日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 旅順大虐殺とは(4) Lushun Massacre(4) 旅顺大屠杀 出典:百度百科 2021年12月13日 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月30日 |
総合メニュー へ (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 生死をかけて探し出す 1935年、孫宝天は命がけで「旅順大虐殺」で2万人が死亡したことを証明した。...... 命がけで「旅順大虐殺」を証明した孫宝天氏 1903年生まれの孫宝天は、1910年から10年間、遼南の著名な学者・鄭友仁に師事し、名将・万里(大連・金州出身で、1955年に中将の地位を獲得)と同門であった。 1929年の春、周恩来の南開高校時代の同級生である畢維煥とともに、溥儀の顧問である羅振宇に弟子入りを認められた。 1930年、孫宝天は、1904年に科捷恩を卒業した王吉利に師事した。 1935年5月、孫宝天は国民の憤りから、41年前の大虐殺で死んだ人の数を調べることにした。 彼は旅順に行き、言葉に気をつけながら、虐殺のことを知っている男、鮑紹武を見つけた。 鮑紹鴎は苦しそうに言った。 「日本軍は旅順に入り、三日三晩、女も子供もすべての家を探して殺した。 死体はいたるところに埋まっていた。 翌春2月、日本軍は彼らに死体運び隊を組織させ、死体を陽花溝に運んで焼いた。」 犠牲者の遺灰は白玉山の東麓に埋葬された。 調査の結果、孫宝天は「当時、遺族が遺体を受け取って埋葬した千数百人に加えて、実際に焼かれた遺体の数は1万8千3百人を超えていた」と知った。[4] 「鮑淳の話によると、于は日本軍による旅順の虐殺の事実を詳細に記録しており、その内容は国民に知らせるための文書に記載されていた。」 孫宝天が調べたところ、旅順大虐殺の犠牲者は2万人で、日本側が発表した数字の2倍だった。 当時、旅順は日本の占領下にあり、孫宝天は命がけで旅順大虐殺で死んだ同胞の数を調べていたのだから、その危険性は自明の理である。 1944年、日本は植民地支配を強化するために、旅順の人々の名前を日本名に変える計画を立てた。 晋州の日本人「民政部長」川谷治夫は、有力な晋州協会の会長である曹志克を呼び寄せて計画を立てた。 旅順大虐殺 切り落とされた頭が転がっている 曹志可はその後、旅順の各界の代表者を集めて対策を検討する会議を開いた。 曹志克や孫宝天(教育部門の代表)など15人が反対の共同署名をした。 非常に不満ではあったが、日本の戦況の落ち込みを考えると、あえて自分の道を歩むことはなかった。 「そして、軍の名前を変えるという陰謀は放棄された。」 真実が明らかになる 1894年11月26日、イギリスの新聞「タイムズ」は、旅順で大虐殺があったとの電報を掲載した。 11月29日、フランスの新聞「ル・モンド」は、中国の至府(現・煙台)からのレポートを掲載した。「(旅順の)日本軍は老若男女を問わず射殺し、3日間で略奪と殺戮が最高潮に達した。 「 ル・モンド紙は12月12日、13日、19日、20日に、「戦争特派員」クリマンによる長文の「記録報道」:「日本軍の大虐殺」と「旅順の大虐殺」を掲載し、「日本は 文明的な皮膚と野蛮な骨を持つ怪物だ」と発言し、騒動になった。 「イギリスの「Times」と「Standard」が追随して記事を掲載し、炎上に拍車をかけた。 」 事件の詳細が知らされると、人々は皆、極東での残虐行為に震え、悩み、怒りを覚えた。」 [5] クリマンの数字は2,000人、ヴィリアーズの数字は20,000人であった。[6] [7] 日本軍は3日連続、夜通しで血みどろの大虐殺を行った。 日本の学者の中には、1937年秋の上海戦(松湖の戦い)で日本軍が大敗(死者約1万5千人)して「復讐の気分」になって「南京大虐殺」になったように、1894年11月18日の土城子の戦いが「南京の戦い」になったと考えている人もいる。 1894年11月18日の土城子の戦いは「旅順大虐殺の引き金」となった。 1894年11月18日の土城子の戦いが「旅順での残虐な殺戮」のきっかけとなり、「この戦いで中川(徳治)中尉を含む11名が戦死し、清国兵が日本兵の死体を陵辱し、わが死者の鼻を切り、目を抉り、腹を割くという事件が発生し、全軍に怒りの空気が漂った」と記されている。 中川中尉の首は、旅順侵攻後に発見されたと言われている。 国内外の多くの資料には、虐待に対する復讐の感情が旅順の大虐殺につながったと書かれている。 [8] では、旅順の大虐殺は、本当に土城子の戦いでの「清国軍の遺体の辱め」をきっかけにした日本人の自然発生的な復讐心」によるものだったのであろうか。 誅仙子の戦いは小さな戦いであったが、それが世界の世論の中で大きな出来事となったのは、日本軍が盛んに言っていた「死体の辱め」と密接な関係があった。 (5)につづく |