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上州吾妻の城跡

鎌原城跡

青山貞一   池田こみち   鷹取敦

September 25 2015
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上州吾妻の城跡 2015-9-20
◆上州吾妻の城跡: 鎌原城跡 ◆上州吾妻の城跡: 岩櫃城跡@
◆上州吾妻の城跡: 羽根尾城跡 ◆上州吾妻の城跡: 岩櫃城跡A
◆上州吾妻の城跡: 浅間酒造観光センター ◆上州吾妻の城跡: 岩櫃神社
◆上州吾妻の城跡: 岩櫃山麓・潜龍院跡 ◆上州吾妻の城跡: 吾妻神社

 下の地図は、2015年10月10日、長野県長野市松代にある真田宝物殿という資料館の壁にあった地図に、主要な城跡の名称を入れたものです。時代状況は鎌倉、室町時代そして戦国時代を中心とし江戸時代の一国一城令にまでわたっています。

一国一城令

 一国一城令は慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令です。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令しましたが、法令の立案者は大御所徳川家康でした。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもあります)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残し、その他の城はすべて廃城にするというものです。

出典:Wikipedia

 なお、以下は山城についての解説です。今回、紹介する群馬県吾妻の鎌原城、羽根尾城、岩櫃城はいずれも山城ですので、最初に説明しておきましょう。

◆山城(やまじろ)

 山城は険阻な山を利用して築かれた城です。日本においては、江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つとなっています。

 高地は軍事的防御に有利であり、山に城郭を築く行為は場所と時代を問わず普遍的に行われています。山城とは呼びませんが、近代の旅順要塞やマジノ要塞も山に築かれた要塞群であって、機能は似ています。

 城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たしていますが、住むには不便であり、守るべき対象である人の居住地から離れています。したがって、山城は防御専用として造られることが多かったようです。

 城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようです。

出典:Wikipedia

 地図には大きな字で左側(西側)に上田城、そして海津城(松代城)があり右側(東側)に沼田城があります。上田城は長野県(信州上田藩)、松代城は長野県(信州松代藩)、そして沼田城は群馬県(上州、沼田藩)にあります。


長野市松代にある真田宝物殿にあった地図の上に主要城を明記

 私達、環境総合研究所(東京都目黒区)の保養所は上の地図の丁度真ん中、吾妻地域の鎌原城の南にあります。この地は、江戸時代の天明三年の浅間山大噴火により地域全体が壊滅的な影響、被害を受けた場所ですが、著名な寺院や神社はもとより、小さな寺院や神社もほとんど存在していません。そんなこともあり、保養所をもって10年以上、吾妻地域には城はないものと思っていました。

 ところが、ひょんなことから保養所のそばに鎌原城跡があることを知り、2015年9月に、青山、池田、鷹取の3人で探索に出かけてみました。場所は、鬼押しハイウェーの嬬恋郷土資料館前を左折、少し行ったところに車を置き、1000mほど北に向かってキャベツ畑を歩いた場所です。

 下はグーグルマップの衛星地図上に場所を示したものです。
 



 鬼押しハイウェーを嬬恋郷土資料館の前で細い農道に入り、少し行ったところに自動車を駐車し、そこから徒歩でキャベツ畑の中を約1000m程北側に歩きます。


撮影:鷹取敦 Nikon Coolpix S9900  2015-9-21

 下はキャベツ畑を左側に見ながら北に歩いている写真です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-21

 高圧電線の鉄塔がひとつの目安です。先に鉄塔が見えます。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 キャベツ畑の先に鉄塔が見えてきました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9

 鉄塔の近くに来ました。もう少しです。石碑はいずれも農道に右側の林の中にあります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 林に入りかけるところです。


撮影:鷹取敦 Nikon Coolpix S9900  2015-9-21

 もう少し先に行くと史蹟の標識があります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 さらに鎌原城三の丸の標識があります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 そのあと、林の中に六文銭の紋と「霊城」という石碑があります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 石碑前の青山です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-21

