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■2009年3月27日 船浮地区は陸の孤島と言われるだけあって、居住者は今でも40人くらいしか住んでいない。しかも、民家は下の写真にあるように小さな桟橋の近く集中している。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 やっとのことで、奥西表の陸の孤島、「船浮」に上陸することができた。 船に乗っていた10人の客は、@食事をする者(といっても船浮では1,2軒しか食事が出来るところはない)、Aイリオモテヤマネコ捕獲の碑を見に行く者、B「イダの浜」を見に行く者、C旧日本軍壕跡を見に行く者など、行き先は限られていて、あっという間に桟橋からいなくなった。 周知のように、沖縄には今なお第2次世界大戦の爪痕、痕跡がはっきり残っているが、ここ西表島に戦争の爪痕、傷跡、悲惨を残す場所があることを知っている日本人はほとんどいないと思う。そういう私もそのひとりだった。 西表島とくに、ここ奥西表の船浮地区は、何と今なお、戦争の爪痕、痕跡を残していたのである。これはこの地に来るまで、私はまったく知らなかった。 具体的な話しとして、戦争の爪痕、痕跡のひとつ目は、今回は立ち寄らなかったが、外離島、内離島である。この島は船浮のすぐ隣にある島で、現在は無人島となっている。 西表島といえば、とかく「南の楽園」、「イリオモテヤマネコ」、「大自然とあそぼう」など原生の自然がある楽園的なイメージを持つひとが多い。 しかし、西表島、とくに奥西表には多くの炭鉱がある。 炭坑夫は、本土各地から甘い言に騙され西表島に連れて来られた人々、朝鮮、台湾から強制的に連行されてきた人々などさまざまだった。 彼らはいずれも過酷で劣悪な労働条件、さらに度重なる落盤事故、亜熱帯に多いマラリアの蔓延、暴力による支配などに苦しめられた。耐えきれず脱走した人々の多くは、ジャングルの中で屍となったと伝えられている。 内離島の炭坑は、その後、旧日本軍が防空壕、地下の陣地などで利用し、現在、島は無人島となっており廃墟となった坑道や採炭の施設がジャングルの中に当時の名残をとどめている。 ※内離島の炭坑・炭坑夫の悲惨な歴史の詳細 ※浦内川添いある宇多良炭坑跡の写真集 下の地図は、船浮にあった資料館「西表館」に展示されていた西表島における石炭埋蔵区域、採炭地区、廃村地区の位置である。外離島、内離島は石炭埋蔵区域であり採炭地区となっている。 西表島の石炭埋蔵区域と採炭地域 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 戦争の爪痕のもうひとつの場所はといえば今回訪問した「船浮」地区だ。 船浮に来て私が最初に訪問したのは、旧日本軍が横穴を堀って弾薬庫、発電所、特攻艇格納庫、防空壕などをとして使った「壕」の跡地である。これらの「壕」は桟橋から目と鼻の先の位置にあった。 なお、別途グループツアーで来た人たちにガイドが説明しているのを聞いていたら、下の穴は船浮要塞の一部中には、機関砲が設置されていたそうだ。この機関砲で船浮地区を襲撃に来たグラマンが一機撃墜されたそうだ。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 海岸側とは別に桟橋からすぐ近くに下のトンネルというか50mほどの長さの洞窟がある。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 下は上のトンネルの内部。出口(入り口)が見える。このトンネルは横穴トンネルもあり、海側から掘られた防空壕と合流するようになっているようだ。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 上の洞窟トンネルを抜けると山側に次々と壕が現れる。 特攻艇格納庫 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 弾薬庫跡 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 船浮では、戦後、集落用の電気供給のために旧陸軍の防空壕の跡に自家発電機を設置し電気を集落に供給していたようだ。何しろ数10人の集落なので小規模な発電機でまかなえた模様。
船浮の要塞では、漂着した船に乗っていた朝鮮人乗組員を日本軍が強制労働させ虐殺したという話しもあるようだ。何しろ、現在でも陸の孤島で人里離れた秘境なので、何があっても外部からは分からなかったのだろうか。 上記に関連し、西日本新聞(2005年06月13日)に興味深い記事があった。
下はその池田さんがつくられた資料室「西表館」の入り口にある設立の目的、趣旨を書いたもの。 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 資料室「西表館」の入り口 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27 非常に遺憾なことだが、西表島の奥西表にも、旧陸軍が朝鮮半島や中国で行ったのと同じような強制労働、拷問、虐殺があったことは間違いない。 ここに私がソウル西大門刑務所やポーランドの北ワルシャワ要塞・大監獄、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、マイダネクなどの強制収容所を視察してきたこととの共通点が見いだせた!! 以下は「西表館」の資料などによる「西表炭坑」の歴史概要である。 1885年(明治18年) 三井物産が西表で試掘開始
なお、池田さん親子が開設した西表島の資料館については、琉球新報の以下の記事が参考になる。
資料室「西表館」には、次のような趣旨の情報もあった。 「西表島の白浜には慰安所があった。地元女性もいたが、強制的に朝鮮から連れてこられた女性もいた。慰安婦の数は80人前後(50人説あり)と推定されている」と。 つづく |