東南アジア最後の秘境 ミャンマー ミャンマー基礎情報(2) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2016年8月4日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
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(1) 構想からヤンゴン到着 (2) ミャンマー基礎情報@ (3) ミャンマー基礎情報A (4) ヤンゴン一周鉄道に乗る (5) ヤンゴンの巨大下町で夕食 基礎情報のつづきです。 ◆ビルマの歴史 ピュー (〜10世紀) モン王国 (825〜1057) パガン王朝 (849〜1298).....現在の場所 バガン ペグー(ハンターワディー)王朝 (1287〜1539) ピンヤ朝 (1313〜1364) アヴァ王朝 (1364〜1555).....現在の場所 インワ タウングー王朝 (1510〜1752) ペグー王朝 (1740〜1757) コンバウン王朝 (1752〜1885).....現在の場所 マンダレー 英国統治下 (1824〜1948) 英緬戦争 (1824〜1852) ビルマ国 (1943〜1945) 現代 (1948〜現在) ビルマ連邦 (1948〜1962) 社会主義共和国 (1962〜1988) ミャンマー連邦 (1988〜2010) ミャンマー連邦共和国 (2010〜現在) ※黄字は今回の現地視察で拠点地を訪問 ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えますが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていません。ビルマ族は10世紀以前には、まだエーヤワディー川(旧イラワジ川)流域に姿を現していませんでした。 そのミャンマー南部の地には古くからモン族が住み、都市国家を形成し海上交易も行っていました。北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国しました。832年、驃国は南詔に滅ぼされモン族とピュー族は南詔へ連れ去られたため、エーヤーワディー平原は無人の地となり、200年間に渡って王朝が存在していませんでした。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(9世紀 〜1057年)が建国されています。 遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(Bagan、11世紀〜13世紀)以降と言えます。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氏族と考えられています。1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤーワディー平原へ侵入しパガン王朝を樹立しました。パガンは最初小さな城市であり、アノーヤター王(在位1044年 〜 1077年)が初代国王とされています。
パガン王朝の歴代王は、モン族の文化と小乗仏教(上座部仏教)を受け入れ、パガンに多くのパゴダ(仏塔)を建立します。そのバガン王朝は、13世紀後半、元(クブライ・ハーン)の侵攻で滅亡し、動乱の時代が始まりす。 パガン王朝滅亡後、ビルマはシャン族の支配を避けシッタン川上流のタウングーに逃れ、1531年、タウングー朝(1531〜1752年)を建国します。第二代のバインナウンはチェンマイのラーンナータイ王朝、アユタヤ王朝などタイ諸王国や雲南辺境のタイ族の小国を攻略し、王国の基礎を固めました。 ビルマ人によるタウングー朝は、南部モン族の反乱と東部のシャン族への警戒から、1635年。内陸のアヴァ(Ava)に遷都します。しかし、王位継承争いや、東方のタイや、西方のインドによる侵略などで王朝は衰退しモン族によって滅ぼされてしまいます。 タウングー朝が滅亡した1752年、アラウンパヤーが、モン族との戦いに勝利しコンバウン朝(1752〜1885年)を築きます。
コンバウン朝はアバ・ダガン(のちのヤンゴン)やペグーを攻略、デルタ地域におけるビルマ人の支配を回復します。コンバウン朝はビルまで独立を保った最後の王朝であり、マンダレー(Mandalay)はその首都(1860年〜1885年)でした。 子のシンビュシンは、タイのアユタヤ朝を攻略、1765〜1769年には四回にわたり中国の清軍と戦います。1785年にはアユタヤを失うもののベンガル湾に面したラカイン地方を併合、勢力を拡大しました。
19世紀前半、バジードーの治世(1819〜37年)に、インドのアッサムを征服しマニプルに侵入、カチャール王朝を脅かします。それに対応しカチャール朝を保護国とした英国と衝突し、第一次ビルマ戦争(1824〜26年)が勃発します。この戦争でビルマは敗北、1826年のヤンダボ条約でアッサム、マニプル(現在、インド領)の権利を放棄することになります。 その後、ビルマによるヤンダボ条約の不履行により第二次ビルマ戦争がおこり(1852年)、その結果として、ビルマは海への唯一の出口であったペグー地方そして国土の半分を失うことで内陸国となってしまいました。 インドシナ半島における英仏の勢力争いの一環として起きた第三次ビルマ戦争(1885〜86年)でコンバウン朝の都、マンダレーが陥落、王朝は滅亡しました。そして1886年、英国によりビルマ王国は併合され、ビルマは英国領インド帝国の一州となります。その結果、 当時のティーボー・ミン国王とその家族はインドのゴア近郊のラトナギリに流されます。そして英国によるビルマの植民地統治が始まったのです。 ビルマの英国からの独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1930年にはタヤワディ地方で農民が武装蜂起を行うなど下ビルマ全域に広がるものの英国により鎮圧されました。1930年代には、学生を中心とする民族主義運動が高揚しました。そして1937年、最初のビルマ人のバー・モウ政権が成立しインドから独立、ビルマは英国連邦内の自治領となったのです。