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最後に、「松平伊豆守信綱公墓誌」から松平信綱についてひととなり、業績、平林寺との関係などを<総括>してみましょう。 下は松平伊豆守信綱公墓誌です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 ◆松平伊豆守信綱公墓誌 平成5年6月 「智恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、同六年、久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」氏を相続していた松平正綱の養子となり、同九年七月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附の小姓となった。 元和六年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」を興した。同年五百石、同九年小姓組番頭となり、加増されて八百石を知行。 同年七月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位伊豆守に叙任した。 寛永元年(1624)信綱は二千石となり、同四年には一挙に八千石の加増をうけて一万石を領した。さらに同七年には五千石を加増されている。 この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年十一月に信綱は老中並となり、安倍忠秋・堀田正盛らとともに六人衆に任ぜられ。 幕政に参画する。ついで十年五月、信綱は一万五千石加増の上、武蔵忍城主となり三万石を領し、さらに十二年十一月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。 こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。 寛永十四年十月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。 その功によって同十六年川越城に転封され、三万石の加増をうけて六万石を領した。同二十年、侍従に進み、正保四年(1647)一万五千石を加増され、その所領は合せて七万五千石となった。 信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今の名相とも謳われる一方、郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、川越街道の整備なども行っている。 また、承応四年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った。 信綱は、この野火止台地開発とともに所領の野火止村に、菩提寺である岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文二年(1662)三月十六日に逝去した。享年六十七歳。法名は松囃子院殿乾徳全梁大居士。 初め、岩槻の平林寺に埋葬されたが、この輝綱が父信綱の遺命を守り、翌三年に平林寺の伽藍および墓石にいたるまで、現在地に移建したため、改葬されたものである。(新座市教育委員会・平林寺掲示より) 新座市教育委員会・平林寺 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 以下は、新編武蔵風土記稿による平林寺の縁起です。 ◆新編武蔵風土記稿による平林寺の縁起 出典:ねこのあしあと (野火止宿)平林寺 境内六萬坪余、金鳳山と号し臨済宗にて京師妙心寺の末山なり、寺領五十石を賜へり、境内のめぐり多磨川分水を引て限れりといへり。寺の後の方は喬木をひしけりて山野の如し、是を上山と唱ふ。当寺はもと埼玉郡平林寺村に在てことに古刹なりしが、寛文の頃此地へ移れり。 