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短訪 平林寺
島原の乱 供養塔

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
May 15 & December 29, 2015
Independent Media E-wave Tokyo

 今年(2015年)の春と先日の2回にわたり視察した埼玉県新座市にある平林寺のブログ(本稿)を書いていたら、平林寺を菩提寺とした松平信綱の霊所、墓所に行く手前に「島原の乱の供養塔」という写真を撮影していることに気づきました。
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 平林寺は松平信綱一族の菩提寺となっていますが、信綱は江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主であり、最終的には老中となり、松平伊豆守信綱の呼称で徳川三代将軍家光に仕えていた聡明そして何でも率先遂行する希有な大名です。
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 ところで「島原の乱の供養塔」(これは後述します)は、江戸時代前期に起きた農民と弾圧されたキリシタンによる領主への一大一揆なのですが、この歴史的一揆を沈めるため江戸幕府は精鋭の指揮官と大勢の部隊を現地(島原、天草)に送り込みます。しかし、天草太郎をリーダーとする一揆軍は強く、幕府軍は多くの犠牲者を出すことになります。
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 そこで江戸幕府が最後の切り札として現地に送り込んだのが、松平伊豆守信綱、すなわち松平信綱だったのです。何と、幕府軍は12800人、一説には20万人以上を送り込んだとあります。一方、一揆軍は天草太郎はじめ37000人でした。
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 この日本の歴史上最大の農民一揆(キリシタン一揆を含め)は、最終的に原城に立て籠もった一揆軍を信綱による兵糧攻めとする案により、一揆軍が敗北し、籠城した37000人は全滅します。一方、江戸幕府軍も実に8000人が死傷しています。
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 以下の写真にある「島原の乱の供養塔」は、松平信綱が関わったこの内戦による両軍の犠牲者を弔う供養塔だったのです。まさか、埼玉県新座市にある平林寺に「島原の乱」の供養塔があること自体不思議だったのですが、これで謎が解けました。


島原の乱 供養塔
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-12-15

 この江戸時代最大の農民一揆の原因は、無能な領主による農民への過大な徴税が根底にあったこと、たまたま島原、天草に隠れキリシタンが多数いたこと、さらに生活に追い詰められた農民=隠れキリシタンも多かったことにあります。にもかかわらず、無能な領主問題を抜きに、キリシタン弾圧が一揆の理由としている資料もあるようですが、それは無能な領主の存在という事実を覆い隠すことになります。
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 松平信綱は下級武士の出ながら、例の野火止用水はじめさまざまな領域、部門で武蔵国の改革それに江戸幕府のいわば行政改革に取り組んでいることが分かりました。
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 私達がこの10年間、継続的に調査している秩父事件は明治初期の農民一揆ですが、島原の乱は江戸初期の農民一揆と言うことで、思わぬところで別の一大農民一揆と遭遇することになりました!

 農民を限界まで生活苦に追いやり島原の乱の原因をつくった領主は、切腹ではなく、斬首(打首)にされ上、さらし首にされています。これを秩父事件と対比すると、江戸幕府の方がはるかに明治政府よりまともな判断をしていることになります。秩父事件では農民一揆の首謀者を死刑としたものの、農民の生活を極限まで追いやった政府(農務省、商工省)や自治体の長には何らおとがめがありませんでした。なお、江戸時代の領主で切腹ではなく斬首の刑を言い渡され刑死したのはこの領主だけだそうです。


◆島原の乱  典:Wikipdiea

 寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生しました(島原の乱)。

 信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じました。

 しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化しました。

 当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていました。しかし寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死し石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになりました。

 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせました。

 1月28日副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しかったのですが、信綱は兵糧攻めに持ち込みました。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させました。

 信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行ないさらし首としました。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名となりました。

 3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首して曝しました。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡しました。

 下は一揆軍が立て籠もった原城を信綱が率いる江戸幕府軍が包囲した図です。


原城包囲の図  出典:Wikipedia


◆天草四郎時貞

 一揆軍の総大将、天草 四郎は、江戸時代初期のキリシタンで島原の乱における一揆軍の最高指導者とされています。本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)です。

 洗礼名は当初は「ジェロニモ(Geronimo)」でしたが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱の当時は「フランシスコ(Francisco)」に変わっています。一般には天草四郎時貞という名で知られています。

 天草四郎は肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れ斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされています。

 1637年に勃発した島原の乱では、カリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となります。戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わりますが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちと推定されています。四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたと見られています。


上天草市天草四郎メモリアルホール内の天草四郎像
出典:Wikipedia

 下は、競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作)です。


競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作)  出典:Wikipedia


 以下は平林寺境内にあった「島原の乱の供養塔」です。


島原の乱 供養塔
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


島原の乱 供養塔の解説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


つづく