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浄妙寺 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-2-18
禅寺総合ページ 法性寺 山王権現祠 妙光寺 岩殿寺 昼食 杉本寺 浄妙寺 長勝寺 実相寺 光明寺 アクセス 浄妙寺(臨済宗、禅寺と茶室) 鎌倉市浄明寺3丁目8−31 今回、私達は杉本寺を参拝、視察した後、すぐ近くにある浄妙寺に車で向かった。 鎌倉駅から京急バス金沢八景、太刀洗方面行きに乗車し「浄明寺」で下車。徒歩数分。拝観は有料。仏像の拝観は要予約。 徒歩の場合は、杉本寺から約6分、横須賀線(JR東日本)鎌倉駅から徒歩約30分である。横須賀・総武快速線のほか、湘南新宿ライン(宇都宮・横須賀系統)も発着する。 出典:グーグルマップ 浄妙寺の山門前の池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-2-18 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 概要 浄妙寺(じょうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市浄明寺にある臨済宗建長寺派の仏教寺院。正式には稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさん じょうみょうこうりぜんじ)と号する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音の第九番に位置する。 ※注:鎌倉五山(かまくらござん)とは 臨済宗の寺院の寺格であり鎌倉にある五つの禅宗 の寺院。建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺 の5つを鎌倉五山といっている) 鎌倉市の東部、市の中心部から横浜市の金沢に抜ける金沢街道沿いにある。境内は南に開けた谷の中央に位置し、西には杉本寺と杉本城址、東は胡桃ヶ谷(くるみがやつ)があり、南に衣張山を望む。 鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残している。 寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔がある。 沿革 足利義兼による文治4年(1188年)の創建と伝えられる。初めは極楽寺という密教(真言宗)の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257〜1259年頃)とみられる。 ・文治4年(1188年):極楽寺創建。開山は退耕行勇、開基は足利義兼。 ・建久9年(1198年):足利義兼は秘蔵の弘法大師筆の荒神・不動の二軸を刻ませた。 ・正治元年(1199年):源頼朝・足利義兼が没し、北条政子は前年作成の荒神・不動を寺門の右の小高いしげみの「本寂堂」に安置したという。 ・建暦2年(1212年):源実朝は足利義氏に命じて造営を加え、母北条政子の白檀の弥陀の立像と新造の釈迦像を安置したという。 ・正嘉元年(1257年)~正応元年(1288年)ごろ:蘭渓道隆(建長寺開山)の弟子の月峰了然が住持となって禅宗の寺院となり、「浄妙寺」に改名した。 ・正平6年(1351年)浄妙寺境内の延福寺に足利直義が幽閉される。翌年2月26日急死。 ・延文2年(1357年):火災。 ・延文3年(1358年):鎌倉五山第五位の寺とされる。ただし、この時点では未確定。 ・至徳3年(1386年)7月10日:足利義満は鎌倉五山第五位の位次を決定した。寺は最盛期を迎え、塔頭23院を有した。後、火災などで衰微する。 ・応永31年(1424年):火災。 ・永享10年(1438年):火災。但し、永享の乱の際に三浦時高が付近に火を放ったことによる推定という。 ・文明18年(1486年):尭恵は『北国紀行』に「浄妙寺に入りて見るに、台あれて春の草にかたぶき、ひはだ朽ちて苔のみどりにひとし」と記している。 ・宝暦6年(1756年):仏殿を再建する。 境内 本堂 - 寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。平面は方丈形式の六間取りとする。江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられている。[3] 喜泉庵 - 天正年間(1573 - 1591年)に建立された茶室喜泉庵を復興したもの。枯山水庭園があり、有料で茶菓が供される。 稲荷山 - 寺の裏山で、藤原鎌足が子孫のために「霊鎌」を埋めた地とされ、これが「鎌倉」の地名由来となったという伝承がある。複数ある「鎌倉」の地名由来伝承の一つである。鎌足稲荷神社の小祠がある。 宝篋印塔 - 本堂裏の墓地に足利貞氏の墓と伝える明徳三年(1392年)銘の宝篋印塔がある。基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。 境内は国の史跡に指定されている(1966年11月2日指定)。境内は梅、つばき、ぼたん、サルスベリ、いちょう、紅葉などの名所として知られる。 周辺 室町時代には浄妙寺の東側に足利公方屋敷が構えられ、足利尊氏やその子孫が居住していた。境内に隣接して大休寺跡と延福寺跡がある。大休寺は足利直義(尊氏の弟)の菩提所、延福寺は足利高義(尊氏の異母兄)が母の追善のために建てた寺である。 寺の西側の熊野神社付近が大休寺跡、裏山のカフェレストラン付近が延福寺跡である。 文化財 木造退耕行勇坐像(国の重要文化財) - 行勇唯一の肖像で、鎌倉時代の頂相彫刻の優品。像高66cm。切れ長の目、頬骨が突き出た容貌は個性的であるが、衣の彫刻は定型化し、腕や足の存在感は希薄で、行勇没後十数年後に現在は失われた紙形か肖像画を元に制作されたと推測される[4]。 木造藤原鎌足像 木造淡島明神像 紙本墨画浄妙寺境内図 - 江戸後期の想像図とされる。外門、惣門、三門、仏殿、法堂、方丈、禅堂、経堂、鐘楼などが描かれている。 浄妙寺 本堂全景 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 浄妙寺 本堂前の池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 庭園から見た本堂 撮影:池田こみち iPhone 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 寒梅 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 寒椿 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 寒椿の蕾 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 寒梅 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 節分草 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 ・節分草 セツブンソウは関東地方以西の主に太平洋側に多く見られ、古くより節分のころに花が咲くのでこの名前があります。石灰質の土壌を好み、晩秋から冬の間に、地中深くにある黒褐色の塊茎から白い芽を伸ばし始めます。そして、冬の終わりから早春のころに、白い花弁のような萼片を5枚開きます。葉は深く裂けた灰緑色で、晩春には地上部を枯らして休眠します。ときに大群落を形成し、一面に白い花を咲かせる「春植物」ですが、近年は開発や盗掘のために激減し、各地で保護が始まっています https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-100 庭園 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 茶室 喜泉庵 Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる お天気がよく、浄妙寺は、庭園を散策する人やお茶処で抹茶とお菓子を楽しむ人、また、調度見頃を迎えた「節分草」を鑑賞する人などで賑わっていた。 枯山水の庭園 Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 庭園 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 足利貞氏墓塔 Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 以下は入場時に浄妙寺から頂いたパンフレット。 長勝寺へつづく |