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◆中門・本堂 ◆中門 本堂の入口にある中門は、茅葺きの切妻造りの四脚門です。 中門や総門など、平林寺の茅葺きの建物は県指定文化財となっています。 仏殿と本堂の間の中門 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 仏殿と本堂の間の門 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 中門の奥が本堂です。 ◆本堂 本堂は庫裡とともに慶応3年(1867)12月の火災で焼失しましたが、明治13年(1880)10月に旧堂に近い形で再建されました。 堂内の正面手前には、「金鳳山」「凌霄閣」の扁額と同じく丈山筆による「平林禅寺」の寺号額が掲げられています。正保3年(1646)に松平信綱の実父久綱が死去した際に、追善供養として信綱の弟重綱らが、京都落東にある詩仙堂の石川丈山に揮毫を依頼したものです。 本堂中央奥には松平信輝が元禄4年(1691)に寄進した釈迦如来坐像をはじめ達磨大師坐像・大権菩薩倚像などが壇上に祀られており、正面の戸帳に描かれた家紋は松平伊豆守信綱の家紋「三蝶の内十六葉菊」で、別名「伊豆蝶」とも呼ばれています。 本堂に続く左棟に開山堂があり、開山石室善玖禅師ほか、歴代住持の位牌を安置しているところで、御霊屋とも言います。又、古今の名宰相と謳われた松平信綱の位牌や大河内松平一族の位牌をも安置する、誠に厳粛な一隅です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 平林寺の本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 下は本堂にのぼる池田です。 平林寺の本堂にのぼる池田 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 下は本堂の扁額と内部です。 本堂の扁額と内部 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-5-1
◆聯芳軒・経堂・載溪堂・鐘楼 総門から山門に向かう途中の右側には、天正18年の岩槻落城の時に戦火をのがれたとして知られる聯芳軒があります。 ◆経蔵 山門から仏殿に向かう左側にあるのが経蔵です。 平林寺の経蔵 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 二間四方に外縁を廻らした宝形造りで、寛文12年松平久綱室の宋学院によって寄進されました。野火止移転後に造られたものとしては歴史ある建物で、前任である糸原圓應老師の筆による「経蔵」の扁額を掲げています。 ◆載溪堂 仏殿の右側、経蔵と相対するように建つのが、茅葺き宝形造りの戴渓堂です。明国の僧「独立性易」(どくりゅうしょうえき)の坐像と師の念時仏であった観音像とを安置しています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 戴蹊堂 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15 戴蹊堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 戴蹊堂に参拝する池田 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 下は戴蹊堂の内部を写した写真です。右端が「独立性易」(どくりゅうしょうえき)の坐像、左端が師の念時仏であった観音像です。 戴蹊堂の内部 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15 下の写真はその戴蹊堂です。小振りではありますが、和む茅葺屋根の建物といえます。 戴蹊堂 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15 独立禅師は黄檗派の人でしたが、当時一流の知識人であり、信綱ら識者の庇護を受けました。堂の正面には黙雲禅師の筆による「戴渓堂」の扁額が掲げられています。 戴蹊堂の黙雲禅師の筆による「戴渓堂」の扁額 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15
<載渓堂 後日談> 池田が年末のお墓参りに菩提寺である豊島区内の竜泉山洞雲寺(黄檗宗)行った折り、住職に平林寺を探訪した話をしたところ、平林寺と黄檗宗のつながりについて、いろいろお話しをしてくださったとのこと。 平林寺の載溪堂の中にあった座像が「独立性易」(どくりゅうしょうえき)という臨済宗黄檗派の僧で、医術に長けた人だったというのです。そこで調べたら以下の情報がありました。 ◆独立性易(どくりゅうしょうえき)について 明時代の末期、1596年(万暦24年2月19日)に生まれ、清時代の初めに、日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧であるが、医師としても活躍していた。 承応(じょうおう)2年(1653)、57歳の時に長崎に来航し、翌年来日した隠元隆琦(いんげん-りゅうき:日本の黄檗宗の開祖)の弟子となり、師の布教をたすける。 その後、周防(すおう)(山口県)岩国城主吉川(きっかわ)家の家臣池田正直に治痘法(天然痘の治療法)を教えたとされている。1672年(寛文12年11月6日)死去。77歳。俗名は戴笠。別号に曼公。 医術に長けていたがその他、日本に書法や水墨画、篆刻を伝えた多才な人物といわれている。 さらに伝記を調べると、以下の様な生い立ちが分かりました。 父は敬橋、母は陳氏。泰昌元年3月(1620年)に父が没し翌年の大火で家産を焼失したため、医をもって生業にすることを決意し、儒学と医術を学び明朝に仕官した。名流が集う詩社に参加して、詩や書で名が聞こえていた。宦官の魏忠賢による政治の乱れを嫌い、長水(河南省廬氏県か?)語渓に隠れ医術を業とした。 ---中略 同年、隠元の普門寺行きに記室として随行。続いて万治元年(1658年)隠元が徳川家綱に謁見するための江戸行きにも随うと、漢詩や書、篆刻、水墨画などが高く賞賛された。噂を聞いた老中松平信綱より平林寺に招かれる栄誉にも浴した。 出典はWikipedia、ことばんく、アート用語解説などより ということで、松平信綱公に招かれて平林寺との縁ができたことが分かりました。載溪堂の「載」の字は、独立性易の俗名の「戴笠」から一字をとったものと思われます。堂内には、独立の座像と師の念時仏であった観音像とを安置されている理由が分かりました。 「独立は儒家としてよりも、仏教者、書家、詩賦家、医者として、日中文化交流の貢献に高く評価すべきであろう。※」という評価があるほどの人物であり、今回の平林寺探訪で巡り会えたのはとても有り難いことでした。 ※日中文化交流の伝播と影響 : 徳川初期の独立禅師を中心に (日本文化部会, 第5回国際日本学コンソーシアム : 「日本」とはなにか) http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/51850/1/19_167-174.pdf ■独立性易 出典:Wikipedia 他 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%80%A7%E6%98%93 http://artue.jp/words/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%80%A7%E6%98%93 掛け軸に像があります。 喜多元規筆の独立性易 出典:Wikipedia ◆鐘楼 戴渓堂の右隣に裳風の石垣を高く組んだ鐘楼があります。銅版葺きの入母屋造りで、古くは松平正綱の寄進による四本柱の鐘楼でしたが、享保7年(1722)に焼失、その後幾度か再建されました。釣下げられている梵鐘は、寛延3年(1750)東巌禅師により鋳造された古鐘です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 平林寺の鐘楼 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 平林寺の鐘楼の前の池田 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 静寂の中、上位気に響く梵鐘の音は、雲水の叩く板木の連声とともに、永い歴史を刻む平林寺の伽藍に溶け込み、よく似合います。 平林寺の鐘楼 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1
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