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温故知新:秩父事件
佐久における
困民軍と政府軍の激突

青山貞一・池田こみち
掲載日: 2012年12月26日
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

温故知新・秩父事件 2012.12.20-22
@長野から参戦した人々 C長野から参戦ルート
A佐久における困民軍と政府軍の衝突 D第3のルートで群馬から長野へ
B小海町「東馬流」の古戦場 E南相木村と北相木村

 長野から秩父に行き困民軍に加わり政府軍との戦いに加わった菊池貫平らは、長野県北相木郡の村内屈指の養蚕家であり代言人でもあった。

 その菊池貫平は三沢村の萩原勘次郎から要請を受け、秩父事件蜂起直前の明治17年10月27日、同郷のである井出為吉とともに、秩父に赴くことになる。


菊池寛平

 秩父での困民党の一斉蜂起に際し、菊池は以下の「軍律5カ条」を起草、自ら困民軍の参謀長に就任した。


五ヵ条の軍律 この軍律をつくったのが菊池寛平
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 このとき、菊池は「今日を期して全国ことごとく蜂起し、現在の政府を転覆して国会を開く革命の乱」であると秩父事件を捉えていたという。

 以下は困民党の行動目標である。

 ・高利貸しに賃金の半数放棄、他は据え置き、年賦返済を交渉し、きかないときは家屋破壊または放火す。

 ・軍用金の献納、武器の供出、警察署襲撃

 ・役場考証簿の焼却

 ・参加者の借り出し、一戸一名、
 
 ・食料炊き出し


秩父事件関係略図。出典:椋神社境内の看板
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S

困民軍の長野県佐久における行動

 
以下、史実に基づき、菊池貫平らの足取りを追ってみる。 以下は、その概略である。

明治17年11月1日 阿熊警告で困民隊が警官隊と交戦、清泉寺前で激闘。
             埼玉県下吉田村戸長役場包囲戦、下吉田村椋神社に集合。
             困民軍編成、参謀長菊池寛平、軍律五箇条起草、井
             出為吉軍用金集方。困民軍小鹿野に侵入。

          2日 困民軍大宮に侵入、軍役所占拠。

          3日 困民軍皆野に進出、東京憲兵隊寄居に到着、親鼻渡
              の銃撃戦。

          4日 警官、憲兵隊、秩父周辺諸口の警備体制を固める。
              粥仁田峠の戦闘。午後4時ごろ皆野本陣解体、田代
              栄助ら逃亡。鎮台兵1個中隊児玉町に到着、夜、金
              屋の激戦。菊池寛平らは上吉田村塚越で野営、信州
              進出を決める。

          5日 菊池寛平を総理とする困民軍、山中谷に侵入、神ヶ原
              に宿陣。警官隊、憲兵隊は大宮に向かって一斉に進入。

          6日 困民軍、白井に宿陣。


出典:最後まで戦った菊池貫平ハイビジョンドキュメンタリー


出典:最後まで戦った菊池貫平ハイビジョンドキュメンタリー

          7日 困民軍、十石峠を越え、大日向村竜興寺に宿陣。
              途中、十石峠で捕虜の前川巡査を殺害。

          8日 困民軍、海瀬、高野町、崎田等を経て、東馬流宿陣。
              高崎鎮台兵、夜臼田に到着、岩水で仮眠。夜、困民軍
              大洲、本村、西馬流の黒沢三家打ちこわし、南北相木
             村に駆り出し

         9日 未明、東馬流の戦い、困民軍戦死13人、東馬流の婦
             人犠牲者(死亡)1、警官重傷2人(内1名死亡)、
             憲兵隊海の口に追撃、困民軍解体、野辺山高原に逃走。
             官兵食糧基地を土村に進め、残党、参加者の検挙はじ
             まる。

 以下は困民軍の長野県佐久における行動の詳細である。

明治17年11月4日

信州(長野)進出決定

 秩父近くの皆野本陣を解体後、菊池貫平は総理となり坂本宗作、伊奈野文次郎、島崎嘉四郎らとともに長野県佐久郡小海町の東馬流まで転戦することになった。

 4日深夜、上吉田村塚越部落の河原で会議。菊池貫平を総理とし、信州に進出を決める。副総理を坂本宗作、会津の先生(稲野又治郎)幹部、幹部 として荒井寅吉、小坂橋貞吉、横田周作(以上群馬県)、小林酉蔵、島崎嘉四郎、東京の先生(千本松吉兵衞)ら約150名

明治17年11月5日

 日尾の谷をのぼって、屋久峠から青梨に入り、神々原の学校に宿営

明治17年11月6日


 万場方面には自衛隊が結成されていた。魚尾で対戦し困民軍敗退
 上流の乙母連合五カ所村の自衛隊は防戦できず、困民軍に約70人が参加した。
 白井に宿営、檜原村戸長役場筆生黒沢嘉三郎宅焼き討ち、