1942年、アウン・サンがビルマ独立義勇軍を率い日本軍と共に戦い英国を駆逐、1943年、日本の後押しでビルマ国(バー・モウを元首)が建国されます。 大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、 ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース 出典:Wikipedia 植民地時代の旗 (1937〜1948) その後、インパール作戦の大失敗などで日本軍が敗色濃厚となった時、アウンサンが指揮するビルマ国軍は1945年、日本やビルマ政府に対しクーデターを起こし、英国側に寝返り、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成し日本支配に抵抗します。 英国(連合軍)がビルマを奪回するとビルマ政府は日本に亡命します。ビルマ国民軍は日本軍には勝利したものの英国は独立を許さず、ビルマは再度英国領となりました。 建国の父、アウン・サン 出典:Wikipedia そして、英国はアウンサンらに指導されたAFPFLと交渉し1947年、ビルマの独立をみとめる協定を結びます。これがアウン・サンがビルマ建国の父と呼ばれるゆえんとなっています。その後、ビルマは1948年に英国連邦を離脱しビルマ連邦として独立します。しかしその直前の1947年にアウン・サンは暗殺されてしまいます。 独立したビルマ連邦の初代首相にはアウン・サンの意を継いだAFPFLのウー・ヌーが就任しまし。しかし、独立直後からカレン人が独立闘争を行ったり、ビルマ共産党は政権を離脱するなど政権は不安定な状態に置かれました。 独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネー・ウィン将軍が政権を掌握する下地となりました。AFPFLは1951年と1956年の総選挙に勝利しますが、1958年に分裂、ネー・ウィン参謀総長を首班とする選挙管理内閣が成立します。 1960年の総選挙では、再びウー・ヌー派が勝利するものの、シャンやカチンの分離独立運動が高まると、1962年ネー・ウィンがクーデタをおこし、憲法を停止して革命評議会を発足させました。 ネー・ウィン将軍 出典:Wikipedi ネー・ウィンは全権を掌握し独裁的な軍政を始めます。ビルマ方式の社会主義をめざして土地や企業の国有化が進めましたが、農業生産や輸出が減少するなど、経済は後退しました。 1974年に新憲法が公布され、国名は、ビルマ連邦社会主義共和国と改称され大統領にはネー・ウィンが選出されました。 その後は中国との関係を維持しながら、ビルマ政府は中立、非同盟の立場を堅持、ベトナム戦争などの大きな国際問題にまきこまれることもありませんでした。1988年には国民的規模の民主化運動がおこり、ネー・ウィン独裁体制が崩壊しました。ソウ・マウン将軍が国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置、この軍事政権は総選挙を公約し、民政移管までの暫定政権として発足したのです。 ◆ビルマの政治 一方、国民民主連盟(NLD)など民主化をもとめる組織も故アウン・サンの長女アウンサン・スーチーを書記長とするなど活動を活発化させます。暫定政権は1989年、国名をビルマからミャンマーに変え、首都名もラングーンからヤンゴンに改称しました。そして、アウンサン・スーチー書記長を国家破壊法違反として自宅に軟禁し、政治活動も禁止します。 アウンサン・スーチー女史 出典:Wikipedi 1990年の総選挙では、民主化を求めるアウンサン・スーチーが勝利をおさめましたが、軍政権は民政への移行をこばみ、アウンサン・スーチーを軟禁し、国際的な批判をあびました。その後、ソウ・マウン将軍は病気を理由に、1992年タン・シュエ将軍に国家しNLDへの弾圧を強めて行きました。 一方では、軍事政権は、東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟に意欲をしめし、1997年には、加盟をラオスと共に認められました。 2011年1月31日、新首都のネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕され、3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) を解散し、権限が新政府に移譲されました。 これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられました。 軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もありましたが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意しました。 2015年11月8日、ミャンマー総選挙が実施されNLDが圧勝しました。NLDは党首のアウン・サン・スーチーの大統領就任を要求したものの、憲法の規定と軍の反対によってそれはかなわず、次善の策としてアウンサンスーチーの側近のティンチョーを自党の大統領候補に擁立しました。 ティンチョー現大統領 ティンチョーは2016年3月10日にミャンマー議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出されました、3月30日には上下両院合同の連邦議会で新大統領就任式が行われました。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりです。 半世紀余に及んだ軍による統治が終結しました。さらに、NLD党首のアウンサン・スーチーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のアウンサンスーチー政権」と評されています。 なお、ミャンマーの過去における民主化については、以下の情報があります。以下を読むと、日本は対米従属のあまり、民主化後の対ミャンマー政策を大きく誤っている方向に進んでいるように見えます。 ◆田中宇:アウンサン・スーチー釈放の意味 2010年11月17日 ◆田中宇:中国の傘下に入るミャンマー 2007年10月25日 ◆田中宇:イラク化しかねないミャンマー 2007年10月23日 つづく |