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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

アルメニア1

Armenia)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月2020年7月31日公表予定
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アルメニア1  アルメニア2  アルメニア3  エレバン 
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 次はシルクロードの中間点にあるルメニア1です。

◆アルメニア1




 アルメニア共和国(アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետություն)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもあります。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接します。

 1991年にソビエト連邦から独立しました。ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していましたが、近年アルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っています。

国名

 正式名称はアルメニア語(アルメニアアルファベット)で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան(Hayastan)。英語の公式表記は、Republic of Armeniaです。通称、Armenia。

 日本語の表記は、アルメニア共和国。通称、アルメニアです。

 アルメニア人は自らをհայ(hay)ハイ(複数形はհայեր(hayer)ハイェル、またはհայք(hayk')ハイク)、国をハヤスタン、またはՀայք(Hayk')ハイクと呼ぶ[3][4]。

 正式名称Hayastani Hanrapetut'yunの語源は、アルメニア人の始祖ハイク・ナハペトとペルシャ語で国を示す接尾語スターン (地名)から来ている[5]。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ています。

歴史

 先史時代にはクラ・アラクセス文化があったことが知られており、文明の早い時期から車輪が使われていました。

 紀元前6世紀ごろには国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄しました。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもありました。

 1世紀頃にはキリスト教の布教(十二使徒聖タデヴォス、聖バルトゥロメウスが伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝えられています(カエサリアのエウセビウス(260年 - 339年)『教会史』)。

 紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教としました。

 405年 - 406年、アルメニア文字がメスロプ・マシュトツ(361年 - 440年)によって創始されました。

 その後、サーサーン朝ペルシアの支配下に入り(en:Persian Armenia)、さらにアラブの侵攻を受けますが(en:Ostikanate of Arminiya)、9世紀半ばにはバグラト朝が興り(en:Kingdom of Armenia (Middle Ages))、独立を回復しました。

 しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝(en:Seljuq Armenia)、en:Zakarid Armenia、モンゴル(en:Mongol Armenia)・ティムール朝(en:Turkmen Armenia)などの侵入が相次いで国土は荒廃しました。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになりました]。


20世紀初頭のアルメニア人の居住地域(濃い水色)
1636年にアルメニアはオスマン帝国(en:Armenians in the Ottoman Empire)とサファヴィー朝ペルシア(en:Armenians in the Persianate)に分割統治された。

 1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア領となります。

 19世紀後半になるとオスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化します。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され(アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込みました。

 ロシア革命後に民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立されますが、赤軍の侵攻により崩壊し、1920年にアルメニア社会主義ソビエト共和国が成立しました。1936年まではザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成していました。

 1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突し、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)に発展しました。

 1991年にソ連保守派のクーデターが失敗したため、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立を遂げました。10月17日、大統領選挙でレヴォン・テル=ペトロシャンが圧勝しました。

 しかし、カラバフをめぐるアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いています。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となりました。


アルメニア2つづく