明治17年11月7日


 約200〜250人の困民軍は、楢原村(現在の群馬県多野郡上野村)を通り十石峠を越え信濃(現在の長野)に向った。

 海瀬村:刀や棒をもって大落沢に数100人が集まり篝火をたいて官民一体で防備
      書類を封印し民家の土蔵に隠す
 高野町:郡書記鷹野斉がきて、西の反の防備にあたるので至急村民を出してもらうよう指令あり
      警察からの訓令で、飛び道具や刃物を持って撃退してはならないとの通知あり。
  
 困民軍は白井峠の頂上にある浅次郎茶屋で昼食、さらに峠道を下り大日向村平川原(現在の佐久穂町)に入り、竜興寺(現在の佐久穂町)に宿泊した。

明治17年11月8日

 困民軍は四ッ谷竜福寺に本陣を置き、四ッ谷、岩水に炊出しさせ、代金を支払う。

 翌日、大日向村矢沢(現在の佐久穂町)の大落沢から二手に分かれた。本隊は抜井川を渡り海瀬村(現在の佐久穂市)に向かった。もう一隊は千曲川東側の段丘上を海瀬村館村(現在の佐久穂市)を経由し穂積村崎田(現在の佐久穂町)へ向かった。

 本隊は海瀬村四ツ谷の竜福寺(現在の佐久穂町)に本陣を置き、夕方になってから高野町村役場(現在の佐久穂町)に踏み込み、村民70名余りを随行し八千穂村畑村役場(現在の佐久穂町)へ向かった。


困民軍と東京鎮台(政府軍)が交戦した地域図。ただし地図の地名は現在もの
出典:マピオン

 別隊は穂積村崎田付近にて高見沢勝五郎宅を打ち壊し南下した。両隊はそのまま穂積村東馬流(現在の小海町)に入り井出直太郎宅を本陣とした。

 夜になって小海村で打ち壊しを行い、豊里村西馬流の商店を打ち壊し、さらに北相木村や南相木村まで繰り出した。

東馬流に宿営

 井出直太郎宅を本陣とする。畳を上げて両側に重ね、奥の上段は参謀室、中の間、茶の間は幹部室、小民軍総数400人ほど、道路や空き地でたき火する。家宅侵入や強盗はない。

 島屋、万屋では白木綿が売り切れた。白鉢巻が新しい参加者に与えられ、物品の代金は支払われた。



小海町東馬流に残る国民軍本陣跡を背景にした池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

明治17年11月9日

東馬流の血戦
 

 朝方、海瀬村下海瀬(現在の佐久穂町)に打ち壊しに向かった困民軍一隊は、穂積村高岩(現在の筑穂町)を過ぎたところで東京鎮台の高崎分営兵と遭遇、本営に逃げ帰った。

 報告を聞いた困民軍本営は八千穂村天狗岩の前面で東京鎮台への迎撃体勢を整え、午後5時頃千曲川の棚橋の前で南進してきた東京鎮台と銃撃戦を開始。

 前日、平林村岩水(臼田町の飛地)で仮眠をとった東京鎮台は二手に分かれ江口少尉が兵40人、警官30人を率い四ツ谷竜福寺近くの高野町橋を渡り千曲川左岸を南進、吉屋大尉は兵80人、警官50人を率い千曲川右岸を南進した。

、吉屋大尉軍が困民軍と遭遇したことになる。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 江口少尉軍は、千代里村宮下(現在の小海町)から南原台地を登り、困民軍の側面から銃撃。前横から挟撃された困民軍は午後7時頃に敗走した。吉屋大尉軍は東馬流の集落に向かって追撃、困民軍の幹部は逃げ散った。

 小海の東馬流の筆岩道には、死体1、集落入口に死体1、そこから10m程の所に死体1、西方に死体2、庇の下に死体1、集落の中に死体3、外れに死体3、合計13の死体があった。

 その内4人が長野出身人であり、残りは秩父や上州から来た困民軍のものだった。 東馬流住民も流れ弾に当たりひとりが死亡した。これは井出為吉の妻、井出ジャウであった。軍隊側の警官も1人死亡(桑名四角之助警部補)。

 小海東馬流の困民軍本営を占拠した東京鎮台はさらに追撃を進め、小海村土村(長野県小海町)に駐屯所を定め留守兵を残し、海ノ口村(現在の長野県南牧村)へ向け追撃を続けた。

 午後10時頃、困民軍残党100人〜200人余が海尻村(現在の長野県南牧村)へ入り炊き出しと人足を要求したが、直ぐに海ノ口村へ向かってたった。

 その直後、土村からの追撃軍が海尻村へ入り、見張りの困民軍1人を殺害した。そして海尻で軽い食事を取った東京鎮台は、二手に分かれ千曲川を渡り、海ノ口村へ向かって追撃した。海ノ口村に入った困民軍は食事、人足を要求し野辺山原(現在の長野県南牧村)へ向かったが、海ノ口村の戸長の誘導により回り込んだ東京鎮台に囲まれ、困民軍は壊滅した。