寺傳云永和元年春桂庵主此寺を岩槻に草造し、石室和尚をこふて開山とすと、按に高僧傳云、釋善玖、字石室、不詳姓氏、筑前人、文保犬午與古先元無涯浩等、同船入元一時禅匠無不薮其門、久参古茂和尚千金陵鳳臺遂稟許印嘉歴之初諧諸友東帰住義堂紹海相得友、従応安元年六月、遷建長住持、六年搆金龍庵於福山側解印而居、(中略)永和元年檀越建平林寺於武州巌槻、延玖為開山、始祖康應元年九月二十五日化于所住、春秋九十六云々、当寺始は堂舎も荘厳なりしが、後次第に衰へゆき、ことに関東の地年を経てをだやかならずしばしば戦争の場となりしかば、僧侶もこれが為に所を失ひ、住持すべきものあらざれば、或は断或は続て堂社子院もただ破滅の患をまぬかれしのみなり、天正の頃に至り泰翁善治といへる人住職たり、此禅師は北條の舊臣恒岡越後守が舎弟なり、兄の越後守は永禄九年の秋、上総国三船の臺の合戦に、太田源五郎氏資と共に討死せり、されば身は佛門に入ながら、戦国のならひにて武事に預り、兵卒を率ひたり。 その頃安首座と書したる北條家の文書あり、今も当寺に所蔵せるは此禅師へ賜りしなり、此に住せし年月は詳かならざれど、遷化ありしは天正十九年なり、後つくべき者なかりしかば、東照宮の命により、駿河国臨済寺の住僧鐵山和尚をまねき下し住職をつかしめ給ひ、御朱印をも賜ふべきよしなりしが、鐵山固く辞し奉れり、其心におもへりしは、もし寺料あまた賜はらば、僧徒衣食の便を得て、勧業もをこたりなば却て道も衰へゆかんと、其志はさることなれど、年歴て後寺領なくば衰廃せしことを、深くなげき思召、再び塔頭聯芳軒の住持謙叟和尚をめし、強て御朱印を賜ひしとなり、鐵山名鈍元和三年十月八日寂し、靈光佛眼禅師と諡せり、夫より世を経て寛文の初石院和尚住職たりしとき、松平伊豆守信綱此寺を今の地へ移すべきの企てありしかど、それも果さずして同き三年に至り、其子甲斐守輝綱、父の志を継てやがてここに移し来り、父信綱を初め悉く改葬せり、此より寺領をも改めて村内西堀村にて賜へりて。 寺寶古文書十六通(古文書詳細省略) 表門。境内の入口を距こと十八町、東に向ひてたてり、金鳳山の額をかく、石川丈山の書なり。 裏門。表門より右の方なり、北に向ふ。 稲荷社。裏門の西数十歩にあり、小祠南に向ふ、前に鳥居をたつ。 山門。表門より三十あまり奥にあり、東向なり、凌霄閣と書せし三大字の額をかかげ、是も石川丈山の筆なり。 佛殿。是も東に向ふ、山門の次にあり、七間に六間、堂内皆瓦せり、釈迦如来を安す、故に釈迦堂とも云、此堂に向ひ左に肉桂樹あり、黄檗山の種なりと云傳ふ。 本堂。佛殿の背後にあり、東向きにして前に門を設く、堂は十間に八間、ここにも平林禅寺としるせし額あり、丈山の筆なり、本尊釈迦如来を安す、相傳ふ昔甲斐守輝綱わかかりしころ、三河国吉田川にて水練のことを学びけるとき、はからずも此釈迦の首を水中に得たりしかば、全體を修造し当寺に納めしなど寺僧はいへり、本尊の左右に達磨及び大権の二像を置けり、堂の西南の隅にあたりて、松平氏代々の位牌堂あり。 十輪庵。中門を入り右にあり、当寺の隠居所なり、西に向ひ小門を構へ、内に四間半に二間の客殿及び庫裏あり。 天神社。十輪庵の南にあり、小祠、前に鳥居をたつ、側に梅樹などうゆ。 載渓堂。塔頭聯芳軒の西北二間に二間半、堂は東向なり、正徳年中深見玄岱建つ、入口に載渓堂の額あり、当寺の前住默雲の書なり、左右に聯あり、衣冠去国存君父、日月還天耀古今、源鐵助の書なり、立像一尺の観音を堂内中央に安す、獨立禅師平生信仰せし像なるよし、上に天竺及先生の四字を扁す、獨立禅師の書なり、左右に五夜耀燈三昧火、萬年藤几一夜香、と書したる聯あり、これも獨立禅師の書なり、側に玄岱の位牌あり、明獨立易禅覺位と彫る、観音の右にあり、後ろにこの禅師の像を置く、坐像二尺許、梅花園主の額を扁す、隠元禅師の書なり、又獨立禅師の誌銘を木牌に刻みて側にあり、其文左の如し。(木牌分省略) 學寮。佛殿の左邊にあり、北向なり、間口二十間奥行三亜大。 鐘楼。佛殿に向ひ右にあり、近水臺の三字を扁す。鐘の径り二尺九寸、高さ三尺五寸、今の鐘は寛延中鋳たり、其時の銘及び元和・天和等の銘を勒せり、其文左の如し。(鐘銘省略) 按に右に鋳せる元和九年の銘も、再鋳のものとみえて、下総国大寶寺村大寶寺、守護の八幡に掛し鐘銘に、大日本国武蔵国崎西縣渋江郷金重村、金鳳山□□□寺云々、嘉慶元年丁宇歳、開山石室叟善玖謹書、大檀那藤原中務丞政行、慶雲禅寺比丘至光、小谷野三郎左衛門尉季公、奉行青木左近将監朝貫、染谷山城守修理助義次、逆井尾張守沙弥常宗とあり、是正しく当寺の古鐘にして、戦争の比彼社へ移せしなるべし、是にても当寺創立の始は、殊に堂舎以下荘厳なりしなといへる、寺傳の嘘ならざる事證すべし。 浴室。三間に二間許、鐘楼の傍にあり、開浴の字を扁す、丈山の書なりといふ。 延命庵。地蔵を安す、故にこの名ああり。 座禅堂。本堂の北にあたれる山の中腹にあり、九尺二間、前に古日一基を建つ、碑面に弘安四年辛巳一月とあり。 開山石室和尚墓。座禅堂の側にあり、事跡本朝高僧傳に詳なり、其大略既に前に載す。 