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<パノラマライン>の両側には日本随一の嬬恋のキャベツ畑が続き、浅間山系、四阿山系のすばらしい自然景観、それに沿道には歴史的文化的に由緒ある場所が散在している。 ここでは、<門貝>を紹介したい。 紹介する門貝地区は、パノラマライン北ルートの真ん中より右(東)側にあり、万座川と交差する大きな橋梁「くまの大橋」の南側を指す。「くまの大橋」の標高は約1000mであり、その下を万座川が流れている。 パノラマライン北ルート 門貝北の「くまの大橋」 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月17日 万座川については、現在、私たちが調査研究を進めている湯川(草津町)、白砂川(中之条町六合地区)の水質に近似した特性、すなわちこの地域特有の強酸性で重金属が多く含まれた水など、別の観点から大いに関心がある。 また、この「くまの大橋」の北側には、下の写真にあるように、「万座川第2ダム」がある。砂防ダムにしてかなり大型のダムである。ただ、どう見てもこの万座川第2ダムでは、白根水系のように、石灰による強酸性水の中和処理はしていないようだ。 となれば、万座川では下流に至るまでかなりpHが低いのではないかと推察できる。その河川水は西窪地区でくだんの吾妻川上流に合流している。 パノラマライン北ルート 「くまの大橋」から見た万座川第2ダム 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月17日 ところで、門外地域に行くためには、パノラマラインの「くまの大橋」を降り南側の林道を行くか、それとも、吾妻川の国道144号線の大前の少し手前の<西窪>地区から細い一般道(林道)をひたすら北に向かって登って行くことになる。 下の標識は、「くまの大橋」の端にあり、この矢印に沿って橋を下り林道沿いに南に向かうと門貝集落に到着する。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 次に、嬬恋村の<西窪>から<くまの大橋>に北上するルートについて述べる。下の地図の赤矢(→)の方向である。 嬬恋村の門貝地区 国道144号線を鳥居峠の方に少し行くと、大前の少し手前に<西窪>地区がある。国道沿いに門貝方面の道路標識があるので、そこで右折するとすぐに下の写真にある西窪水力発電所が見える。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 その後、下の写真にあるように万座川に沿って幅員5m程度でセンターラインのない林道のような道を北上する。切り立っており、水質調査などで林道から万座川に下りるのは難しそうだ。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 さらに北上すると下の写真のように川の石や砂が茶色となっているのが見える。これは下流でも同じだが、より茶色が鮮やかになっている。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月21日 下は門貝集落近くの万座川。川原へはさらにV字が鋭くなり、木々が茂っていてアクセスは難しそうだ。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 そして門貝集落に到着。門貝集落は中山間地の谷あいにひっそりと存在している。農地らしい農地もないようだ。また林業らしい林業もないようだ。一体どうやって生計を立てているのだろうかと気になる? 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 下はグーグルアースで見た<門貝>です。自由に動かせます! クリックすることで地形図、普通の地図、衛星画像なども見れます。お試しください! 大きな地図で見る
下の地図を見ると門貝農村公園とか活性化施設門貝コミュニィテーセンターなどがある。さらに門貝農業落排水処理施設などが出てくるので、万座川のV字渓谷そいの傾斜地に畑などを耕作しているのであろうか? またその昔は奥秩父、赤岩、上田などのように養蚕が行われていたのではないかと勝手に推察する。 とはいえ、私が長野県で見てきた中山間地に比べると「山間地及びその周辺の地域その他の地勢等の地理的条件が悪く、農業の生産条件が不利な地域」という中山間地の定義にあって、一段と厳しい条件のような気がする。 門貝集落 実は門貝集落を過ぎた林道沿いに熊野神社があるが、由緒あるこの神社について後述する。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 神社を過ぎさらに北上するとパノラマラインの大きな橋、「くまの大橋」にぶつかる。くまの大橋のくまは、まさに熊野神社からとっているものと思われる。下の写真はその「くまの大橋」から熊野神社、門貝方面を撮影したものである。 写真からも厳しい中山間地の実態が伝わってくる。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月16日 他方、この門貝地区は、江戸時代、上州(群馬)と信州(長野)を繋ぐ重要な北部ルートであったという、初めて接した情報だ。次にこれについて検証する。 つづく |