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  ドブロブニク(1) Dubrovnik

青山貞一Teiichi Aoyama
April 2007  無断転載禁
CopyRight:Aoyama T.

       
(1)概要 (2)歴史@ (3)歴史A (4)景観 (5)建造物 
(6)建造物
 (7)城壁 (8)再生・修復  (9)自由・自治 

山貞一:世界の都市国家、(1)ドブロブニク編

はじめにーなぜドブロブニク(Dubrovnik)か

 本都市国家シリーズでは、世界の「都市国家」や「城壁都市」そして「自由都市」についてその歴史、文化、行政、立法、市民自治などを概観する。

 第一回目は、ひとよんで「アドリア海の真珠」、ドブロブニクDubrovnikである。

 ※本論ではDubrovnikの日本語表記をドブロブニクとする。
   他の表記としてドゥブロブニクなどもある。


 日本ではまだそれほど有名ではない。しかし、EU諸国のひとびとには、さまざまな観点で知らないひとがないほど著名である。

 マイ・フェア・レディなどで有名な英国のかの劇作家バーナードショウが「ドブロブニクを見ずして天国を語ることなかれ」と言い、さらに旧市街に入る門に、「自由はお金では購えない」と書かれていることは、欧州であまりにも有名である。


ドブロブニク旧市街全景

 注目すべきは、対外的に独立、中立を一貫して守り、一切、自分から他国に戦争を仕掛けず、他方、あらゆる外部からの攻撃を外交や水際でかわしてきたことである。ドブロブニクは海運、商業、観光などで経済力を蓄えた。その底力で世界に冠たる小さいが秀逸な都市国家をハード、ソフトそしてハートの3つの面で構築し、現在に至っている点である。

 いわば専守防衛とフラットな政治行政システム、そして自律的、持続的なビジネスの先端モデルとも言える「自由・都市・城壁・国家」、それがドブロブニクである。

 ドブロブニクは、ナポレオンにより共和制が廃止される1806年までの最低4世紀、最長8世紀にわたって自由都市を市民自らの手で築き貫いてきた欧州、いや世界でもきわめて希有な都市都市であるといえる。

現地から送られているプラツァ通りの映像
ドブロブニク旧市街、プラツぁ通りにて筆者

 さらに、ドブロブニク旧市街は度重なる地震など自然災害や、外部からの攻撃そして戦争で破壊される。しかし、まちは市民自らの自主的、献身的な修復活動により再生される。旧市街地の一周約2km、500m×500mは幾たびかの破壊のあと、必ず市民の手で修復、再生され、今なお中世の面影を強く残している。これは欧州各地で言えることである。日本が歴史文化が刻印された建築物や建造物を壊し、マッチ箱のような高層ビルを建築しているのと好対照である。

 旧市街で4000人強、市全体でも4万人の人口規模に過ぎないドブロブニクが、かくも注目されるのはなぜか、ここでは、その秘密に立ち入ってみたい。

 おそらく、それはドブロブニクのまちづくりの歴史的背景と主体的市民の精神力に注目することに他ならない。

 現在、ドブロブニクは観光地としても欧州で人気第1位となることなどで、現地では物価や周辺地域の地価に至るまで上昇、また観光客増によるゴミなどの環境問題も生じている。

 とはいえ、なぜ、かくもドブロブニクが注目されるのか、本編はその理由について歴史と地形・地勢、そして4世紀以上にわたり「自由都市国家」と呼ばれる自律的なまちづくりについて可能な限り迫ってみた。

 なお、本編を執筆するに当たり同僚の池田こみち氏に多大なる協力を頂いた。ここに感謝の意を表したい。

Blick durch die Altstadt Dubrovniks
A view of Dubrovnik from the south
Source:Dubrovnik - Wikipedia, the free encyclopedia

本シリーズ執筆の目的

 ところで本シリーズを執筆する主な目的だが、それは私が大学(武藏工業大学環境情報学部、同大学院)で担当している講義(公共政策論など)の一部として役立てることである。

 大学の受講生、すなわち学生に、現代人がすっかり忘れていること、すなわち「自分のまちを自らの手で守り、次世代に向け育てる」ことの大切さを世界の都市国家から学んでもらうことにある。

 以下の記述のうち、とくに歴史に係わるについては筆者(青山貞一)が入手した複数の文献、資料(主に英文)を整理、分析した上で翻訳し執筆している。まだ推敲途中のものもある。年号などが文献などにより異なっている場合もある。それを考慮してお読みいただけば幸いである。

