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ブルボン時代のノニアナ大聖堂の探検に使用されたトンネル Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Collegamento 現地ブロック案内 ヴェスヴィオ総合メニュー 用語集 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ヘルクラネウムとは 1 ヘルクラネウムとは 2 ヘルクラネウムとは 3 行き方 入場 半円形劇場模型展示 歩き方 遺跡名と場所 ◆ヘラクラネウム(エルコラーノ)遺跡の歴史 発掘の歴史概要 逆説的にいうと、ある説明不可能な運命(この場合は過酷な)の皮肉により、古代の町が今日まで保存されてきたというのは、まさにヘルクラネウムの運命そのものと言えます。泥が乾き長い年月の間に固化し、そこはまさに、しっかりと厚い毛布によって固定された構造物、家々や家財(多数の部屋、丸天井の上から床までぎっしりと泥が詰まっているのが発見されています)は、結果として泥と瓦礫の洪水が町を飲み込んだにもかかわらず、守られたのです。建物の上層階については、古代の遺跡が残っていることはまずあり得ません。 ネプチューンとアムピトリーテーのモザイクの家(Neputune and Amphitrite Mosaic House) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2016年2月 しかしながら、一方では、ポンペイとは異なり、多くの石積みの個人住宅や公共建築物は地震の揺れの衝撃で激しく破壊され(一部には、その前の地震による被害がまだ修復されないまま残っているものもありました)、他方、一部あるいは、まるまる実質的にそのままの状態で、石積みの家だけでなく、家の中の家財類(壁の絵画類、彫像類、モザイク類、その他の家具など)も残されていたのです。 泥の層が木材を今日に至るまで保護したということは特筆すべき重要な事実です。こうした素材(材質)は適切な保護対策が講じられなければ、一般的にすぐに湿気や湿度、また素材自体の化学的物理的組成によって摩耗、劣化してしまいます。お陰で、来訪者は建物の階段、間仕切り、その他木製の構造物や一部の家具の遺品なども見ることが出来るのです。 町全体は硬く締まった土の層で覆われ、その硬さ強さは降り積もった泥の組成や厚さによって異なります(その厚さは10~20メートルの範囲です)。この泥の層は、ヘルクラネウムの遺跡をポンペイなど他の見捨てられた古代遺跡都市が長い間被害を受けたような略奪から守ることとなったのです。 こうした悪条件の下での発掘調査には大変な困難が伴いました。それは一方では略奪者や骨董品泥棒の意欲をそぎましたが、他方、多くの考古学者たちが、再び日の目を見ることはないと思われていた古代の町を掘り起こすためにそれぞれ異なる情熱をもって努力を捧げてきたのです。 西暦79年の噴火の後、ヘルクラネウムの存在はおそらく、完全に忘れられた訳では無かったのです。少なくともその地域では。レッジーナの住民たちは、建物の基礎や運河、井戸などを掘るときに、偶然に古代の埋もれた町のいくつかの建物や構造物を発見することがあったかも知れません。しかし、こうした発見については、考古学的な発掘とはほど遠いものでした。(この埋もれた)町については1504年に発表されたサンナザーロ(Sannazzaro)の”アルカディア(Arcadia)”の中で触れられています。 注)SannazzaroのArcadia 英文Wikiより アルカディアは、1480年頃にヤコポ・サンナザロによって 書かれ、1504年にナポリで出版された牧歌的な詩です。 サンナザロのアルカディアは、16世紀と17世紀の文学に 影響を与えました。 注)サンナッザーロ(英語表記) 日本大百科全書 Sannazzaro,Jacopo 1456~1530 Jacopo Sannazzaro イタリアの詩人。ナポリに生まれ、ナポリ王国フェデリーコ 国王に宮廷人とし て仕え、1501年フランスに追放された王に従い、その死ま でフランスにとどまった。04年ナポリに戻り、南部イタリアの 人文主義を代表する詩人として活躍したラテン語による『漁 夫の歌』、『聖処女の出産』(1526)などの詩作品があるが、 その最高傑作はイタリア語による『アルカディア』(1504)で ある。愛に傷ついた主人公の羊飼いシンチェーロは、理想 郷アルカディアに逃避し、美しい自然や牧人の素朴な生き方 に慰めをみいだそうとする。この作品では、詩と散文が交互 に並べられ、ペトラルカやギリシア・ラテンの牧歌の影響を受 けた流麗優美な文体が用いられており、田園牧歌の傑作とし て、17、18世紀にイタリアのみならず広くヨーロッパ諸国で大 きな影響力をもった。[竹山博英] しかし、18世紀初頭まで、即ち、1613年のベスビオス火山の二回目の破壊的な噴火以降は、発見について厳密に話すことが出来ます。即ち、ようやく1709年、オーストリアの王子エルブフ公が、ヘルクラネウムの劇場のステージ壁を発見したのです。 注)エマニュエル・モーリス (エルブフ公) Wikipedia エマニュエル・モーリス・ド・ギーズ=ロレーヌ (Emmanuel Maurice de Guise-Lorraine, duc d'Elbeuf, 1677年 12月20日 - 1763年7月17日)は、フランスの貴族、軍人。