明治17年11月10日

 長野県小海村土村に糧食本部が置かれ、大明村(長野県川上村・長野県南牧村)、秋山村(長野県川上村)、梓山村(長野県川上村)、海ノ口村、広瀬村、北相木村、南相木村、川上村(現在いずれも長野県の村)方面の千曲川源流域の残党狩りが行われた。

 南佐久郡の検挙者は、南相木村200人、北相木村184人、大日向村60人、高野町村44人、小海村32人、宿岩村15人、海瀬村10人、穂積村2人であった。


 以下は、佐久からみた秩父事件の小冊子から


◆秩父事件の本質

 秩父事件は明治政府の急速な近代化政策=富国強兵策のなかで、犠牲を強いられた農民が自分たちの生存権を守るために、自らの意志で組織をつくり、要求項目を掲げて立ち上がった権利実現のためのたたかいであった。日本政府はこの農民放棄を最も恐れて、内部大臣山県有朋は、東京、高崎の鎮台兵、東京憲兵隊、埼玉、群馬、長野などの警察軍を繰り出し、陸軍の最新鋭武器である村田銃をはじめて、この秩父事件の戦闘に使用して、徹底的に討伐し、その根を刈り取ってしまおうとしたのである。

◆裁判所もまた容赦なく厳しいものであった

 裁判所はこれを不平の農民、博徒漁師、浮浪の徒が集団をくんで、官吏を殺害し、符号をおそって放火略奪をほしいままにした恐るべき暴徒として処断した。

◆事件の関係者、遺族たちは、
 
 こうした不当の差別感に耐えて、忍んで生きなければらなかった。

◆東馬流諏訪神社の東南隅に埋葬された9人

 の困民軍兵士の墓は草に埋もれて詣でる人の影とてもなかったのである。それから50年後の昭和8年、この戦闘の殊勲者菊池貫平の孫一同の名によって、空しく眠る戦死者の霊を供養するため、その埋葬の地に「秩父暴徒戦死者の墓」の墓碑が建てられた。碑面の文字は困民軍が本陣を置いた井出家の当主井出直太郎氏の筆になるものである。

 事件後90年を経過した頃から「騒動」「暴徒」として恐れられ、かえりみる者もなかったこの墓に、ようやく参拝者、見学者の姿が見えるようになった。

 最近、秩父事件遺族会などの手によって、草の根を分けるようなきめこまかな調査がすすめられているにもかかわらず、ここに眠る9人の困民党戦死者の氏名を明らかにする作業は難航している。「暴徒」に対する恐怖の感情をいかに強く植え付けられていたを思い知らされ、依存の置かれた長い苦しみを推察するにあまりある。

 秩父郡風布村の大野喜十郎という当時20歳の青年らしい困民兵が銃を構えたまま死んでいるのを見て者がいたというが、遺族には告げられず、若い妻も幼い長男を残して、どこかに去ってしまった。

 最近心ある人の手によって東馬流の「秩父事件戦死者の墓」からひと握りの土が秩父に持ち帰られたという。


長野県小海町東馬流にある困民軍戦死者の墓
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 2012-12-21

◆悲しき犠牲者 井出宗作さんの妻ジャウさん(30歳)

 の慰霊碑は、事件後融資総代井出喜平死ら親類縁者や土地の有志者によってつくられた。小海線馬流駅の東方山腹の石造慰霊碑の前に立てば、かつての古戦場が眼前にひらけ、明治27年11月9日の暁天をついてお粉wれた悲惨な戦闘の有様が目に浮かぶ。日本人どうしのこんな戦いが二度とあってはならないのである。


井出宗作さんの妻ジャウさんの慰霊碑

◆百年前、困民党が命をかけて戦った行動の意味を

 今日のwたくしたちが真剣に考えてみることは、これからの日本人の運命にもかかわることであることをわすれてはならない。

原典:佐久からみた秩父事件

 以下は、2013年4月下旬〜5月上旬のGW、北軽井沢別荘から池田の大学時代の友人、平野氏が逝去されたこともあり、平野氏の実家がある山梨県北杜市の清里に行く途中、小海の馬流れ古戦場に再度寄ったときに撮影した井出宗作さんの妻ジャウさんの慰霊碑である。

 
井出宗作さんの妻ジャウさんの慰霊碑
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 2013-4


井出宗作さんの妻ジャウさんの慰霊碑
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 2013-4

 下はジャウさんの慰霊碑の近くにあった慰霊者用の休憩所?。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 2013-4


つづく