◆徳川 家光(とくがわ いえみつ)
徳川家光は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。二代将軍秀忠の二男(嫡男)です。
母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江です。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいます。
十五人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の三人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみです。
<誕生から将軍就任まで>
慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれます。
徳川家の世継であった父・秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられました。
誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられます。
慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となります。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われています。
慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われています。
これらは家光死後に成立した巷説ですが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられています。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の三人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となります。
元和3年(1617年)には西の丸へ移り、元和4年(1618年)には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られます。
元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官します。
「家光」の諱は金地院崇伝が選定した。崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとあります。
「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となりました。
元和8年(1622年)、鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明が務めました。
元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられました。
同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられます。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下 を受け、正二位内大臣となります。
後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面しています。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移ります。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もありましたが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れをしています。
<一族>
・正室:鷹司孝子(本理院)
・側室:振(自証院)
長女・千代姫(霊仙院) - 徳川光友室
・側室:楽(宝樹院)
長男・徳川家綱 - 四代将軍
・側室:まさ
二男・亀松 - 夭折
・側室:夏(順性院)
三男・徳川綱重 - 甲府藩主
・側室:玉(桂昌院)
四男・徳川綱吉 - 館林藩主 → 五代将軍
・側室:里佐(定光院)
五男・徳川鶴松 - 夭折
・側室:万(永光院)
・側室:琴(芳心院)
成人した三人の男子のうち、長男・家綱が次の四代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主、四男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられ、これを御両典(ごりょうてん)といいました。
御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持ちましたが、藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、綱重の子・綱豊は御浜御殿に居住しました。
御両典を定府としたのは、当初から病弱だった家綱に対する控えの存在としての意味合いを含むものだったと考えられますが、実際その家綱が子をなさずに死ぬと、甲府綱重は早世していたので、五代将軍とたのは綱重の子である甲府綱豊(家宣)でした。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である甲府綱豊(家宣)でした。
<重臣>
寛永15年(1638年)・家光体制成立時
・井伊直孝(大老)
・土井利勝(大老)
・酒井忠勝(大老)
・松平信綱(老中)
・阿部忠秋(老中)
・堀田正盛(老中・側衆。春日局の義理の孫)
・中根正盛(大目付・側衆)
<二世権現>
東照大権現として祀られた祖父の家康を深く尊崇していたとされています。
春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で三歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復したとあります、
以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから三代将軍に就けると叱責した話が記されています。
これらに加え、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父・秀忠よりも祖父・家康の恩を意識していたと考えられています。
寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っています。
晩年、家光はたびたび家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその肖像を何度も描かせています。これらは「(家光)霊夢(の画)像」と総称され、現在16点程確認されています。
身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも
何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康とのつながりの意識の強さとその尊崇ぶりを著すものと見られています。
<人物>
徳川家光肖像 出典:徳川記念財団蔵
家光は微行(お忍び)で市中に出るのを好んだとされています。勝海舟の『氷川清話』には、決してその趣味を改めようとしない家光を懲らしめるため、老中が屈強な男を雇って喧嘩を売らせたという俗話が記されているほどです。
武芸を好み、たびたび御前試合(寛永御前試合や慶安御前試合など)や武芸上覧などを催しています。特に剣術を好み、自身も柳生宗矩に師事し、柳生新陰流の免許を受けています。
家康や秀忠同様に能を好みましたが、風流踊を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせたりと、やや「屈折」した愛好の仕方であったとされています。家光は華美な装いを好み、諸大名に伊達衣装で登城を命じたこともあります。
<財政>
日光東照宮の大規模改築に56万8,000両と銀100貫を投じた。そして数万のお供を従えるため巨大な費用がかかる参詣を三度行っています。
大軍を従えた上洛を三回おこない、京では天皇や諸公卿に献金し町衆に祝儀をばらまき江戸でもした。上洛で100万両以上を費やしたとされています。
家光一代で500万両以上使いましたが、次代の家綱に600万両を残し、各方面に52万両を遺産分けをしました。
家光が死んだ頃には、金銀の産出量が減りはじめたこともあり家康以来の蓄財を浪費し、幕府財政窮乏の端緒を作ったとも言われています。しかし、多額の貨幣が世間に流出したことによって物々交換経済から貨幣経済と移行する一助となりました。
<鎖国と国際関係>
鎖国政策に関しては、宣教師を工作員とした欧州各国の内政干渉と植民地化を予防し、日本の独立主権を保持することが本来の目的であるという、政策面から国の将来を考えて行なったとする肯定的な評価もあります。
これは宣教師を通じた文化的侵略に対抗する意味では、それなりの効果はあったと考えられます。しかし、一方で家光が単に外国嫌いだったとする説もあります。
<評価>
同時代では、大久保忠教は『三河物語』において、少年時代の家光は内気であるが家康の祖父松平清康(家光の高祖父)に通じる、との好意的評価をしています。
家光は幕藩体制の完成者として高く評価されていますが、それは土井利勝、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、中根正盛といった幕閣の重臣によるものであり、家光自身の能力ではなかったという意見もあります。
小説家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった」としてその能力を否定し、名君であったかのような評判は幕閣の宣伝であると見なしています。
<健康状態>
家光は子供の頃から病弱であり、しばしば病床に伏せっていました。家光は病気になると布団を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもありました。
医者たちが意見をすると激しく怒り、処罰される寸前に至ることもあったと言います。山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測しています。
慶安4年(1651年)4月19日に献上品の茶碗を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れました。そして意識が戻ることがないまま、翌4月20日にそのまま薨去しました。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられています。
出典:Wikipedia
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