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第5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2016-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


ヘルクラネウム遺跡 現地視察
HERCULANEU
M Ruins
 
聖域・ボートハウス 3 The Sacred Area

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo

人骨が発見されたボートハウス Wikimedia Commons ドイツ語版ウィキペディアMatthias Holländerさん - 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

ブロック SD
M.ノニウス・バルバスのテラス1   M.ノニウス・バルバスのテラス2
聖域・ボートハウス1  聖域・ボートハウス2   聖域・ボートハウス3

海岸線  郊外公衆浴場

聖域・ボートハウス (SD)
 Area sacra(伊)、The Sacred Area(英)

 以下はヘラクラネウム遺跡のインスラ(ブロック)です。ボートハウスは、SDの聖域に位置しています。

◆聖域・ボートハウスの概説

はじめに

 以下はイタリア語の複数のイタリア語文献の概訳です。

 1980年、エルコラーノのヘルクラネウムにある都市温泉の復旧工事の最中にボートハウスから約300人の骨が偶然に発見されました。

 膨大な火山性物質で覆われていたヘルクラネウムの港湾地域を発掘すると、人骨が発見され、世界中にこのニュースが広まり、他の人たちの発掘が続きました。

 次の数ヶ月で、転覆したボートを含め、約300の人骨が発見され、考古学者を驚かせました。すべての遺体はボートハウスの空洞に上下に詰め込まれ、アーチ型の構造物のボートハウスは海に面しており、冬期はボートがここに繋がれていました。

 このアーチ型をしたボートハウスは、数年前から一般に公開されています。

詳細

 西暦79年のヴェスヴィオ噴火時、南イタリア、現在のエルコラーノのヘルクラネウム地区の住民は、必死になって1平方メートル当たり三人を超える高密度でボートハウスに逃げ込んだのです。

 各ボートハウスには15〜40人が折り重なっていました。発掘で分かったのは、犠牲者が最も集中したのは、アーチ型のボートハウスの内部でしたが、一部の遺体は頭を入り口のアーチに向け外に横たわっていました。

 何人かの犠牲者は、お互いに抱き合ったり、顔に手をかざしたりしていました。ほとんどが横向きですが、他は下向き、さらに仰向けに寝ていました。あるボートハウスでは、母が子を抱擁しており、女性の骨格が子供の骨格よりも上にあるなすた。馬が人間の骨格の上に部分的にあったものもありました。これはそのため人間の死が遅いことを示している可能性があります。

 これらの遺骨は誰であり、どのような職業の人であったかも、推察されています。洗練された宝石を持った女性の存在は、最も裕福な市民がここに集まったと考えさせます。おそらく彼・彼女らは自分の家から遠くに行くことを嫌がったはずです。

 しかし、調査が進むにつれて、ボートハウスにたどり着いた人々が明らかになってきました。それは共通しており不運な社会的背景からくるものでした。何人かは船員です。彼らの上肢はオールの使用から発達し、歯は網を修復する際、網糸を切ったことからで磨耗していました。

 一方、ボートハウス近くで見つかった約45歳の背の低い男性の骨は、栄養失調で傷がついておりき、過負荷で骨が曲がっていました。変形した脊椎といくつかの椎骨がくっついたのは、長期間の重労働があったことを示しています。貧しい食べ物、乱雑な仕事、そしてボロボロとなった歯がこの男性の人生を不快、不幸にさせたに違いありません。

 8歳の少年の骨格は、数週間で壊れ熱で溶けた腕がありました。近くにはつる(植物)の小枝があり、その軽さと柔らかさを利用し、手足を塞ぐために使用された副木であった可能性があります。

 成人男性の骨格は、鎖骨と肋骨が過負荷により繋がって(くっついて)いました。おそらく絵画によく見られる小さなシングル・オールボートを長期間使用したために、右上腕骨が損傷したのでしょう。

 また推定37歳の男性の骨格は、兵士のものであり金色のブロンズプレートで作られたベルトと剣を身に着けていました。彼の人骨の隣には大工道具、すなわちハンマーと2つの木彫りが入ったバッグがありました。これらの道具は平時の建設作業で兵士が使用された可能性のあります。

 ヘルクラネウムの住民は逃げ場がなく、なんとかボートに乗って海路を進んだ人でさえ、小プリニウスの回想から明らかなように、海は荒れ狂っていたので、その後、良い運命をたどることはできませんでした。彼自身は港にとどまることができず、近くのスタビアに上陸することを余儀なくされ、そこで噴火のガス状の煙で死亡しました。

人骨

 火砕流は逃げ遅れた住民の命を即時に奪いました。ヘルクラネウムで命を失った人々の姿はポンペイとは異なり石膏で保存はされません。

 1981年ジュセッペ・マギ博士の監督のもとイタリアの公共事業の作業者がヘルクラネウムで排水溝を掘っている時、遺骨を発見しました。マギ博士に促されイタリアの役人は自然人類学者のサラ・C・バイセルを発掘の指揮と遺骨の研究のためにアメリカから招きました。この調査はナショナルジオグラフィック協会の資金により行われました。

 古代ローマ人は通常火葬を行っていたので、この発見まで学術的な研究に使用できるローマ人の骨は少なかったのですが、ヘルクラネウムの港地域の発掘では、55以上の人骨(成人男性30、成人女性13、子供12)が発見さましれた。それらの人骨は海辺で見つかりました。彼等は噴火から逃れようとしていたと考えられます。この人骨の中には指に付けていた指輪にRing Ladyか彫られていました。

 これらの遺物の化学的分析により、バイセル博士はヘルクラネウムの住民の健康や栄養状態について詳しい知見を得ることができました。遺骨の中には高濃度の鉛が検出されるひとが有り、鉛中毒が疑われました。また骨の分析によっても新たな知識が得られました。例えば骨盤の傷跡により女性が産んだ子供の数を推測することができました。

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