人博物館学芸員を雇用し訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立しました。2006年までにWMFのプロジェクトは完遂しましたが、他の部分にも引き続き保存活動が求められています。 現在、建物はモスクや教会など宗教的行事の場として使うことが厳しく禁じられています。しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられました。 構造 ![]() アヤソフィア平面図 東側(図左)が至聖所、西側(図右)が正面入口 Source:Wikimedia Commons 平面は集中式プランとバシリカ式プランの融合を特色としていますが、それまでのローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代において、この建築物に類例するプランは存在していませんでした。正教会の規範に従い、教会は西を開口部とし、東に至聖所を備えていまする。聖所(内陣)と正面入口の前に啓蒙所と呼ばれる細間があり、大聖堂として使われていた当時は、信者でないものはここから先に入ることを許されませんでした。現在は失われていますが、啓蒙所の前にはアトリウムがありました。 基本的には長方形平面ですが、内部立面のアーケドやアーチによる曲線、ことにイシドロスとアンテミオスによって計画された30.95 m四方形の上部のドーム、さらにのち補強のために周囲に配された多くのバットレスによって、建物全体が方形であることの印象は受けません。 構造的にもっとも特徴的なのは、正方形のプランの上に、ドームが乗っていることです。それまでドーム建築は、ローマのパンテオンに見られるよう単純に、ドームの平面形とおなじ円形プランで構成されていましたが、ビザンチンの建築家は、ドームの円形と正方形の隙間にできる三角形部分をペンデンティブという支持方法で埋めることにより解決しました。 さらにアヤ・ソフィアでは、中央の大ドームを受けるのに平面の正方形の四辺にあたるところにそれぞれ大アーチを架け、ドームの重さによる外側への水平推力については、南北は二階の回廊をまたぐ巨大な控え壁、東西は大アーチの形をそのまま展開した半円形のドームで受けるという多種多彩な構造を用いている。これら重層的な構造と、中央の大ドームの基部に円形に並べられた小窓などにより、外観、内観ともそれまでにない光に充ちた豊かな建築空間を出現させました。 西洋建築史においては、アヤソフィアによって古代は終わり、中世が始まったとも言われています。しかし、この斬新な構造は、論理性はともかく、強度的には不十分で、前述のように、地震によるドームの崩落の他、多くのバットレスの追加などを余儀なくさせ、この建物の外観を、最初の構想、および竣工当時からとは違うものにしてしまっています。 主構造は、石積造の他、ローマ帝国で発展した、積み重ねた焼きレンガを型枠として、その中にコンクリートを充填する方法をとっています。これが、総石造の建物と違い、工事期間の短かった理由です。 大ドームは上述の通り558年に崩落し、その後も地震による部分的な崩壊を経験していますが、基本的な構成は537年に建設された当時のままです。採光によって光の溢れるアヤソフィアのドームは「天から釣り下げられた円蓋」とされ、それがあまりにも印象的であるため、以後のビザンティン教会堂、および礼拝堂では、円蓋が建築平面の中心部に必ずと言ってよいほど配されるようになっています。 アヤソフィアは集中方式による教会建築としては最大級のものに属します。これ以降、東ローマ帝国では、アヤソフィアに匹敵する建築物、あるいはこれをひとまわり縮小した規模のものさえも造られなかった(11世紀の皇帝ロマノス3世アルギュロスの時代にこれに匹敵する規模の聖堂建設が計画されましたが、実現しなかったのです)。オスマン朝時代になってからは、ブルー・モスク(スルタンアフメト・モスク)のように明らかにアヤソフィアに影響を受けた様式のモスクが建造されました。 今日、建築物の外観は漆喰で塗り込められ、四辺をオスマン時代に建設されたミナレットによって囲まれていますが、イスタンブルの辿ってきた歴史の変遷を考えれば、この教会堂が遺っていること自体、ほとんど奇跡であると言って良いでしょう。すべては中世キリスト教徒のたゆまぬ修復とイスラム教徒のこの建築物に対する畏敬の念のたまものであるといえます。 トプカプ宮殿1へつづく |