真夏の炎天下となった8月21日、私たちは再度、パノラマラインの北ルートを西の古永井地区、田代から東端の県道59号線までを走行した。
田代地区を抜けるとパノラマラインは干俣地区を通る。下の写真は干俣川。地図を見るとこの干俣川も万座川同様、吾妻川に注いでいる。下の写真を見ると水質調査ができそうなので次回の調査してみたい。
パノラマライン北ルート 干俣川
パノラマライン北ルート 干俣地区
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月20日
実は<干俣>地区に入る前に<上の貝>という集落を通る。門貝とともに<貝>がつく珍しい地名であるが、一見したところ<上の貝>には遺跡や史跡はなさそうだ。
パノラマラインが国道112号線を渡ってすぐの干俣地区の沿道には<円通殿>という小さな寺が干俣小学校の隣にあったので、左折し立ち寄る。後で調べたが、いずれの地図にも干俣小学校は掲載されているもののその隣にある円通殿はまったく掲載されていなかった。
下の地図にも記載されていなかったので、ブルーの字で書き込んだ。パノラマラインを左折し小学校の校庭沿いにグルーと進むと円通殿にでる。
干俣の円通殿
パノラマラインを東に向け走っていると、下の嬬恋村指定文化財 円通殿 150mという標識、看板が目に入ってくる。この看板に沿って左折する。
この干俣の円通殿(観音堂)は、同じ嬬恋村にある三原地区の観音札所の34番目となっていた。地図にも掲載されていない小さな観音堂だが、今でいうところの人里離れた地形的、気候的に厳しい中山間地の集落にあって、観音堂は欧州の教会のような役目を果たしていたものと思われる。精神文化、心のよりどころである。
干俣の円通殿 写真の右側に干俣小学校がある
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月20日
境内はほんの少しだが、熊野神社や三原神社同様、入り口には二つの灯籠が立っていた。
干俣の円通殿
撮影:池田こみち、Nikon CoolPix S10, 2010年8月20日
円通殿は非常に小さな観音堂だが、その構造、技法、デザインなどをみると、円通殿という名称とともに、禅宗の唐様式の影響を色濃く受けたものとされている。このような奥深い山里にも禅宗風の文化が開花していたことを示すとともに、この円通殿が地域における信仰と文化の拠点であったことを物語っている。
■禅宗様
日本の伝統的な寺院建築の様式の一つ。和様・大仏様に対する言葉。飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降、日本化した建築様式を和様と呼ぶ。平安時代後期になると、平清盛の大輪田泊対外開港など中国(宋)との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式で、大仏様と呼ぶ。その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ、禅宗様と呼ぶ。
大工
大工の伝承では、寺院建築に和様・天竺様・唐様という区別が行われ、明治時代以降の建築史でも使用してきた。第二次世界大戦後、建築史家・太田博太郎が「天竺様ではインドの建築様式と誤解される。大仏殿の復興に使われたので大仏様と呼ぶべき」「唐様は禅宗寺院に使われたので、禅宗様と呼ぶべき」と提唱し、現在の建築史では一般的に和様・大仏様・禅宗様、と使われている。歴史教科書などでは、天竺様・唐様という呼び方も使われている。
構造・意匠の特徴
・構造的には、貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している
・柱の上部同士をつなぐ頭貫の上に水平材(台輪)を置く
・柱の上端をすぼませる(ちまきという)
・柱の下に礎盤を置く(そろばんの玉を大きくしたような形の部材)
・貫の先端(木鼻)には繰り型といわれる装飾を付けている
・上部に複雑な曲線の付いた花頭窓がある
・扇垂木
・海老虹梁
・詰組
・太瓶束
など、禅宗様の建築は畳を敷かず、土間に平瓦を敷き詰める。
出典:Wikipedia |
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月20日
干俣の円通殿 本尊は薬師如来とされている
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月20日
■花頭窓
主に、寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓である。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。また、石山寺の「源氏の間」に見られることより通称「源氏窓」ともいう。
南禅寺(京都)の花頭窓
元は、中国から伝来したもので、禅宗様の窓として使われていたが、安土桃山時代頃にそのデザイン性から、禅宗以外の仏教寺院でもまた、仏教建築ではない神社や天守などの城郭建築、書院造の邸宅に使われた例もある。富士火灯や琴柱火灯、山道火灯など多様な形のものが造り出されてきている。また、仏教以外にもイスラム教やキリスト教の宗教建築にも同じように上枠を装飾的な開口としたものを見ることができる。
古いものは、円覚寺舎利殿(15世紀前半)に見られるもののように上枠以外立枠・下枠は直線的であるが、時代が下がるにつれ、慈照寺銀閣(1489年)や松江城天守(1607年)に見られるもののように立枠が上から下にかけて曲線的かつ末広がりに造られるようになった。
また、西本願寺書院対面所(1632年)に見られるもののように下も上枠と同じように造る場合もある。比較的新しい末広形のものは従来の末広形のものより曲線的かつ広がりは大きくなり、また、姫路城小天守(1601年)に見られるもののように飾り金具を付けるとさらに派手になる。その一方、建物を飾る窓としての気品を損ねた印象となり美的評価は低くなっている。
出典:Wikipedia |
干俣の円通殿にあったお地蔵様
撮影:池田こみち、Nikon CoolPix S10, 2010年8月20日
干俣の円通殿にあったかわいらしい道祖神
撮影:池田こみち、Nikon CoolPix S10, 2010年8月20日
■道祖神
路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。
全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多い。平安時代にはすでに「道祖」という言葉が書物に出てきているが、松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。
元々は中国の神、朝鮮半島のチャンスン信仰にも由来するとされるが、はっきりとはしない。日本に伝来してからは、初期は百太夫信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神と、その妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。このため道祖神は、古代から近世に至るまで時代によって様々な信仰、宗教と融合する。
道祖神の「祖」の漢字のつくりの「且」は、甲骨文字、金文体上では男根を表している。これに呼応するように、文字型道祖神では「道」の文字が女性器の形をしているものもある。
各地で様々な呼び名が存在する。道陸神、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では仁王さんの名で呼ばれる。
出典:Wikipedia
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私たちは<円通殿>を後に、パノラマラインをさらに東に向かって走る。 途中、門貝の「くまの大橋」を通過しさらに東に行く。周辺の風景は、先の干俣地区の風景とほとんどかわらない。
パノラマライン北ルート 上の貝地区 高原の丘近く
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
この後、パノラマラインは万座ハイウェーと立体交差する(下の写真)。
パノラマラインと万座ハイウェーの立体交差。上が万座ハイウェー
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
万座ハイウェーと交差した後のパノラマライン周辺の景観は以下の写真の通りでなかなかすばらしいだ。
パノラマライン北ルート 門貝北から干俣へ
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
パノラマライン北ルートは最終的に県道59号線の赤川との交差点(橋)でT字路となり終了する。小さな橋の下を流れる川は<赤川>である。この赤川の源流は標高2000mを超える本白根山にあり、その近くには「石津硫黄鉱山跡」がある。
パノラマライン北ルートの終点地点
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
つづく |