 また本シリーズに登場する「都市国家」ドブロブニクのビジュアライゼーションそしてプレゼンテーションは、筆者らが現地調査し撮影、編集したものを主としているが、ドブロブニク市役所など公的機関などの資料、を引用したものもある。それらについては、その都度出典をつけ掲載している。



 その他、衛星画像による地形、景観は、最新鋭のIT技術を活用し画像化している。これらの多くはグーグル社のGoogle Earth、Gooble Mapをもとに画像処理している。世界各地の歴史、文化、生活に関連し、Google社 の最新鋭のIT技術が容易に駆使できるようになったことに、この場を借り感謝の意を表したい。

 なお、本「世界の都市国家、ドブロブニク」では、現地行政機関(自治体)が旧市街のプラツァ通りの端に設置した定点インターネットカメラ(Webカメラ)からの映像を数秒単位で見れる仕掛けもとり入れている。景観編をご覧頂きたい。

 このように、IT技術は単に便利で効率をあげるためにではなく、私たちが立ち止まり、地球の裏側で起こっていること、歴史的遺産から多くを学ぶための有用な道具として活用することが肝要である。

 これら多面的、学際的な都市問題へのアプローチ、試みは、端緒についたばかりかも知れない。今後、視覚的に分かりやすい教材を我々大学教員が研究開発することのひとつのきっかけとなればと思っている。

都市国家とは

 シリーズの最初に、都市国家とは何かについて説明しよう。以下は、都市国家について若干の説明、定義である。

都市国家

 
都市を中心に,政治的に独立し周辺地域を支配する国家のことである。この場合の都市は,城壁や市街などをもつ,きわだって重要な集落のこと。古代の統一国家が成立する以前の段階で,世界各地で見られた。とくに古代メソポタミアの都市国家や,古代ギリシャのポリスが典型とされる。ルネサンスのころのイタリアの自治都市や,現代のシンガポールも,都市国家のひとつである。

出典:はてなキーワード

 もう少し詳しく説明すると、以下のようになる。

都市国家

 都市国家(City-State)は、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政治体としてひとつのまとまった形態をなす国家のことである。

 古代オリエントのメソポタミア文明においてシュメール人が築いた、都市の中心に神殿を持ち、集落のまわりに城壁を築き、城壁外の農地や牧地とともに独立したを形成していたシュメール文明の都市国家群がその原初的な形態である。

 アテナイなどの古代ギリシアの小国家群や古代ローマ、古代インド(インダス文明)、古代中国(黄河文明。中国語では「国」や「邑」と呼ばれた)など、古代には世界各地で見られるが、一般に都市国家群においては強大な都市国家が弱小な都市国家を併合して領域国家に成長していく傾向があり、地中海世界ではローマ帝国・ペルシア帝国、東アジアでは秦・漢によって統合された結果、都市国家は単なる地方単位(中国語では「県」という)になっていった。

 アメリカ大陸のマヤ文明諸都市や、ヴェネツィアなどのイタリアの小国家群、神聖ローマ帝国の帝国都市なども都市国家の例として挙げられる。

 現代ではシンガポールやモナコ、サンマリノ、バチカンなどが数えられる。主権国家ではないが、ドイツ連邦共和国を構成する州であるハンブルク、ブレーメンや中華人民共和国の特別行政区である香港やマカオも一種の都市国家と言える。

 ハンブルク、ブレーメンの場合は、自由ハンザ都市という言い方もし、正式名称も「自由ハンザ都市ハンブルク」のようにいう。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



■地名の由来

 歴史的に見ると重要かつ著名な都市国家には、ベニス(ヴェネチア)を中心としたイタリアの小都市都市群がある。

 第1回目では、敢えてバルカン半島、旧ユーゴスラビアの一角、クロアチアの最南端に位置するドブロブニク(Dubrovnik)をとりあげた。

 まず最初に、ドブロブニクという地名の由来について説明したい。 

 Dubrovnik in HistoryやVisivle Cityies Dubrovnik などドブロブニクに関連する歴史資料によると、現在のドブロブニクという現在の名称は、クロアチア語のDubrava、「樫の木」に由来しているとされている。

 

 樫の木が当時、ドブロブニクの周辺地域にあったことがその由来である。事実、現地に行ってみると、DubravaなどDubを接頭語とする地名がたくさんある。

 Dubrovnikと呼ばれる前、すなわち15世紀まで使われてきた地名は、ラテン語の
Ragusa、ラグーサ(現地語のRausa)、ラウーサである。これは英語のRock、いうまでもなく日本語の「岩」を意味する。この地に最初に居住した人たちが、同地が大きな岩であったことからRausaと名付けたとされている。


