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2014 初夏の浅間高原

(7)八ッ場ダム工事、温泉移設

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda
斎藤真実 Mami Saito

August 3, 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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(1)下久保ダム・神流湖  (2)JAL墜落現場再アタック (3)鬼押出し園-1
(4)鬼押出し園-2  (5)八ッ場ダム工事7-1  (6)八ッ場ダム工事-2 
(7)八ッ場ダム工事、温泉移設  (8)野反湖とキスゲ  (9)碓氷峠とおぎのや


  八ッ場ダム開発により地域で失われる物は数々ある。そのひとつは、山間の鄙びた傾斜地にある「川原湯温泉」(かわらゆ)である。


旧川原湯温泉の入口アーチ
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
 
 何でも、川原湯温泉の起源は、1193年、あの源頼朝が狩をしている最中に源泉を発見したとされる。実際、川原湯温泉の象徴ともなっている共同浴場の「王湯」には、それに因んで源氏の家紋(笹竜胆、ササリンドウ)が掲げられている。

 もっぱら、日本全国で有名な草津温泉についても、日本武尊や行基、源頼朝が開湯したとの風説がある。ただ、当時の史書に草津温泉を起想させる記述は見られず、草津温泉が湯治場として記録が見られるようになるのは室町時代後期あるいは戦国時代以後とされている。


川原湯温泉の象徴ともなっている共同浴場の「王湯」
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10
 
 川原湯温泉では、ゆかけ祭りが有名である。温泉街で行われる祭で、奇祭とも言われる。450年程前に源泉が一時枯渇し、鶏を生贄に祈願したところ湯が再び湧きお湯を掛け合ったとされることに由来しているという。

 ゆかけ祭りは毎年1月20日の大寒の未明に行われている。紅白を褌の色で区別し、ふたてに分かれ褌一丁で「お祝いだ、お祝いだ」と叫びながら、お湯を掛け合う。最後に鶏の入ったくす玉が割れ、鶏を捕まえた人は運が良いとされる。ちなみに「お祝いだ」の掛け声は「お湯湧いた」から変化したと言われている。


王湯温泉に掲げられている家紋(笹竜胆、ササリンドウ)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10
 
 この川原湯温泉街は、吾妻川の谷間の上部の道路沿いに、数少ない温泉や旅館がひしめく様に存在していた。また共同浴場としては「王湯」、「笹湯」、さらに混浴の「聖天様露天風呂」が存在していた。

 王湯を含む川原湯温泉の温泉街は、八ッ場ダムの建設に伴い、順次閉鎖または移転となり、今年、2014年6月30日に川原湯温泉のシンボル、「王湯」が閉鎖されることで、かつての共同浴場は全て閉鎖されることになった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10

 下は移転前の源泉である。この新源泉の前に足湯があり、学生などを連れて行ったときは、皆で足湯に浸かったものである。


川原湯温泉の源泉。これを新川原湯源泉といっている
出典:Wikipedia


川原湯温泉の源泉。これを新川原湯源泉といっている
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


 このうち王湯は高台に移転し、2014年7月5日より新たな源泉のもと王湯会館として営業を開始した。実際、今年(2014年春)に北軽井沢別荘に来たときにも、現地を訪問したが、そのときには、まだ工事中だった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下は王湯以外の川原湯温泉、高田屋である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 ところで、八ッ場ダムとの関連であるが、温泉街がある場所は八ッ場ダムで完成すると、湖によって沈む場所に位置していた。

 八ッ場ダムの必要性には多くの疑義があったが、貴重な自然湧出の源泉までもがダム湖に沈むことになる。 この対策として温泉街最上部の予定湖面より高い地点にボーリング調査によって新源泉が掘り当てられ、そこに新温泉街を造成したのである。

 しかし、湯量・泉質ともに旧源泉とは異なり、今後、果たして観光地として成り立つのかを不安視する意見も多い。

2014年5月19日 上毛新聞 http://www.jomo-news.co.jp/ns/5314004564833879/news.html
 
ー川原湯温泉・新「王湯」 7月5日に開業 代替地の名所期待 ー

 長野原町の川原湯温泉で約400年前から続く奇祭「湯かけ祭り」の会場となる共同浴場「王湯会館」が完成した=写真。7月5日に開業する。

 ダム建設で水没する「王湯」より約30メートル高い代替地に建てられた。和風の外観の鉄骨造2階建てで、延べ床面積は約340平方メートル。1階に内湯と露天風呂があり、2階は休憩スペースや地元住民の集会所として利用される。

