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温故知新:秩父事件
小海町「東馬流」の古戦場

青山貞一・池田こみち
掲載日: 2012年12月26日
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


温故知新・秩父事件 2012.12.20-22
@長野から参戦した人々 C長野から参戦ルート
A佐久における困民軍と政府軍の衝突 D第3のルートで群馬から長野へ
B小海町「東馬流」の古戦場 E南相木村と北相木村

 2012年12月21日、私達は秩父の皆野町から困民軍と東京鎮台(国軍)が衝突した古戦場に向かった。

 この古戦場は現在の長野県南佐久郡小海町の東馬流(ひがしまながし)である。

 秩父からは山や峠を超え谷を通り、まる半日かかった。
小海町は、下の表にあるように人口約5000人、人口密度は平方km当たり44人、町内の大部分の標高が1000mを超えている高原である。

  長野県南佐久郡「小海町」の概要
都道府県 長野県
南佐久郡
面積 114.19km2
(境界未定部分あり)
総人口 5,038
推計人口、2012年10月1日)
人口密度 44.1人/km2
隣接自治体 茅野市南牧村
南相木村北相木村
佐久穂町
町の木 カラマツ
町の花 サラサドウダンツツジ

 これについては、後編に詳細を書いたのでご覧頂きたい。

 その古戦場は、長野県の南佐久郡小海町(現在、人口約5000人)の千曲川沿い
にある東馬流(ひがしまながれ)という小さな集落にある。

 東馬流集落の中央を通るJR小海線は、日本で一番標高が高い地点(1375m)を走る高原列車として有名である。

JR小海線

 八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道である。甲斐小泉 - 海尻間は標高1000mを超える高所を走っており、清里 - 野辺山間には標高1375mのJR鉄道最高地点がある。

 また、野辺山駅は標高1345mのJR線最高駅であるほか、甲斐小泉から松原湖までの9駅がJRの標高の高い駅ベスト9に入っている(10位は近隣の中央本線富士見駅)。
山梨県内で唯一の非電化路線である。

 小淵沢駅から小諸方面の1kmの区間は東日本旅客鉄道八王子支社、甲斐小泉駅 - 小諸駅間は東日本旅客鉄道長野支社が管轄している。ただし、終点である小諸駅はしなの鉄道の管理下に置かれている(共同使用駅のため、JRの駅としては長野支社管内と扱われる)。



出典:Wikipedia

 午前9時前に秩父の皆野を出発した私達は、途中、群馬県の上野町から長野県の小海に通ずる国道299号線および長野県南相木村に通ずる林道の両方が冬期の間、不通となっていたこともあり、時間がかかり最終的に小海町に到着したのは、午後1時過ぎとなった。

 長野県南佐久郡の地は、もともと自由民権運動が盛んであり、当時の北関東や信州の農家の主力生産物だった生糸の価格が暴落したため、超高金利の借金が返せなくなった農民らが高利貸しやそれと結託した警察などに対して決起したのが秩父事件である。その動きは、何も秩父だけでなく、福島、群馬、栃木などの北関東や東北南部、また佐久など信州にあっても同様に起こっていた。

 明治17年11月1日に開始した秩父での武力衝突は、わずか3日間で終わった。4日目に、秩父の上吉田で菊池寛平を新総理とした残党が長野の佐久に転戦を決定、群馬・埼玉県境にある矢久峠を越えるときは150人、群馬・長野県境にある十石峠を越えるときは300人、到達地である南佐久郡小海町の東馬流で400人に佐久の困民軍はふくれあがったという。
 
 もともと武力的に見れば勝算なき秩父事件で最後まで戦ったのは、菊池寛平であったが、もとより佐久の困民軍は、どちらかといえば自然発生的に農民や民衆が参集したというのが実態であろう。これが明治政府の陸軍である東京鎮台と戦ったとしても、物理的には、はじめから困民軍の敗戦は目に見えていたと思える。

 だからといって困民軍を単なる暴徒呼ばわりすべきではないだろう。調べれば調べるほど、明治時代の北関東や長野の農村の産業の主力が養蚕、生糸、織物一辺倒となったのは、官営富岡製糸工場を見るまでもなく、明治政府の肝いりで推進されたものであるからだ。

