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法性寺 祖師堂 Souce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 法性寺 山王権現祠 妙光寺 岩殿寺 昼食 杉本寺 浄妙寺 長勝寺 実相寺 光明寺 今回(2022-2-18)は逗子市、鎌倉市にある以下の9寺院などを①~⑨の順で参拝・視察した。 ①法性寺(日蓮宗) 逗子市久木9丁目1−33 ②山王権現祠 逗子市久木9丁目1 ③妙光寺(日蓮宗) 逗子市久木6丁目1−6 ④岩殿寺(曹洞宗) 逗子市久木5丁目7−11 ⑤杉本寺(天台宗) 鎌倉市二階堂903 ⑥浄妙寺(臨済宗) 鎌倉市浄明寺3丁目8−31 ⑦長勝寺(日蓮宗) 鎌倉市材木座2丁目12−17 ⑧実相寺(日蓮宗) 鎌倉市材木座2丁目12−17 ⑨光明寺(浄土宗) 鎌倉市材木座6丁目17−19 法性寺アクセス 法性寺(日蓮宗) 住所:逗子市久木9丁目1−33 今回、私達は東京から第三京浜などを使って逗子市に入り、その後、法性寺に到着した。この辺りは逗子市の谷戸にある。 電車+徒歩の場合は、横須賀線(JR東日本)逗子駅から徒歩約27分。横須賀・総武快速線のほか、湘南新宿ライン(宇都宮・横須賀系統)も発着する。 以下の地図では、左上に法性寺がある。地図中、左側の横須賀線、湘南新宿ラインが見える。 出典:グーグルマップ 法性寺及び山王権現の全体案内図 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 概要 法性寺(ほっしょうじ)は、神奈川県逗子市久木にある日蓮宗の寺院。 山号・猿畠山(えんばくさん)。松葉ヶ谷法難の際、日蓮が白猿に導かれ難を逃れた岩窟の地に建立されたと伝えられ、日蓮六老僧の一人である日朗の墓所がある。 14世紀に本圀寺とともに京都に移転、さらに17世紀に旧地に同一の山名・寺号で一寺が建立された。逗子市法性寺は比企谷妙本寺(長興山)、池上本門寺(長栄山)両山奥之院を称し、旧本山は比企谷妙本寺である。 池上不二庵法類 土富店法縁。因みに、京都府法性寺は現在京都市左京区田中町下柳町28に位置し、本圀寺の旧末寺500ヶ寺のうち「末頭」の地位にある。達師法縁[3]。 祖師堂(逗子市) 所在地 神奈川県逗子市久木9丁目1-33 山号 猿畠山 宗派 日蓮宗 本尊 一塔両尊(題目塔・釈迦多宝如来) 創建年 元亨元年(1321年) 開山 日蓮(崇敬開山)・日朗(開山)[1] 開基 朗慶 正式名 猿畠山 法性寺 別称 御猿畠,長興長栄両山奥之院 法人番号 5021005008022 ウィキデータを編集 法性寺 (逗子市)の位置(神奈川県内)法性寺 (逗子市) 法性寺 庫裏 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺山門 Souce: Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる 法性寺山門お扁額 扁額の両側を支える白猿。日蓮が白猿に救われた場所にあるとされている。 Souce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 法性寺の入口 Souce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 門と法性寺本堂の間の小道 Souce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる このあと200談の石段を上る。 以下は法性寺、日朗菩薩御廟所。 法性寺、日朗菩薩御廟所の記念石碑 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺、日朗菩薩御廟所 正面 Souce: Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる 法性寺、日朗菩薩御廟所 側面 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺、日朗菩薩御廟所 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 歴史 建長5年(1253年)、日蓮は安房国清澄寺より鎌倉入りし、松葉ヶ谷に草庵を構え布教活動を行っていたが、文応元年(1260年)、『立正安国論』を鎌倉幕府五代執権北条時頼へ献じたことをきっかけに、浄土教信者らにより夜間、草庵を襲撃・焼き討ちされた(松葉ヶ谷法難)。 