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かくしてやっとのことで、埼玉県皆野町を出発し、秩父市、小鹿野町そして群馬県神流町、上野村、南牧村を経由し長野県の佐久に入った。 下の標識は、長野県佐久郡佐久穂町のものである。 佐久穂町の標高は何と728mもある。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
佐久郡で最初に行ったのは、南相木村と北相木村である。 理由は、これらの地から秩父まで困民党の戦士として菊池や井出が参加したこともさることながら、私が2003年から数年、長野県に非常勤の特別公務員(長野県環境保全研究所長、長野県知事政策顧問)として赴任していたころ、ぜひ、一度、これらふたつの相木村を訪問してみたいと思っていたからである。 ただし、南相木村には知人の色平医師が赴任してた際に、一度、池田さんとでかけお会いしたことがある。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 |
秩父事件関係略図。出典:椋神社境内の看板
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S
南相木村の位置 出典:南相木村公式Webより
出典:Wikipedia 南相木村町役場 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ◆南相木村の沿革 1565年(永禄8年)信濃国佐久郡相木村が南北に分立し信濃国 佐久郡南相木村となる。 1871年(明治4年)11月 廃藩置県により長野県佐久郡南相木村となる。 1879年(明治12年)1月14日 南佐久郡制施行により長野県 南佐久郡南相木村となる。 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行も合併を伴わずに発足。 2005年(平成17年)440年目を迎える。 2006年(平成18年)4月:南相木ダムの完成による固定資産税増加分 を受けて、平成18年度以降地方交付税の不交付自治体となっている。 国道141号線を左折し、北相木村から南相木村に入ってすぐに、以下の「不戦の像」がある。 南相木村の入り口にある不戦の像 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 南相木村の入り口にある不戦の像建立の説明 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
南相木村をさらに東に行くと沿道沿いに諏訪神社があった。 南相木村の諏訪神社 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 南相木村の諏訪神社 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 南相木村の諏訪神社 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 南相木村の総面積の92%を山林原野が占めていること、それに人口規模だけで見ると、南相木村は限界集落に見えるが、現地でみた村の家々は、いずれもどうしてどうして立派なものばかり、現在の生活の質から見ると、医療サービスなど福祉分野以外の質は非常に高いのではないかと感じた。 村の主力産業は農業分野では、新規就農される人々への積極的な受け入れ、支援があり、新品目や農産加工品の開発にも力を入れているようだ。 人口わずか1000人ちょっとのまちだが、町の財政はどうなっているのか? なぜ、人口わずか1000人の南相木村が財政面で存立するのか不思議に思った。そこで帰京後調べてみたら、南相木村の最上部(1,532m)に東京電力が建設管理する発電用の大規模ダム「南相木ダム」があった。 このダムに関連し、最終的に世界最大規模の280万kwの水力発電が行われるというから、おそらくいわゆる電源立地に伴う各種税収、収入で現在の村の財政は結構、豊かなのかも知れない。 実際、沿革にあるように、平成18年4月、南相木ダムの完成による固定資産税増加分を受け平成18年度以降地方交付税の不交付自治体となっている。 再生可能エネの水力は良いとして、事業者が東京電力であることに不安があるが!
南相木ダム 出典:南相木村公式Web 次に北相木村を訪問した。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 北相木村は南相木村より人口は少なく、人口密度も低い。
出典:Wikipedia 北相木村の町役場 ◆北相木村の沿革 1565年(永禄8年) 信濃国佐久郡相木村が南北に分立し信濃国 佐久郡北相木村となる。 1871年(明治4年)11月 廃藩置県により長野県佐久郡北相木村となる。 1879年(明治12年)1月14日 南佐久郡制施行により長野県 南佐久郡北相木村となる。 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行も合併を伴わず発足。 2005年(平成17年) 440年目を迎える。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 北相木村の公式Webには、以下の秩父事件についての説明があった。 北相木村の秩父との交流は、村内を通る街道(武州街道)によって頻繁な交易が江戸時代以前からあった。事件に参加した何人かは、事件の通路となった十石峠を越え、街道を物資輸送してきたという。 北相木の若者達に秩父方面に友人ができ、武川商人が村の民家の軒さきに腰をおろし種物や雑貨を商うのは何も珍しいことではなかった。秩父事件について連絡がされ、参加要請が党員にもたらされたのは事件前の夏頃からであったとされる。
ところで、東京に帰ってから、南相木村と北相木村について調べてみた。というのも、人口規模で1000人前後とほぼ同じ南北相木村だが、どうみても南相木村の社会資本整備、各種ハコモノ、さらに村民の住宅に至るまで、外見上大きく異なったからだ。 以下は、南相木村と北相木村の各種財政指数の比較である。 一目すれば分かるように、南相木の方が起債制限比率以外全てにわたってかなり上位にあった。 南相木村の各種財政指数
北相木村の各種財政指数
これについては、別途論考を書くが、東京電力が福島第一原発事故を起こした後、たとえどれだけ再生可能エネルギー開発が重視されようが、以下のいわゆる電源三法による各種交付税や固定資産税による税収があろうと、果たして南相木村の財政がいつまでもつか、またこの種の巨大ダムによる巨大水力発電が今後どうなるのか、また自然生態系への影響や立地自治体の経営などにも注目してゆきたい。 ・電源開発促進税法 ・特別会計に関する法律(旧 電源開発促進対策特別会計法) ・発電用施設周辺地域整備法 ところで、北相木村で上野小海線のぶどう峠ルートについて調べてみた。すると下の写真にあるように、長野側からもぶどう峠ルートは、やはり冬期は通行止めであることが分かった。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 本題(秩父事件)から脇にそれたが、次に本題に入る! |