 その産業がフランスなどでの生糸価格暴落後、一気に上記の農家の生計が厳しくなり、高利貸しへの借金返済が困難となった農家、民衆が高利貸しなどと連む警察や役人を標的として暴動を起こすのは、いわば歴史の必然であったと思える。民主主義の創成期でもあり、町議会から帝国議会まで政治もほとんど農民や民衆の生活苦に無力であったこともある。

 それが当時の自由民権思想、民権運動と連携したのが秩父事件であり、考えれば考えるほど次元は違うが今の日本の地方の窮状に通ずるものがある。


 ところで下は、東馬流集落を南北に走るJR小海線の線路である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21


JR小海線 馬流駅
出典:Wikipedia


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

  秩父事件では、困民軍が警察や政府軍と秩父の地で戦い瞬く間に敗北している。

 その後、菊池寛平らが同志を率いて、群馬県と長野県の県境にある十石峠をわたり長野の佐久に入り、この小海町の東馬流の地で再度、政府軍と交戦している。困民軍は最終的にこの東馬流の地で国軍に殲滅されている。

 私たちは、現在の国道141号線沿いに千曲川の橋を渡り東馬流に入った。ここから古戦場までは満足な道がなく、車も通行できない。車を別の場所に置いて集落のなかにある旧道を通り東馬流の古戦場を訪問した。

 下の地図は、東馬流の古戦場一帯を示したものである。


出典:佐久からみた秩父事件


東馬流の位置
出典:グーグルマップにより3次元立体展開

 下のグーグルマップの航空写真は、上図にほぼ相当する地域を撮影したものである。写真中、左端を南北に流れる川は千曲川、真ん中を南北に走る道路は国道141号線である。

 政府軍は、写真の下側から困民軍に向け村田式銃を浴びせかけたとされている。


衛星画像で見た馬流地区
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 下の写真はJR小海線の馬流駅近くの踏切から古戦場方面を見たものである。写真に見える小高い里山の入り口に諏訪神社がある。


線路手前から見た東馬流地区
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

 踏切を渡り右に進み、さらに里山方向に登る途中に、困民党参謀長で総理であった菊池寛平の孫たちが戦死者の霊を弔うために秩父事件50周年にあたる昭和8年(1933年)に建立した戦死者の墓がある。




撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

 下は菊池寛平の孫らが建立した佐久での秩父事件戦死者の墓と小海町教育委員会の説明板である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21
 
 墓石をよく見ると、「秩父暴徒戦死者之墓」とある。いくらなんでも、民衆のために戦った人々を暴徒呼ばわりすることはないだろうと思うが、建立された昭和8年当時は、これが精一杯だったのかもしれない。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21
 
 この墓石の右側に小海町教育委員が設置した秩父事件戦死者の墓と書かれた解説板があった。設置されたのは1980年である。ここには「暴徒」という言葉はない。



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 2012-12-21

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

 以下は秩父事件碑参観者の休憩所。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

 これは秩父事件百十年顕彰碑である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21


出典:佐久からみた秩父事件

 この秩父事件戦死者の墓のすぐ後ろには、ひっそりと諏訪神社がある。下の写真は諏訪神社。


東馬流の諏訪神社
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21


東馬流の諏訪神社
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21

 またその北側には、秩父事件の佐久戦線で避難中に流れ弾に中って死亡した井出ジャウ(30歳)の供養祠がある。民間の犠牲者である井出ジャウさん(井出宗作の妻)である。


出典:佐久からみた秩父事件
 
 一方、馬流駅近く東馬流の中心に佐久戦線で本陣とされた井出直太郎の屋敷があり、「秩父事件本陣跡」という表札が門扉に掲げられていた。以下の3枚の写真を参照。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-12-21
  
 菊池寛平は東馬流の交戦のあと現地を逃走した。その後の裁判で菊池寛平にも死刑判決があった。

 その後、潜伏中に逮捕され北海道の樺戸刑務所に入るも、1905年、恩赦で出獄し故郷の長野県南佐久郡北相木村に帰郷している。


本陣跡の入り口で配布されてた「佐久からみた秩父事件」のリーフレット


つづく