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アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2003~2020
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


ヘルクラネウム(エルコラーノ)遺跡とは2
Ruins of Herculaneum

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

ヘルクラネウムとは 1  ヘルクラネウムとは 2  ヘルクラネウムとは 3
行き方  入場  半円形劇場模型展示  歩き方  遺跡名と場所

◆ヘラクラネウム(エルコラーノ)遺跡の歴史

 ギリシャのネアポリスやその他、この地域の主要なギリシャ人の集団は、クマーエ(Cumae)によって当時のカンパニアの沿岸地域からソレント半島一帯を支配され、紀元前6世紀からはヘルクラネウムも支配していました。クマーエ(ラテン語: Cumae)は、現在のイタリア・ナポリ北西に築かれた古代ギリシャの植民都市です。その1世紀後に、Samnite(サムニテ人、サムナイト人とも)が主導権を得て数世紀の間この地域を統治下におきました。この時代にオスコ-サムナイト語でかかれた興味深い碑文が今も残されています。

 注)サムナイト(Samnites) Eng.Wikipedia
  イタリア中南部のSamniumに住んでいた古代のイタリア語を話す
  人々(Italic)でした。彼らは紀元前1世紀までローマ共和国とのい
  くつかの戦争に関与するようになりました。 オスカン語(Osco語)を
  話す人々であるサムニテ人は、おそらくサビン人の分派として生ま
  れました。サムニテ人は、4つの部族で構成される連合を形成しま

  した。

 紀元前2世紀~1世紀の間、ヘルクラネウムはカンパニア地方の一つの町として同盟市戦争(ローマに対する同盟軍の戦争)においては、ローマ人の支配に対抗して闘いました。

 注)同盟市戦争(Allie's war) Wikipedia
  紀元前90年に、都市国家ローマと同盟を結んでいたイタリア各地
  の都市国家や部族が、ローマ市民権を求めローマに対し蜂起した
  戦争である。「ローマ連合」は実質的には一つの国として機能して
  いたため、戦争というより内戦に近い。


 これは苦しい戦いでしたが、無駄な闘争でもありました。紀元前89年、ヘルクレスの町はスッラ(Sulla)の使節の一人に征服されて、ローマに譲ることを余儀なくされ、その後、他の敗北した町と同様に、ローマの自治体(コムーネ)となりました。

 この時代の碑文や歴史家が言うことによると、この征服の1世紀後、ヘルクレラネウムは人口構成、政治そして都市の発展についても様々な変化を経験しました。また、主にその非常に穏やかな気候(ストラボンによって見事に説明されている)とその羨むほどの地理的位置から、ローマの貴族たちの間で、最も注目される場所でもありました。海辺には小さな城壁がヴェスビオスの麓を流れる二つの川の間に位置していました。」

 注)スッラ(Sulla)ルキウス・コルネリウス・スッラ
   Lucius Cornelius Sulla Felix Wikipedia,世界の歴史まっぷ
  より 紀元前138年-紀元前78年。共和政ローマ期の軍人
  ・政治家。貴族階層の出身者として閥族派(オプティマテス)
  の指導者となり、かつて自らも仕えた民衆派(ポプラレス)の
  指導者ガイウス・マリウスと激しい内戦を繰り広げた。マリウ
  ス病死後、マリウス派を粛清する。後に独裁官となり、元老
  院の権限を強化し閥族派の政権を作り上げたが、マリウス
  の義理の甥のガイウス・ユリウス・カエサルによって閥族派
  は倒される。(中略) 同盟市戦争では、体調の不調からマリ
  ウスは総指揮官を辞し、スッラが務めた。スッラの抜きん出た
  利害調整の能力は軍の掌握を可能にし、軍を掌握したスッラ
  は軍事面で大任を果たしてユリウス市民権法の公布という政
  治的解決で内戦は終結した後、コンスルに選
出された。

 注)ストラボン(Strabo)
  ストラボン(ギリシア語: Στράβων / Strábôn、ラテン
  語: Strabo, 紀元前63年頃 - 23年頃)
  古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。
  全17巻から成るギリシャ語で書かれた『地理誌』(または地
  理書、ゲオグラフィカ)で知られる。この大著は、当時の古代
  ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物とな
  っている。