 下は石碑前の池田と鷹取です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 鎌原城趾の解説


撮影:鷹取敦 Nikon Coolpix S9900  2015-9-21

 下は嬬恋村教育委員会による鎌原城趾の概要です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9

 下は「上信古城探訪」から転載した鎌原城の時代背景と推移です。

◆鎌原城の時代背景と推移

 鎌原城は、吾妻川と通称うしろの沢に挟まれた尾根の先端部に築かれた城で、応永4年(1397)に海野一族の鎌原氏によって築かれたのが始まりとされています。

 鎌原氏は、鎌倉時代には三原庄を支配し、室町時代初期には三原庄の地頭となり、西吾妻一の豪族となります。幸重の時(ただし年代でいうと幸政のころ)に山内上杉氏が平井城に入り関東管領になるとその配下となります。

 天文20年(1551)に上杉憲政が北条氏によって平井城を追われ越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ると、上州一帯は大大名の空白地帯となり小豪族が乱立。鎌原氏を初めとする小豪族は、吾妻最大の勢力を持っていた岩櫃城の斉藤氏に従います。

 永禄3年(1560)、鎌原幸重・重澄親子は、同じ海野一族の真田幸隆の紹介で信玄に謁見し、その麾下となり、鎌原氏は武田氏を後ろ盾として斉藤憲広と抗争を繰り返します。永禄5年(1562)に一時斉藤氏麾下の羽尾氏に鎌原城を奪われ、信濃へ退去しますが、武田氏と真田氏の支援を受けて鎌原城を奪還。その後、幸重は真田氏に属して斉藤憲広を吾妻から追い、岩櫃城代に任じられました。

 天正10年(1582)には嫡男幸澄が長篠の合戦で戦死。武田氏が滅亡すると、後を継いだ重春は真田昌幸に従い、真田信幸が沼田城に入ると、信幸に従います。重春の息子重宗は沼田藩家老となりますが、天和元年(1681)に真田信利が改易となると、鎌原氏は松代真田氏に出仕しました。また、天領となった西吾妻の大笹の関守を明治の廃関まで務めています。

出典:上信古城探訪 http://kojou.sakura.ne.jp/2009/02/post_16.html

 なお、鎌原幸重は戦国時代の武将で甲斐武田氏の家臣です。そして真田幸隆の弟・鎌原幸定の子・宮内少輔幸重の子でもあります。

 鎌原幸重は真田家の家臣ではなく、甲斐武田家の家臣として仕え、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死しました。

 なお、鎌原氏の詳細については以下をご覧ください。
 ※鎌原氏、六文銭(滋野氏流海野氏族)

 一角に下の写真のような立派なパゴダのような石碑がありました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-21


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21

 下は城があった台地の北側の先端です。標高が890mほどあるので見晴らしはすばらしいです。


撮影:鷹取敦 Nikon Coolpix S9900  2015-9-21

 下は鎌原城があった台地の先頭部分です。後述するようにこの辺の標高は890mもあり、見晴らしも上の写真のように良いので、テレビや携帯(スマホ)の無人の中継所がありました。下はそれらの写真です。


テレビや携帯(スマホ)の無人の中継所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-21


◆現地調査と解析に基づく鎌原城の輪郭

 下は想定される鎌原城周辺の地形です。最後標高は約890m、吾妻川の西窪は約770mで120mもの標高差があり、自然の要塞となっていたものと思われます。


想定される鎌原城周辺の地形  
イメージ図:青山貞一

 下はヤフー地図による標高の確認です。城の南から北、さらに崖下の西窪の各点の標高をプロットしています。


出典:ヤフー地図


出典:ヤフー地図

 なお、下の写真は西窪から鎌原城があった崖側を写した写真です。高さは約120mあります。

 実はこの西窪にはスーパーマーケットがあり、北軽井沢の別荘に行く度に食材をそのスーパーで購入しています。下の写真は国道144号線沿いのスーパー前で撮影した断崖です。軌道はJR吾妻線です。


西窪地区から断崖を望む
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月

 下は西窪のもう少し離れた場所から撮影した断崖です。私達はこの景観をトルコのカッパドキアに似ていることから西窪のカッパドキアと呼んでいました。

 実はその上に鎌原城があったことになります。


西窪地区から断崖を望む
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月


つづく