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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

旅順大虐殺とは(1)

Lushun Massacre(5) 旅顺大屠杀
出典:百度百科   2021年12月13日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月30日
 
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 「屈辱」には大きく分けて2種類あり、敵の死体の首を切ることと、敵の死体の「鼻を切り、目を抉り、腹を割く」ことがあった。 まず第一に、「首領」は古代の戦乱から引き継がれた野蛮な風習であり、近代になっても完全には廃止されていないことが挙げられる。

 本来、旅順の清軍は「首を切ってはいけない、切った者は行軍を遅らせても報われない」という命令を出していたのだが、弓兵の兵士たちはその軍律を無視して、中川中尉以外の11人の首を切ってしまった。 中川中尉の死後、彼の兵士たちは「中尉の首が敵の手に落ちることを恐れ、泣く泣く首を切り落として軍に持ち帰り、スムーズに埋葬した」という。

 したがって、日本で言われている「旅順侵攻後に中川中尉の首が発見されたと言われている」というのは、単なる噂に過ぎないということになる。

 清軍が敵の死体の「鼻を切り落とし、目をえぐり出し、腹を割った」というのがどこまで本当なのかは疑問である。 日本の騎兵捜索隊がアーチガードに撃退された後、清軍が敵の残した死体の「鼻を切り落とし、目をえぐり出した」のを誰が見たのか、直接の目撃談はない。

 清国軍によって遺体はすでに切断されていたのだから、鼻を切り落とされ、目をくり抜かれた彼らの姿をどうして見ることができたのか。 実際、日本軍が旅順に侵攻した後、切断された首の一部を発見したが、「鼻を切られ、目をえぐられた」という衝撃的な光景ではなく、「野犬にかじられた」という陰惨な光景だった。

 「鼻を切り、目をえぐった」という話には証拠がないことは明らかだ。

 死体が「腹割れ」していたとは恐れ入るが、清軍がやったとは言い難い。 これは、重傷を負った日本人が、ある者は喉を切り裂き、ある者は腹を切ってナイフで自殺したからである。

 特に、荒野に一晩死体を放置しておくと、食べ物に飢えた地元の野犬が血の匂いを嗅ぎに来て、噛んで食べてしまう。 このことは、部隊に同行した欧米のジャーナリストたちの文章にも書かれている。

 いずれにしても、11人の日本兵が首を切られたという事実は、日本軍が民間人を無差別に殺せるという結論を導くものではない。

 いわゆる「死体の切除」は、すべて日本軍の仕業であったことを示す証拠がある。 旅順を攻撃していた日本軍の主力は第一師団であり、その司令官である山地源治中将は、このいわゆる事件の張本人であった。

 山地は士気を高めるために、わざとこの問題を「死体遺棄事件」のプロパガンダに使おうとした。 これは、卑劣な戦術だった。 しかし、山地はそれを逆手に取り、「今日の戦いは、ネズミや泥棒のような敵兵を相手にしたもので残念だ。 明日の戦いは私が指揮する!」。

 吐城子の戦いの翌日19日、シャンディは吐城子で殺された兵士の遺体が衛生兵によって双台溝の近くに運ばれているのを見て、「よし!」と叫んだという。 清の兵士たちは、どうしてあんなに残酷なことをしたのだろう。 これから先、青の兵隊と再び遭遇したら誰も生き残れないであろう!」。

 この感情は、北軍の大尉から下のすべての将校に直接伝わっただけでなく、すべての兵士に大きな刺激を与えた。

 虐殺後、「旅順の清国軍人は軍服を脱ぎ、住民の私服に着替えて、屋敷の空き家に隠れて抵抗した」と公式に発表された。 住民の中には、力ずくで抵抗するように命じられた人もいた。つまり、日本軍が虐殺したのは、抵抗を続けた人民服の清国軍人か、戦闘を命じられた住民であった。

 また、日本の学者の中には「(旅順の敗残兵は)軍服を脱いで私服に着替え、住民の家に潜んでいた」と主張する人もいる。 掃討戦では、日本軍にとって敗残兵と住民の区別がつきにくかった。 その結果、兵士と思われる屈強な男たちは容赦なく殺された。 ...... 囚人の大量虐殺は国際法違反だが、(中国の)正規兵の民間化も同様である」。