 シセナによる古代の記述によると、それは小さな2つの川の間に突き出た岬にあるヴェスヴィオスの最も遠い斜面に位置する町(都市部はポンペイの約3分の1に相当する規模の町であったはずで:面積は約370x320メートル、人口は合計4000〜5000人)で南に海を臨める場所です。(ただ、この景観はその後数世紀の間に、ヴェスヴィオス火山の西暦79年の噴火や1631年の噴火によって著しく地形が変化し、特に古代に比べ地表面が20メートルも上昇したことにより著しく変貌しました)。 

 近くの商業都市ポンペイとは異なり、ヘルクラネウムの町は、後に発見された家財道具などが示すように繁栄はしていたものの、その経済は、商業や工芸品に全面的に依存していたわけではありませんでした。

 町は実際のところ、貴族のリゾート地としてよく知られており、優雅できらびやかな貴族の住民たちが様々なタイプのエレガントな装飾を施した家々で裕福に暮らし、緑豊かなブドウ畑で覆われた丘の斜面にある見晴らしのよい場所に多く立地し、業務活動用の建物はほとんどなく、プレベリア人の都市の住居とは対照的でした。

 居住者たちはポンペイの道路のように商売の物流で混雑していないこの地域の道をゆったりと歩き、静かで穏やかな生活を送っていました。まさにローマの貴族たちが余暇を過ごすために選んだ最適の環境の町でした。そこは、ポンペイの産業や商業活動によって活気づくこともなく、また、ポンペイの町の壁に貼り出される様々な社会政治的な混乱によって影響を受けることもありませんでした。

 しかし、西暦63年には、悲劇的な地震の発生でヘルクラネウムの町だけで無く、カンパニア地域の町は激しく破壊され、その発展は大きく阻害されることとなりました。町は個人の住宅はもとより、公共的な建物も著しく破壊され膨大な修復工事が必要な状態となりました(聖母教会(Mater Deum Temple)の様に、寺院の修復はヴェスパシアン皇帝の命令によって行われたことが、町で発見された碑文から明らかになっています)。しかし、この地震は、ヴェスヴィオス火山を待ち受けるさらなる混乱の前哨戦に過ぎなかったのです。

 注)ポンペイ地震
  西暦62年2月5日 ポンペイ地震( 5.2–6.1)が カンパニア
  州付近で起き、ポンペイやその周辺に被害があった。


 西暦79年8月24日、ヘルクラネウムの町では16年前の地震の被害を修復する作業に追われている時でしたが、この時の二度目の地震によって、美しいヴェスヴィオスの斜面を流れる泥で川は埋め尽くされ、町はがれきに覆い尽くされてしまったのです。

 町は、ポンペイのように溶岩や灰、白く熱した岩、そして火山岩片に覆われた訳ではありませんでしたが、最終的な被害はそれほど変わりませんでした。町は熱した泥に浸りました。熱い泥は山の斜面を下り、道を通って全ての家々に侵入するだけでなく、全ての路地、道路、すべての建物、すべての広場を飲み込んでいきました。


ヴェスヴィオ火山大噴火とエルコラーノ(ヘルクラネウム)
出典:青山貞一・池田こみち

 その他、ポンペイと違うところと言えば、ヘルクラネウムの人々はおそらく、海に逃げる時間があったと言うことだと思います。しかし、ほとんどの脱出者が安全に避難することに失敗したのです。なぜなら、荒れ狂う波は船を岸にたたきつけ、海に出ることを阻み大災害を引き起こしたのです。近年、遺骨や避難時の船の残骸などが沿岸に沿ったボートハウス ヒトて発見されており、海に逃げようとした人々の多くが失敗していることを裏付けています。


ヘルクラネウム(エルコラーノ)の位置(
Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンク

 噴火が終わったとき、ヘルクラネウムは、厚く土砂に覆われ(場所によっては10メートルもの厚さで)、歴史の本から消し去られてしまいました。全住民に町は放棄され、入る隙間も亡い石棺に収められた貴重なミイラのように二度と再建されることはありませんでした。後に以前のヘルクラネウムがあった場所の一部、町の端に、ようやく質素なレッジーナ(Resina)の町がつくられました。


ヘルクラネウムとは 3へつづく