 湯かけ祭りの時は敷地に組み立て式の舞台を設置する。祭りで使うおけをエントランスホールに展示する。

 会館を所有管理する川原湯区の美才治章区長は「新名所となるよう住民一丸となってアイデアを出して運営したい」と話している。
 王湯は6月末まで営業する。

 ところで、私達が7月17日午後、八ッ場ダム工事の現場に斎藤真実さんをお連れした際、せっかくなので、移転直後の王湯温泉に入って行こうということになった。この日の午後は、途中からかなりの雨と霧となったが、どうせ日帰り温泉(新王湯温泉)に入ることもあり、雨中を移転後の王湯温泉に行った。

 下の2枚の写真は移築後の源泉である。これは上述のように、従来の自然湧出の源泉ではなく、予定湖面より高い地点にボーリング調査により新源泉が掘り当てられたものである。


移築後の川原湯温泉の循環設備
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17


移築後の川原湯温泉の循環タンク??
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17

 違った角度から見ると、以下の写真のようになる。ここでも土木工事のオンパレード。この右奥に王湯がある。


移築後の川原湯温泉の循環タンク??
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17

 下の写真が新川原湯温泉の共同浴場、王湯である。


新王湯の遠景
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17

 下は移転先における温泉の配湯ルートである。おそらく王湯は右下部分となるはずである。


代替地と配湯ルート
出典:やんば明日の会 

 以下は国土交通省の資料に見る、川原湯地区町づくり計画案の王湯が含まれる計画図である。王湯は一番上の露天風呂とある部分となる。周辺の地形図を見ると、沢山のコンター線があることから、谷間の傾斜地を大規模にブルドーザーを入れて移築地域を造成したことが分かる。

 真ん中より右を上下に走っているのは砂防ダムからの水路である。地図中、下側が山側で上流となる。下部に砂防ダムがあるのが分かる。




国土交通省の資料に見る川原湯地区町づくり計画案

 下は川原湯温泉地区の移転先土地利用図の全体図。王湯は左上となる。


国土交通省の資料に見る川原湯地区町づくり計画案

 ひとことでいえば、移転地は従来の温泉街の約30m上部の谷間を造成し、運動場のような赤土の平地をつくり、そこに順次、従来の川原湯温泉を移築するものである。考えてみればわずか30mのために、川原湯温泉全体が取り壊され、運動場のような現地のチンケな場所に移されたことになる。

 移築先の温泉からは八ッ場ダム本体が出来、湖が出来てもほとんど湖面は見えない。冬場は落葉樹の葉が落ちて一部見えるかも知れないが、春から秋は3枚目の写真のように樹木が生い茂り谷底側はまったく見えない。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17

 しかも、当日は王湯の前にある駐車場が橋梁工事のため使えないということで、50mほど離れた下の写真にある共同駐車場に車を停めるはめになり、雨中、王湯まで歩くことになった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-17

 肝心な王湯だが、見て分かるように何しろ敷地面積、建築面積がきわめて狭い。入ってすぐに下駄箱があり、玄関の右端に受付(番台的なもの)がある。そのすぐ後ろ両側が男湯と女湯となっている。

 入ると、脱衣場がこれまた狭い。さらに肝心な湯船も狭い。露天もあったが、これも同様に狭いのである。極めつけは、何と温泉利用者が体を洗い髪の毛を洗う洗い場が2つしかない。これは男湯、女湯ともに同じことが分かった。

 せっかく、移設したのに、理由はあるのだろうか、あまりにも狭く、洗い場が2つしかなくては、満足に体を洗うことすら出来ない。

 なお、青山、池田は過去10年、北軽井沢別荘に行くたびに周辺の温泉、とりわけ日帰り温泉を使っている。下の表は長野県を除外した群馬県西部の温泉(全部ではない)である。

