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佐久の秩父事件現場を訪れて
青山貞一
掲載日: 2012年12月27日
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


  私は2009年よりずっと現地で調査を続けている秩父事件に関連し、大学で年内授業がすべて終わった12月20日から22日まで、埼玉県秩父市から群馬県上野町さらに長野県小海町まで、池田こみちさんの運転ででかけてきました。

 明治17年11月に起きた秩父事件は、明治維新の戊辰戦争、西南戦争のように有名ではありません。

 しかし、日本近代にあって民衆が政府の圧政に徹底抵抗した、しかもその原点が埼玉から起きたことで私は大いに注目に値すると思っています。

 結果は東京鎮台(明治政府の陸軍の一部)に数日のうちに鎮圧されますが、民衆が中心となった最初の大きな自由民権運動と言えます。

 以下は2009年末に書いた論考です。

◆温故知新:秩父事件〜事件の概要と背景・原因〜
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col15290.htm

◆秩父再訪を敢行して @秩父事件と石間交流学習館訪問
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col18014-1.htm

 幕末の戊辰戦争に象徴される政府に抵抗、対峙した日本の近代史にあって、一見何もないように見える埼玉西部の秩父地方で発生した民衆による政府の圧政に一斉蜂起したのが秩父事件です。その秩父事件に長野(信濃)の佐久から参集した人々の足跡を追って現地に行ってきました。

 長野県南佐久郡小海町東馬流(ひがしまながし)という場所です。


出典:佐久からみた秩父事件

 途中、群馬県上野町で長野に向かう道路3ルートのうち、3ルートが冬期通行止めになっており、秩父から小海まで直線距離で約60kmのところを3時間半近くかかりました。上野町といえば日航機墜落事故があった御巣鷹の尾根が南部にあります。

 長野では私が3年間、非常勤、特別公務員で長野県に環境保全研究所長兼知事政策顧問で在任時に、行きたかったけれど行けなかった人口わずか約1000人の南相木村、北相木村にも足をのばしました。

 長野から秩父事件に参加し、秩父で鎮圧された後、長野に戻り転戦し殲滅された場所(小海町東馬流)には、教育委員会によってたてられた碑がありました。そこには秩父事件暴徒...と書かれていました。

 この時代、国家に異議申し立てる者は、すべて「暴徒」とされたのしょうが、私はヒツジのようにおとなしい日本人ではあっても、理に合わない圧政に対するまれに見る行動が秩父事件に象徴される自由民権運動の端緒そして源流であったと思っています。


長野南佐久郡小海町の東馬流にある秩父事件戦死者の墓の前で
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 2012-12-21

つづく

温故知新・秩父事件 2012.12.20-22
@長野から参戦した人々 C長野から参戦ルート
A佐久における困民軍と政府軍の衝突 D第3のルートで群馬から長野へ
B小海町「東馬流」の古戦場 E南相木村と北相木村