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2012年12月21日、私達は秩父の皆野町から困民軍と東京鎮台(国軍)が衝突した古戦場に向かった。 この古戦場は現在の長野県南佐久郡小海町の東馬流(ひがしまながし)である。 秩父からは山や峠を超え谷を通り、まる半日かかった。小海町は、下の表にあるように人口約5000人、人口密度は平方km当たり44人、町内の大部分の標高が1000mを超えている高原である。 長野県南佐久郡「小海町」の概要
これについては、後編に詳細を書いたのでご覧頂きたい。 その古戦場は、長野県の南佐久郡小海町(現在、人口約5000人)の千曲川沿い にある東馬流(ひがしまながれ)という小さな集落にある。 東馬流集落の中央を通るJR小海線は、日本で一番標高が高い地点(1375m)を走る高原列車として有名である。
午前9時前に秩父の皆野を出発した私達は、途中、群馬県の上野町から長野県の小海に通ずる国道299号線および長野県南相木村に通ずる林道の両方が冬期の間、不通となっていたこともあり、時間がかかり最終的に小海町に到着したのは、午後1時過ぎとなった。 長野県南佐久郡の地は、もともと自由民権運動が盛んであり、当時の北関東や信州の農家の主力生産物だった生糸の価格が暴落したため、超高金利の借金が返せなくなった農民らが高利貸しやそれと結託した警察などに対して決起したのが秩父事件である。その動きは、何も秩父だけでなく、福島、群馬、栃木などの北関東や東北南部、また佐久など信州にあっても同様に起こっていた。 明治17年11月1日に開始した秩父での武力衝突は、わずか3日間で終わった。4日目に、秩父の上吉田で菊池寛平を新総理とした残党が長野の佐久に転戦を決定、群馬・埼玉県境にある矢久峠を越えるときは150人、群馬・長野県境にある十石峠を越えるときは300人、到達地である南佐久郡小海町の東馬流で400人に佐久の困民軍はふくれあがったという。 もともと武力的に見れば勝算なき秩父事件で最後まで戦ったのは、菊池寛平であったが、もとより佐久の困民軍は、どちらかといえば自然発生的に農民や民衆が参集したというのが実態であろう。これが明治政府の陸軍である東京鎮台と戦ったとしても、物理的には、はじめから困民軍の敗戦は目に見えていたと思える。 だからといって困民軍を単なる暴徒呼ばわりすべきではないだろう。調べれば調べるほど、明治時代の北関東や長野の農村の産業の主力が養蚕、生糸、織物一辺倒となったのは、官営富岡製糸工場を見るまでもなく、明治政府の肝いりで推進されたものであるからだ。 その産業がフランスなどでの生糸価格暴落後、一気に上記の農家の生計が厳しくなり、高利貸しへの借金返済が困難となった農家、民衆が高利貸しなどと連む警察や役人を標的として暴動を起こすのは、いわば歴史の必然であったと思える。民主主義の創成期でもあり、町議会から帝国議会まで政治もほとんど農民や民衆の生活苦に無力であったこともある。 それが当時の自由民権思想、民権運動と連携したのが秩父事件であり、考えれば考えるほど次元は違うが今の日本の地方の窮状に通ずるものがある。 ところで下は、東馬流集落を南北に走るJR小海線の線路である。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 JR小海線 馬流駅 出典:Wikipedia 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 秩父事件では、困民軍が警察や政府軍と秩父の地で戦い瞬く間に敗北している。 その後、菊池寛平らが同志を率いて、群馬県と長野県の県境にある十石峠をわたり長野の佐久に入り、この小海町の東馬流の地で再度、政府軍と交戦している。困民軍は最終的にこの東馬流の地で国軍に殲滅されている。 私たちは、現在の国道141号線沿いに千曲川の橋を渡り東馬流に入った。ここから古戦場までは満足な道がなく、車も通行できない。車を別の場所に置いて集落のなかにある旧道を通り東馬流の古戦場を訪問した。 下の地図は、東馬流の古戦場一帯を示したものである。 出典:佐久からみた秩父事件 東馬流の位置 出典:グーグルマップにより3次元立体展開 下のグーグルマップの航空写真は、上図にほぼ相当する地域を撮影したものである。写真中、左端を南北に流れる川は千曲川、真ん中を南北に走る道路は国道141号線である。 政府軍は、写真の下側から困民軍に向け村田式銃を浴びせかけたとされている。 衛星画像で見た馬流地区 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下の写真はJR小海線の馬流駅近くの踏切から古戦場方面を見たものである。写真に見える小高い里山の入り口に諏訪神社がある。 線路手前から見た東馬流地区 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 踏切を渡り右に進み、さらに里山方向に登る途中に、困民党参謀長で総理であった菊池寛平の孫たちが戦死者の霊を弔うために秩父事件50周年にあたる昭和8年(1933年)に建立した戦死者の墓がある。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 下は菊池寛平の孫らが建立した佐久での秩父事件戦死者の墓と小海町教育委員会の説明板である。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 墓石をよく見ると、「秩父暴徒戦死者之墓」とある。いくらなんでも、民衆のために戦った人々を暴徒呼ばわりすることはないだろうと思うが、建立された昭和8年当時は、これが精一杯だったのかもしれない。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 この墓石の右側に小海町教育委員が設置した秩父事件戦死者の墓と書かれた解説板があった。設置されたのは1980年である。ここには「暴徒」という言葉はない。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 2012-12-21 |
以下は秩父事件碑参観者の休憩所。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 これは秩父事件百十年顕彰碑である。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21
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