 残念なことに王湯は、施設全体の広さ、脱衣場の広さ、湯船の広さ、洗い場の広さにおいて沢渡温泉公衆浴場をのぞき一番狭かった。とりわけ洗い場が男女それぞれ2人分しかないのは異常であった。私達がよく行く、中之条町六合赤岩の長英の隠し湯では7つほど、また嬬恋村バラギの湖畔の湯は10ほど洗い場がある。

 温泉から出て他の一人が洗うのをずっと待つしか無い。しかも、待つ場所もない。さらに他の日帰り温泉のような湯から出てくつろぐ場所もまったくないなど、せっかく八ッ場ダム建設で歴史的な名湯を移設したにもかかわらず、まったく利用者のことが考慮されておらず、残念であった。 後でわかったのだが、休憩場所は2階にあるとのことだが、2階まで行く客は地元客以外ほとんど行かないのではないかと思える。

表  群馬県西部にある日帰り湯リスト  
温泉名 市町村 温泉種別 料金 標高(m)
長英の隠し湯 中之条町六合赤岩 源泉掛け流し 400 900
湖畔の湯 嬬恋村バラギ 源泉掛け流し 400 1300
鹿沢館 嬬恋村新鹿沢 源泉掛け流し 500 1300
ホテル軽井沢1130 嬬恋村鎌原 源泉掛け流し 1000 1130
奥軽井沢温泉 嬬恋村鎌原 源泉掛け流し 1230 1150
万座温泉日新館 嬬恋村万座 源泉掛け流し 1000 1800
大滝の湯 草津町 源泉掛け流し 800 1500
賽の河原露天温泉 草津町 源泉掛け流し 500 1500
四万こしきの湯 中之条町 源泉掛け流し 400 900
滝見の湯 南相木村(長野県) 源泉掛け流し 350 1200
バーデ六合 中之条町 源泉掛け流し 400 950
沢渡温泉公衆浴場 中之条町 源泉掛け流し 300 851
つつじの湯 嬬恋村鹿沢 源泉掛け流し 600 1100
天狗の湯 東吾妻町 源泉掛け流し 500 600
花咲温泉 片品村 源泉掛け流し 650 1500
薬師温泉かやぶき 東吾妻町 源泉掛け流し 900 1000
倉渕温泉 高崎市倉渕 源泉掛け流し 300 800
川原湯温泉 王湯 長野原町 循環 500 700
出典:青山貞一が調査し作成。ただし、料金は税込み、標高はあくまで推定である。

 新川原湯温泉は、何と循環方式を採用したようだが、他の温泉はいずれも源泉掛け流しを売りとしている。下は、源泉掛け流しの歴史と効用である。

掛け流しの歴史と効用

 古くからある、もともとの温泉の利用形態(自然湧出・掘削自噴)は、基本的に掛け流しの状態でありその言葉自体必要ではなかった。 循環風呂が登場以降も、すぐには掛け流しに対する注目は集まらなかった。

 掛け流しに対する注目が最初に集まったのが2000年から2002年にかけて発生したレジオネラ菌騒動である。日帰り入浴施設などに設置された循環風呂設備で繁殖したレジオネラ菌を原因とした死亡事故により、菌の繁殖の温床となった浴槽内循環機を用いない、昔ながらの掛け流しに対して注目が集まった。

 その後温泉愛好家の間では、掛け流しされているかどうかが温泉を楽しむ要素として着目されるようになっていった。

 2004年に発生した温泉偽装問題以降は、顧客の源泉志向に対応するため、源泉掛け流しをうたい文句にする旅館、入浴施設が多くなった。さらに現在では浴室が全戸掛け流しの温泉である事を宣伝文句にしたマンションまで現れている。

 なお、掛け流しという表現は、松田忠徳がその著書で自らが初めて用いたと主張している。源泉かけ流しの語は野口悦男が創ったとする見解もある。

出典:Wikipedia

 ダム建設によって、史蹟、川原湯温泉はまったく別の温泉となった。下の写真にあるような川原湯温泉は懐かしい原風景を描いた資料の中にしか存在しなくなったと言えるだろう。


出典:川原湯温泉ポスター

つづく