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身近な自然の中の日本の美

喜多院・仙波東照宮

6.松平大和守家廟所

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


November 26 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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身近な自然の中の日本の美  喜多院(川越市)
@全体概要 D山門、太子堂 H大黒天
A歴史、創建と変遷 E松平大和守家廟所 I仙波東照宮1
B慈恵堂と多宝塔 F五百羅漢 J仙波東照宮2
C鐘楼門と慈眼堂 G紅葉のお庭
歴代徳川将軍家家系 徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間

松平大和守家廟所



出典:川越市
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


◆松平大和守家廟所

 慈恵堂の裏手に、石の柵に囲まれ、大きな五輪塔が並んでいます。

 ここは明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所(びょうしょ)として知られています。

 松平大和守家は、徳川家康公の次男結城秀康(ゆうきひでやす)の子直基(なおもと)を藩祖とします。同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で亡くなった5人の藩主、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)が葬られています


松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所(びょうしょ)の入口、門
出典:川越市


松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所
出典http://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/kitain-byojo/

 喜多院の本堂(慈恵堂)の裏手に、立派な五輪塔や石塔がたち並ぶ一画があります。

 ここは川越藩主をつとめた松平大和守家の墓所。松平大和守家は、明和4年(1866/江戸時代)〜慶応2年(1866/江戸時代)に7人が川越藩主(城主)をつとめました。この7人うち川越で亡くなった5人の墓所となっています。

 墓所内には5人が眠る五輪塔があり、正面の玉垣内に4基、門脇に1基あります。また、この場所は川越市の史跡に指定されています。

松平大和守家の歴代川越藩主(城主)

 松平大和守家は、徳川家康の次男「結城秀康」の五男「直基」を藩祖とする御家門の家柄です。

 7代100年にわたり藩主をつとめ、最大で17万石を領していました。

藩主名 在職年月日 墓石位置
松平朝矩(とものり) 明和4年9月15日 〜 明和5年6月10日 北側の玉垣内、一番右
松平直恒(なおつね) 明和5年7月29日 〜 文化7年1月18日 北側の玉垣内、右から2番目
松平直温(なおのぶ) 文化7年3月14日 〜 文化13年7月23日 北側の玉垣内、右から3番目
松平斉典(なりつね) 文化13年8月27日 〜 嘉永3年1月23日 北側の玉垣内、一番左
松平典則(つねのり) 嘉永3年3月7日 〜 嘉永7年8月13日 なし
松平直侯(なおよし) 嘉永7年8月13日 〜 文久1年8月15日 南側の玉垣内
松平直克(なおかつ) 文久1年12月6日 〜 慶応2年10月 なし

松平 斉典
時代  江戸時代後期
生誕  寛政9年11月2日(1797年12月19日)
死没  嘉永3年1月20日(1850年3月3日)
改名  乙之助、徳之助(幼名)→矩典(初名)→斉典
戒名  興国院殿懿徳協和大居士
墓所  埼玉県川越市小仙波町の喜多院
官位  従四位上、大和守、侍従、左近衛少将
幕府  江戸幕府
藩   武蔵川越藩主
氏族 越前松平家
父母 父:松平直恒、母:菊池氏
養父 松平直温
兄弟 知豊、直温、斉典、朝蟻、可寛
妻   正室:徳(宗義功の娘)
子   典常(長男)、典則(四男)
養子 斉省、鉚(松平斉省正室)

 上記出典:http://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/kitain-byojo/

◆川越藩と徳川・松平家、江戸時代の川越

 徳川家康の次男・松平秀康を祖とし徳川御三家・御三卿に次ぐ御家門の越前松平家が川越藩主となった時代(7代、100年間)に、関東では水戸藩に次ぐ17万石の盛期を迎えた。

 中でも松平斉典は「好学の名君」と呼ばれ、藩儒・保岡嶺南に命じ藩校の博喩堂を開設、保岡嶺南は川越版「日本外史」を刊行した。国学では林述斎の高弟で古事記偽書説で知られる盲目の医師・沼田順義を藩に招いた。

 松平斉典は西大手門に目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れた。経世家として高名な海保青陵は川越城下に生活、川越絹や煙草など特産品開発を指南した。

 川越絹は川越絹平(武士の着る袴地)や川越斜子(晴れ着の羽織地)として知られ、秩父絹や青梅縞とは異なる高級ブランド織物であった。


川越御殿本丸        出典:Wikipedia

川越城(かわごえじょう)
埼玉県川越市にあった日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い


川越城(埼玉県)
本丸御殿
別名  初雁城、霧隠城
城郭構造  平山城
天守構造  なし
築城主  太田道真、道灌父子
築城年  1457年(長禄元年)
主な改修者  大道寺政繁、松平信綱
主な城主  扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏、
堀田氏、 越前松平氏、他
廃城年   1869年(明治2年)頃
遺構 堀・土塁・御殿の一部・移築物3棟
指定文化財  埼玉県有形文化財(本丸御殿)
埼玉県史跡

 江戸で一世を風靡していた狂歌師の元木網や歌人の尾高高雅も川越城下に暮らした。国学者で考古学者の井上淑蔭が活躍したのもこの頃である(井上淑蔭と嵩俊海、権田直助を「埼玉の三学者」という)。

 城下町で武蔵国の商工農の中心地であった川越は、江戸とは川越街道や新河岸川の舟運で結ばれ繁栄を極めた。地方都市にもかかわらず江戸時代に武蔵国で唯一の九斎市が立つほどで、十組仲間という株仲間も組織された。

 川越城下は川越宿として川越街道の第7の宿場でもあった。川越街道は、川越藩主の江戸への参勤交代や荒川東岸の埼玉郡などにも在った川越藩領への連絡でも重要な役割を果たした。また川越児玉往還とも呼ばれ、川越藩領だった上州前橋への重要な道であった。

 江戸時代に物流・経済にとって最重要であったのは物を運べない街道ではなく舟運であり、新河岸川の上流には、川越の外港として川越五河岸が築かれ千住を経て浅草花川戸まで舟が行き交った。
 
 多摩地域からの物資も青梅街道ではなく、新河岸川の舟運を用いて江戸市中に運ばれていたほどの物流の大動脈であった。新河岸川の便利な早舟は「川越夜舟」と呼ばれ、川越街道や中山道から客足を奪った。


出典:Wikipedia


松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所
出典:グーグルマップ・ストリートビュー


松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所の解説
出典:グーグルマップ・ストリートビュー


つづく