 日本軍の「捕虜の大量虐殺は国際法に違反していた」ことを認めながら、清国軍の「正規兵の市民化」を非難する謝罪者たちの正当性はほとんどなかった。 仮に、部隊と一緒に北に退却する時間がなかった清国の兵士が数人いたとしても、彼らが散り散りになって民間人の服を着て隠していたという事実は、国際法違反でもなければ、日本が「捕虜を虐殺する」「民間人を虐殺する」理由にもならない。

 実は、日本軍は旅順を攻撃する前に、すでに捕虜を置かないという方針を打ち出していたのだ。

 山地源治と一緒に旅順に入った日本のスパイは、山地が「女子供以外は全滅させろ」と命令したため、旅順は悲惨な状態になり、旅順の港には血の川が流れているように感じられたと告白している。

 日本の第二軍司令官である陸軍大将の国際法顧問であった有賀長雄も、旅順で欧米のジャーナリストの前で「平壌では数百人の捕虜を取ったが、食事や世話をするには費用がかかり面倒だった」と認めている。 実際、ここでは一人の囚人も出さない」。[8]

 また、日本政府は旅順での日本軍による民間人の虐殺をよく知っていた。

 外務大臣の陸奥宗光は、日本が旅順で民間人を虐殺したことを私的には秘密にしていなかった。 旅順虐殺事件の1週間後、林董外相に電話をかけてこう言った。

 今日は、旅順から帰ってきたタイムズ(The Times)のジャーナリストと会った。 彼の発言によると、日本軍は勝利後、捕虜を縛り上げ、民間人や女性であっても生きたまま殺すなど、かなり乱暴な行動をとったのは事実のようだ。 これらの事実は、欧米のジャーナリストだけでなく、各国の艦隊の下士官、特にイギリスの提督たちも目撃していた。 ......

 タイムズの記者は、日本政府が事後にどのような政策をとるのか、何度も質問している ...... 上記の事実が公表されても、何の声明も出せないという大臣の意見をご理解して欲しい。つまり、日本政府がどのように処罰するかを公表した後の今、何もなければ 罰がなければ非常に消極的になっている。

 日本政府は、旅順での民間人虐殺が事実であることを認識しているが、公的な声明を出すことはできない。特に、責任者を処罰することは事実を認めることに等しく、責任者を処罰しないことは国際世論の前では非常に消極的であった。

 そして、旅順大虐殺の流血と残酷さは、戦闘に参加した日本兵の日記に特によく表れている。

 第2航空団の久保田忠三はこう語る。

 中国兵を見かけると殺し、旅順の人を見かけると誰も残さずに殺すので、道には死体が山積みになっていて、歩くのが非常に困難であった。 家に住んでいる人も容赦なく、通常3人から5、6人が殺され、流された血は嫌というほど出た。


 第一野戦軍の補給兵であった小野六三が語る。

 外出を許された私たちは、旅順の街中を歩いてみると、一軒の家に10人以上、あるいは2~3人以下の「敵の死体」があり、白髪の老人と赤ん坊が一緒に殺され、白髪の妻と娘が手をつないで地面に倒れていた。

 それを裏付けるように、遺体の運搬に携わった中国人、バオ・シャオウの言葉がある。

 遺体を回収しているときに、自分たちの仲間がどれだけひどい目に遭ったかをこの目で見た。 上溝のある店では、鬼に刺されて死んだ方さんが、まだ帳場に横たわっていた。 さらに悲惨だったのは、母親と4、5人の子供の遺体で、長女は8、9歳、次女は生後数ヶ月で、母親の腕の中でまだ母乳を飲んでいたが、ベッドの上で悪魔に刺されて死んでしまった。 多くの人が自分の家の玄関先で亡くなっていたが、いずれもドアを開けた瞬間に悪魔に殺されてしまいました。 亡くなった方の多くは、お年寄りや女性、子供たちでした。

 王洪照が言った。

 日本兵は銃剣を使って、私たちに4つの死体を旅順まで運ばせました。 私が旅順に着いたとき、どの家もドアが開いていて、中には首を切られた人やカウンターに置かれた人、外には大きく開かれた内臓が山積みになった人などが散らばっていて、壁には血が飛び散り、道路は死体で埋め尽くされていました。 この時逃げなかった旅順の人々は、すべて悪魔の肉切り包丁の下で死んだ。