エ ルブフ公(1748年 - 1763年)。 エルブフ公シャルル3世とその2番目の妻でテュレンヌ大元帥 の姪にあたるエリザベート・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの 間の息子として、パリで生まれた。スペイン継承戦争中の1706 年、ナポリにおいて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世に陸軍中将とし て仕官することになり、フランス王ルイ14世の宮廷から追放処 分を受けた。ルイ14世没後の1719年、フランスに戻って資産 を回復した。宮中ではエルブフ公(prince d'Elbeuf)の儀礼称号 で呼ばれたが、1748年に兄アンリからエルブフ公爵家の家督を 継いだ。2度結婚したが子供がなく、同族の遠戚であるランベス ク公シャルル・ウジェーヌを後継ぎとした。 ナポリ滞在中にポルティチ郊外に建築家フェルディナンド・サンフェリーチェの設計により屋敷ヴィラ・デルブフ(Villa d'Elboeuf)を建てて、1711年から1716年まで住んでいた。この屋敷の井戸を掘っていた1709年、古代の円形劇場の遺跡が発見され、古代ローマ時代の都市ヘルクラネウム発掘の端緒となった。1738年、ナポリ王カルロ(後のスペイン王カルロス3世)夫妻はヴィラ・デルブフに魅了され、この地にポルティチ宮殿の建設を命じた。 ブルボン時代のノニアナ大聖堂の探検に使用されたトンネル Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Collegamento この発見はまさに井戸を掘っている間の偶然の発見でした。当時はこのようなことが頻繁に起こりました。科学的な学習や研究に繋がるのでは無く、専らこうした発見は、それによって発掘した現場の構造物にどれほどの損傷を与えるかなどとはお構いなく貴族の芸術愛好家が発見した現場から最も好きなものを手に入れる機会となっていたのです。ほとんど10年間というもの、劇場跡は、大理石の外壁や多数の立像などが持ち去られ後に、外国の博物館に買い取られました。 発掘は依然として科学的では無かったものの、1738年10月には、少なくともブルボン王朝のカルロ王がスペイン軍の技師アルキュビエールに委託し正式に承認された発掘事業として開始されました。 注)King Carlo of Bourbon (カルロス3世 (スペイン王) Wikiipedia カルロス3世(スペイン語: Carlos III, 1716年1月20日 - 1788年12月 14日)は、ナポリ・シチリア王(カルロ7世および5世、在位:1735年 - 1759年)、のちボルボン(ブルボン)朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)。スペインの啓蒙専制君主と言われる。 トンネル工法やシャフトを用いた地元の作業員による工事は、劇場全体と集会場(バシリカ)を露わにし、同時に”巻物の邸宅:Villa of Scrolls"も発掘されました。そこには非常に重要な立像のコレクションとともに、貴重な哲学書などおよそ2000件ものパピルスの巻物がありました。 参考:Natureasua 【応用物理】ヘルクラネウム遺跡出見つかったパピルスの巻物を解読する https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/9696 中でも、非常に正確な”Villa of Scroll”の図面を描いたスイスのカール・ウェーバー(Karl Weber)の援助を受け、また、イタリアのフランチェスコ・ラ・ヴェガは、町の概略地図を作成し、発掘は1766年まで継続されました。その間に1755年にローヤル・ヘルクラネウム・アカデミー(Royal Herculaneum Academy)が設立され、フレスコ画のイラスト、青銅の立像そして研究の初期に発見された巻物について(の研究成果を)全8巻にとりまとめました。 アルキュビエール、ウエーバー、ラ・ヴェガによる発掘が紛れもなく重要だったにもかかわらず、ヘルクラネウムが西暦79年の火山噴火の前にどのような町だったかについては、大まかなことをまとめたに過ぎませんでした。 1828年に再び研究が再開され、今回は既に用いられていて、ポンペイでも近年利用されている、より現代的な方法を用いて野外発掘が行われました。発掘は1855年まで継続されました。この第二次の発掘調査の間、(建物・中庭を取り囲む柱列・周柱式の)住居を含むブロック2つがアルゴス・ハウス(Argos House)において明らかとなりました。 14年後、王であるヴィットリオ・エマニュエル二世は、発掘を再開するように命令を下しました。こによって新たに発見されたのは、さらに二つのブロックの一部と風呂場の南ファサードでした。しかし、発掘は1875年に中断されることとなりました。その理由のひとつは、レッジーナの土地所有者からの反対があったことがあります。彼らは自分の土地を考古学研究の犠牲にする積もりがなかったのです。 最終的に1927年、イタリアの偉大な考古学者アメディオ・マイウリ(Amedeo Maiuri)の指揮の下で研究が再開されました。彼は、発掘調査を全面的に科学的かつ体系的に行うこととし、発掘による発見には計り知れない価値がありました。発見された遺跡・遺産の発掘作業、修復、修理などの作業は、今日もなを続けられています。 遺跡への行き方へつづく <ヴェスヴィオ総合メニュー> |