この時、暴徒到着に先立ち、日蓮の前に白猿が現れ、その導きにより山中の岩窟に隠れて難を逃れたとされる。日蓮はこれを山王権現の加護であるとし、弟子たちに報恩を託した。 下って元応2年(1320年)、日蓮の高弟・日朗死去にあたり、遺言により、遺体は朗門の九鳳(九老僧)の一人である弟子の朗慶により松葉ヶ谷の安国論寺で荼毘に付され、かつて日蓮が逃れたと伝えられる岩窟がある御猿畠に葬られた。翌年の元亨元年(1321年)、朗慶によりこの地に建立されたのが法性寺である。 南北朝時代の貞和元年(1345年)には、本圀寺とともに京都に移転、寺領は比企谷妙本寺預かりとなった。京都への移転は勅命によるもので[4]、当初は神光山の地に方四町の境内地を拝領、のち豊臣秀吉の命で京極の地に移転した。延宝3年(1675年)、元禄4年(1691年)の2回にわたり火災に会い、元禄6年(1693年)に現在地へ移転した[5]。 慶長8年(1603年)、両山14世に自証院日詔が就くと旧境内の地に同一の山号・寺号で再興された。江戸時代に著された『新編鎌倉志』には、「御猿畠山 附山王堂跡 法性寺」と題し、以下のような由来が記されている。 相傳フ、日蓮鎌倉ヘ始テ来ル時、此山ノ岩窟ニ居ス。諸人未ダ其人ヲ知事ナシ。賤ミ憎テ一飯ヲモ不送。其時此山ヨリ猿ドモ羣リ来テ畑ニ集リ、食物ヲ營テ日蓮ヘ供ジケル故ニ名クト云フ。其後日蓮猿ドモノ我ヲ養ヒシ事ハ山王ノ御利生ナリトテ、此山ノ南ニ法性寺ヲ建立シ猿畠山ト號ス。今ハ妙本寺ノ末寺ナリ。 — 『新編鎌倉志』[6] 境内 山門 谷下にあり、神奈川県道205号線およびJR横須賀線に面する。「猿畠山」の山号が書かれた扁額左右には、日蓮を導いたとされる白猿があしらわれている。 また、山門前方には1921年(大正10年)に建てられた石柱があり、正面に「日蓮大聖人焼打御避難之霊跡」、側面に「至孝第一日朗聖人御墳墓之霊場」と刻まれている。 祖師堂 境内山上にある。現祖師堂は1924年(大正13年)建立。法華経勧持品第十三を読経する日蓮の等身大坐像が安置されている。 日朗菩薩御廟所 祖師堂前、向かって右手にある四面堂で、堂内に石塔を納める。 御避難の法窟 祖師堂向かって左側の岩山に、祖師堂に面して開いた石窟(やぐら)があり、これが、松葉ヶ谷法難の際に日蓮が避難した場所であると伝えられている。 法窟内には、題目が刻まれた石塔(五輪塔)が安置されている。この五輪塔には、観応3年(1352年)の日朗三十三回忌に、九老僧の一人、日輪が諷誦文を手向けたと伝えられる。なお、山を越えた松葉ヶ谷の安国論寺境内にも、同法難時に避難したとする「南面窟」と呼ばれる小洞窟がある。 日朗慶聖人供養廟塔 祖師堂の脇を通り、日蓮避難の法窟がある岩山の裏にある小石塔。江戸期、西国より伝わったとされる五輪塔だが、石質が柔らかく、かなり風化が進んでいる。 歴代住職 代 日号 在位 享年・備考 開山 日蓮 弘安5年10月13日(1282年) 61歳 2世 日朗 元応2年1月21 法性寺、祖師堂(奥之院) 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺、祖師堂(奥之院) 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺、祖師堂(奥之院) 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺、祖師堂(奥之院)内部 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺祖師堂左側の洞窟 Souce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 法性寺祖師堂左側の洞窟 撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S9900 2022-2-18 法性寺の白猿像 法性寺は、日蓮を救った猿とのつながりを非常に誇りに思っている Souce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 山王権現祠へつづく |