 遺体を運んだ人の証言と日本兵の日記を照らし合わせると、日本軍が旅順市に入って目の前で皆殺しにしたこと、殺された人の中には無防備な老若男女や丸腰の平和な住民が多数含まれていたことが明らかになった。

 殺された人々の大半は、日本側が主張していたような「平服の清国軍人」や「武装した抵抗勢力の住民」ではなく、無防備な老若男女や非武装の平和的な住民が多数含まれていた。

 旅順大虐殺は、日本の上層部が計画した組織的な戦争犯罪である。

 旅順大虐殺は、日本兵が国際公法や戦争法に違反して行った通常の犯罪ではなく、日本の第二軍がトップダウンで行った組織的な大量殺人であり、その内容ははるかに深刻である。

 日本側の説明の中には、虐殺を命じたのは日本の第一師団の司令官である山地源治中将であるという事実から逃げないものもあり、これは真実であり、信憑性がある。

 日本のスパイである向野健一は、日本第二軍の第一師団に所属して旅順を攻撃した際に、すべてを目撃しており、山地源治が「老若男女の女性以外は一掃せよ」という命令を出していたことを回顧録で認めているので、旅順はあまりにも悲惨で、旅順の港では血の川が流れているように感じられた。

 その結果、師団の将校たちは部下たちに「敵兵を見かけたら誰も残さないように!」命じた。 また、向後賢一は、第3航空団の兵士が民間人の家に侵入して2人の民間人を殺害し、「中庭に血が飛び散った」のを見た山地源治が、それを止めるのではなく、民間人を殺害した日本兵に「このことを誰にも言うな」と指示したことを日記に記録している。

 また、第一旅団長の乃木希典少将と第二旅団長の西川二郎少将が、虐殺命令の実行に積極的であったことも日本側の記録で証明されている。

 ※注)乃木 希典(1849年12月25日〈嘉永2年11月
  11日〉 - 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の
  幕末の武士(長府藩士)、明治時代の陸軍軍人、
  教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、
  明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことで国際
  的にも著名。「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残
  している。出典:Wikipedia


 では、日本の第二軍の司令官であった大山巌大将は、自分の第二師団がこのような重大な戦争犯罪を犯したことを知らなかったのか、そしてその場を離れられなかったのか。 答えは「ノー」である。

 大山が虐殺について何も知らなかったというのは、軍規的にも推論的にも絶対にあり得ないからだ。

 当時、ロンドンの『タイムズ』紙は、「日本軍が旅順を占領したとき、4日間にわたって人々を殺傷した。軍の責任者が一時的に禁じることができず、一生の汚点となることを恐れた正当化できない殺傷である。」と記している。

 もともと日本寄りだったイギリスのオックスフォード大学教授のヒューランドも、「あの時の日本の役人の行動は、確かに通常の道を越えていた」と主張している。 両者とも、旅順での虐殺の責任は主に指揮官にあると強調している。

 当時、旅順にいた欧米人はよく知っていた。「日本軍の司令官とその将軍たちは、虐殺が連日行われていることを知っていた。」 大山巌は旅順の日本軍最高司令官であり、4日連続で行われていた虐殺を知らないはずがない。 これもその一つである。

 ※注)大山 巌(、天保13年10月10日(1842年11月
  12日) - 大正5年(1916年)12月10日)は、日本の
  陸軍軍人、政治家。陸軍大臣(初代・第3代)、陸
  軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大
  臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議
  員を歴任した。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。
   出典:Wikipedia

 1894年11月21日の昼下がり、すでに旅順での日本人虐殺が始まっていた頃、大山はパレード場での式典を主宰し、外から聞こえてくる民間人を殺す銃声を聞きながら、軍楽隊に「ジュンのヤイ」の演奏を命じた。

 クリールマンは、このときの彼の姿を「音楽と銃声が入り乱れる中、グラスを鳴らして微笑みながら、将軍や大佐と一緒に歩いていた」という。 彼が日本の大虐殺を十分に認識していただけでなく、それに満足していたことは明らかである。

 特に、旅順事件の際には、法律顧問の長尾由佳氏を派遣して、欧米のジャーナリストに日本の虐殺事件を報道しないように説得していた。 何も考えていなかったら、なぜここまでするのだろうか。

