自然の中の日本の造形美 日光山・輪王寺 2. 歴史 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda August 19 2016 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁
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徳川家の紋章 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-12 ◆輪王寺の歴史 ・創建 輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されていますが、当時の歴史書にそのような記録は見られていません。 勝道上人像 出典:輪王寺公式Web 輪王寺の寺伝によれば、当寺の開創の様子は以下のとおりです。 天平神護2年(766年)、勝道と弟子の一行は、霊山である日光山の麓にたどりつきましたが、大谷川(だいやがわ)の激流が彼らの行く手をはばみ、向こう岸へ渡ることができずに困っていました。 そこへ、首から髑髏(どくろ)を下げた異様な姿の神が現われ「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である」と名乗りました。深沙大王は2匹の大蛇を出現させると、それらの蛇はこちら岸と向こう岸を結ぶ橋となり、勝道ら一行は無事対岸へ渡ることができたといいます。 現在、日光観光のシンボルでもある「神橋」(しんきょう)は「山菅蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれ、その伝承の場所に架かっています。 深沙大王は「深沙大将」とも呼ばれ、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神であるとされており、神橋の北岸には今も深沙大王の祠が建っています。「二匹の大蛇」の話は実話ではなく伝説ですが、この伝説が日光山が古くから山岳信仰の聖地であったこと、日光山が近付きがたい場所であったことを投影しているものと推察されます。 勝道は、大谷川の対岸に聖地を見付け、千手観音を安置する一寺を建てました。紫の雲たなびく土地であったので、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)と言いましたが、後に「四本龍寺」(しほんりゅうじ)と改めたといいます。 この四本龍寺が現在の輪王寺ですが、当初は現在の本堂(三仏堂)がある場所から1km以上離れた稲荷川(大谷川支流)の近く(滝尾神社付近)にあったとされています。現在、四本龍寺の旧地には観音堂と三重塔(いずれも国の重要文化財)が建っています。 翌神護景雲元年(767年)、勝道は四本龍寺に隣接する土地に男体山(二荒山)の神を祀りました。これが二荒山神社の始まりとなります。 現在、「本宮神社」と呼ばれている社地がこれに当たります。なお、勝道がこの神を祀ったのは、延暦9年(790年)だとする説もあります。 天応2年(782年)、勝道は日光の神体山である男体山(2,486メートル)の登頂に成功しました。観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んで、この山を二荒山(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになります。これが「日光」の地名の起こりであるといいます。 男体山の山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代から山岳信仰の聖地であったことは確かです。 延暦3年(784年)、勝道は、四本龍寺西方の男体山麓にある湖(中禅寺湖)のほとりに中禅寺を建立しました。これは、冬季の男体山遥拝所として造られたものと言われています。「立木観音」の通称で知られる中禅寺は現存していますが、当初は湖の北岸にあった堂宇が明治時代の山津波で押し流されたため、現在は湖の東岸に移転しています。 ・平安時代 創建以後、平安時代には真言宗宗祖の空海や天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)らの来山が伝えられています。 円仁は嘉祥元年(848年)来山し、三仏堂、常行堂、法華堂を創建したとされており、この頃から輪王寺は天台宗寺院としての歩みを始めます(現存するこれらの堂は、いずれも近世の再建)。「常行堂」「法華堂」という同形同大の堂を二つ並べる形式は天台宗特有のもので、延暦寺や寛永寺にも同名の堂が建てられています。 ・鎌倉時代 仁治年間(1240年から1242年のころ)に、源実朝によって、現在日光東照宮がある場所に本堂が移されました。以後、輪王寺は幕府や関東地方の有力豪族の支援を受けて隆盛しました。男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として祀る信仰は、この頃に定着したようです。 ・戦国時代 輪王寺は戦国時代の間に壬生綱房の謀略によって事実上壬生氏の傘下に入ることになります。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したかどで寺領を没収され、一時衰退しました。 ・江戸時代 近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進みました。 元和3年(1617年)、徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた際、本堂は、現在日光二荒山神社の社務所がある付近に移されました。 正保4年(1647年)、徳川家光によって、大雪で倒壊した本堂が再建され、現在の規模(間口33m、奥行22m、高さ26m)となっています。 承応2年(1653年)には三代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられました。東照宮と異なり仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっています。 明暦元年(1655年)、後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」でした)、後水尾天皇の第三皇子・守澄法親王が入寺しました。 以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称されています。親子による世襲ではありませんが宮家として認識されていました。 寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言います。のちに還俗して北白川宮能久親王となる公現法親王も、輪王寺門跡の出身です。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていました。 東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もあります(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。 ・明治以後 戊辰戦争の後に明治政府によって輪王寺の称号を没収されて、(明治2年(1869年))旧称の「満願寺」に戻されます。 明治4年(1871年)神仏分離令により、政府に迫られて、本堂は現在の場所に移転することとなりました。さらに、追い討ちをかけるように輪王寺宮本坊が焼失しましたが、明治15年(1883年)に栃木県のとりなしによって輪王寺を正式の寺号とすることが許されたのです。
大般涅槃経集解 59巻のうち巻第十一 出典:Wikipedia つづく |