1789年のヨーロッパにおけるドブロブニク共和国(=Ragusa ラグーサ共和国)。
出典:Europe 1789-1914、Scriber Library of Modern Europe, Thomson、Gale

ドブロブニクの概要

ブロブニク基本データ
所属郡名 Dubrovnik−Neretva
面積 14 335 km2
位置 42°39′N
18°04′E
人口 43,770人
市長 Dubravka Suica

ドブロブニク
のワッペン


クロアチアの国旗
出典:English Wikipedia 2006
ドブロブニク市公式サイト

 ドロブニクは7世紀、南スラブ族により、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の支配から解放されて以来、非常に堅固な城壁をもった要塞都市(Citadel Cityあるいは Walled City)を築き上げてきた。

 13世紀以降、ドブロブニクは地中海交易の一大拠点としてアドリア海の湾奥にあるベニス共和国(ヴェネチア共和国)など現在のイタリアの都市国家諸国との海洋貿易によって大いに経済的に繁栄した。

 そのドブロブニクは、地形、地勢、建築物、構造物など外形的にみて大きな特徴を持っている。ひとよんで「アドリア海の真珠」。 かの劇作家バーナードショウは、「ドブロブニクを見ずして天国を語ることなかれ」と言った話しは、欧州ではあまりにも有名だ。

 アドリア海において北のベニス、南のドブロブニクは、ともにひとびとの生活が息づく都市国家として欧州人の垂涎の的となっている。

 このドブロブニクは歴史的に神聖ローマ帝国を除けば世界で最初の強固な城壁を持った「自由都市」であると言ってよい。



 ドブロブニクは17世紀(1667年)、バルカン半島で起こった大地震により大被害を受ける。この地震の被害は甚大で実にドブロブニク市民の約半数が死亡したとされている。また現在のモンテネグロ(2006年11月に国家として独立)南部にある小さな都市国家、コトルでも甚大な物的、人的被害が生じている。これについては池田こみち・青山貞一、都市国家コトルを見て欲しい。

 さらに現代にあってもドブロブニクは1991年1月以降、セルビア・モンテネグロによる継続的な激しい軍事攻撃を受けるなど、まち存亡の危機を何度も経験している。

 ※ この軍事攻撃はかなり執拗なものであり、現在、クロアチア人の多くが
    セルビア、モンテネグロ両国への憎悪の大きな根源となっていることが
    2007年3月の現地調査における住民ヒヤリングでよく分かった。この
    戦争(内戦)の主因は、宗教(セルビア・モンテネグロ)はセルビア正教、
    クロアチアはカソリックであるとされているが、歴史的民族面での相異も
    指摘できる。


 しかし、都市国家、自由都市の自負と誇りを持つドブロブニク市民は、いくたびかの自然災害、戦火にもかかわらず歴史的遺産、建築物を市民の力で修復、保全、保存してきた。まさにそれが市民の最大の誇りであるかのように。

 現在、現地を訪れる人々を魅了するドブロブニク旧市街の建築物、町並みだが、それら中世の面影をそのまま残すドブロブニクの建築物、構造物の多くは、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど、欧州における時代時代の多彩、多様、華麗な建築様式を今に継承しているところに大きな特徴がある。ただ、これはドブロブニクに限ったことではなく、ベニスなどイタリア諸都市などでも見られることである。


旧市街プラカ通りにて、先生に引率される小学生の生徒(撮影:青山貞一)

 市民が自ら守ってきたのはカテドラル、チャーチ、パレス、噴水など、建築物、構造物などの「はこもの」だけではない。 彼らは同時に、自由都市ドブロブニクが世界に誇る「自由と自治」の精神を、そして自律的な都市行政を守り続けてきたのである。

 その意味で、小さな都市国家であり、自由都市のドブロブニクは、現代の都市が忘れた都市がもつべき自治、自律、自由を同時にもつ希有な都市である。

 ドブロブニクは、1979年と1994年に旧市街を中心にユネスコの世界遺産に登録された。1994年の登録は、1991年のユーゴスラビア内戦の中で破壊されたことで危機遺産リストに載せられたことを意味する。

 以下は、NHKが世界遺産シリーズで制作したビデオへのリンク。映像と音声(ただし、英語)でドブロブニクの概要が分かる。

 NHK World Heritage 100 Series

つづく