 これらのことから、大山が旅順虐殺の犯人であり、最大の責任者であることがわかる。

 日本軍の旅順での虐殺は、清国軍による「死体の辱め」によって引き起こされた「復讐心」による「自然発生的」な復讐行為ではなかったのである。 日本側が主張したように、「清国の平服部隊」や「武装した抵抗勢力の住民」を排除するための戦闘行為ではなかった。

 それは、日本軍のトップの将軍たちが直接命令し、間接的に扇動した、罪のない普通の中国人の残酷な虐殺であった。 アメリカの新聞が言うように、これは彼らが「文明的な装いを脱ぎ捨て、野蛮な本性を現した」瞬間だったのかもしれない。[6]


 1896年、清朝の官吏であった顧元勲が「万中墓」と名付けた石碑を建てた。

 日本軍は、虐殺の証拠を隠蔽・隠滅するために、1894年11月下旬から翌年1月中旬にかけて、まず被害者の遺体を掃除して急いで旅順の街中に埋め、その後焼却して証拠を消した。 日本軍とその植民地機関は、街中や船員収容所から集めた中国人男性で3つのチームを作り、遺体を3カ所に運んで焼却した。


万中墓

 1つ目は「万中墓」がある溝の下、2つ目は造船所建設時の古い窯、3つ目は金山の東の麓である。 「ブリガダの歴史」によると、死体(2万体)を運び終えるのに1カ月かかったという。

 遺体を焼く材料は、石炭と木製の船の板やブロックにパラフィンを加えたものだった。 その際、日本人は鉄の棒や管で台を作り、遺体が完全に燃えるように支えた。 遺灰は4つの大きな棺に集められ、白玉山の東麓にまとめて埋葬された。

 墓の前には「清兵戦死之地」と書かれた木の杭が立てられ、世間を欺き、女性や子供を含む民間人や囚人を虐殺し、焼き殺した罪を隠蔽するためであった。

 1896年11月、日本軍が旅順から撤退した後、清国の官吏である顧元淳は、「万中墓」に最初の碑を建て、「万中墓」という文字を書き、堂を建てて敬意を表した。

 その後、1922年と1948年にそれぞれ修理、再建された。 碑文には、日本人が行った残虐行為や、万忠の墓の修復について書かれている。

 1963年、「万中墓」は省の文化遺産保護単位としてリストアップされた。

 1994年は「旅順大虐殺」の100周年にあたり、旅順口では各界の人々が日中戦争で殉職した同胞を埋葬した。 また、11月21日には、旅順社区で「日中旅順殉国同胞百年祭」の活動が盛大に行われ、万中4号墓碑が設置された。 復元された「万中墓」の面積は9,300平方メートル、記念館の建築面積は1,100平方メートルである。

 1997年、「万中墓」は宣伝部の「愛国教育実演基地100選」に選ばれた。

 2019年11月21日、大連市旅順口区の万中墓廟で「旅順の日中戦争で殉職した同胞の公開追悼式」が行われ、地元政府関係者、駐留軍の将校や兵士、小中学生、各界の人々など総勢400人以上が参列した。[9]


脚注 リファレンス

1.日本の軍国主義やファシストの残虐行為の源となった日清戦争の 人民日報[引用元:2019-07-17

2.資料1:旅順大虐殺の出来事の背景。

3.資料2:「旅順大虐殺」の出来事。

4.孫宝天 旅順大虐殺:大連出版社、1900年1月

5.参考文献3:「旅順大虐殺」の報告。

6.ノースロップ(ヘンリー・ダベンポート)「花の国」「ミカドの国」または「中国・日本・コリア」-日中戦争のグラフィック・アカウント-Its 原因、陸海空の戦い。 米国:ナブ・プレス、2012年:582

7.ブルース・A・エルマン「現代中国の戦争:1795年~1989年」。 United States: Routledge, 2001: 109.

8.日中戦争を読み直す-日本軍はなぜ旅順虐殺を行ったのか? Phoenix.com.cn. 2014-06-10 [cited 2014-06-14] 9.

9. 「旅順大虐殺」125周年記念式典:大連・旅順で開催。 中国ニュース[引用元:2019-11-21]

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旅順大虐殺’ushun Massacre)の概要図(写真2枚)


(6)につづく