養心庵。座禅堂の側山下の地にあり、廻廊を設て立つづけたり、当寺の隠居所なりと云。 経蔵。本堂の南にあり、二間四面。 弁天社。境内北の方にあり、九尺四方の祠、前に池あり、昔は廣き池と見ゆ、今は少しく埋りたる所あれども頗廣く、祠前に小橋を架す、橋のこなたに鳥居を立り。 野火留塚。境内後の山中にあり、なを古跡の條に出せり。 在原塚。此塚の由来は定かならねど、野火止塚の側にあれば、其ちなみにかかるものも出来しにや。 増田右衛門尉長盛墓。境内下卵塔と称する所にあり、面に元和元年卯月五月二十七日とえれり、墓石はいかにも新しく見ゆれば、後世より建しものなるべし、後の杉樹一株あり、当寺をこの地へ移されし時、岩槻より持来りしよし、墓木なる故右衛門杉と唱ふ、長盛は増田仁右衛門と云、其祖先を詳にせず、太閤秀吉に仕へ功労多し、其人となりも又よのつねならざりしゆへ、秀吉これを深く重し、しばしば秩禄を加へり、天正十二年織田信雄と尾州小牧原合戦の時、戦功衆にすぐれたれば、二萬石を加賜せらる、右衛門尉に任せり、同き十三年五奉行を置れしにも、長盛其一なりき、かくて文禄四年大和郡山に移封し、二十萬石を賜ひ、従四位下に叙せらる、是より始め朝鮮の役起りし時、浅野弾正少弼長政と隙を生じ、やがて石田治部少輔成にくみし、慶長五年関ヶ原の軍敗れしを聞き、いそぎ東照宮の御跡をしたひて京師に入、毛利輝元とともに罪を謝し奉れりと、或は己が所領郡山にこもり、福島左衛門大夫正則・井伊兵部太輔直政につきて、身の遇を謝せしが、御ゆるしなくて、其まま高力土佐守召預けられしと云、此時東照宮の御いかりななめならざりしかど、長盛内々は三成に與しながら、いまだ鉾を交へざるを思召し、別に宥怨を加へたまひ、紀伊国高野山に入り、僧となるべきよしを命じたまふ、故に九月二十五日長盛高野山に入りて、剃髪染衣の身となりて、後終りを知らずと云、一説曰、其子兵大夫盛直、(一に長直)関ヶ原の役には、東照宮の麾下にありしゆへ、父に連座せず、其後心かはりして是も大阪に通じ、元和元年五月七日の合戦に討死せり、長盛その頃武蔵国岩槻に蟄居してありしが、盛直の死せしをきき、やがて自殺せり、歳七十七、増田の氏是より長く絶えたりと云、按に始め高野山に入しといへば、いつの頃岩槻へ来りしや年代詳ならず、元和元年五月二十七日、長盛配所に於て死を賜ふなどしるしたるものあり、死後この寺に葬りしならん、是寺の是跡も其家譜を見ざれば正しきことは考ふべきによしなし。 多磨川分水。境内を流る、其流左右に支れて数條あり。 塔頭。 聯芳軒。載渓堂の脇にあり、この院は当寺岩槻にありし時よりありて、謙叟享和尚の御朱印を賜はりしことは、前に見へたり。 睡足軒。裏門の内にあり、西に向ふ、当寺のこの地へ引けんとき、石院和尚の隠居所として造立せしが、今は塔中となれり。 見桃庵。睡足軒の向にあり、是も当寺を引し時の作事小屋なりしが、是も今は塔中となり。 旧蹟野火止塚 今平林寺境内あり、径十間、高さ五間余なり、此塚を野火留といへるは、伊勢物語に云、昔男ありけり、人のむすめをぬすみて武蔵野へいてゆく程に、ぬすびとなりければ国の守にからめられにけり、女をば草村の中にかくし置て逃にけり、みちくる人此野をぬすひとあなめりとて、火つけんとす、女佗て武蔵野はけふはなきぞ若草の、夫もこもれり、吾もこもれり、とよみけるを聞き、女をばとりてともにゐでに行にけりと、是はこのあたりなるよしいへり、此説のごとき全く此物語により、後の世よりいひも傳へ物にも記したれど、もとよりあとなき事なり。されど其説の起りしも、又近き世のこととはおもはれず、回国雑記に云このあたりに野火止の塚といへる侍り、けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽ちにやけとまりけるとなん、それよりこの塚を野火止と名け侍るよし、国の人申侍りければ、若草の妻もこもらす、冬さればやがてもかるる野火止の塚と云々、此後の事は古き書にも見あたらざれど、正保の頃の国図にも、原野の内に此塚突出して、立るさまを載たり、是は当寺此所に移らざる前なり、又此塚を土人九十九塚ともいへり、業平の百とせに、一とせたらぬつわも髪われやこふらん面影に見ゆ、とて、歌より起りたるなどいへば、弥付会の著しき瓣ずるにたらず、又当寺この地へ移りし時、固よりこの所は山野なれば、すくもなど掃き集め、かき上たる故、塚も一段高くなりけることなれば、すぐも塚なるを誤り唱へて、つくも塚といへりと、是は又当寺開けしより後のことといへば、尤近き世のことなれど、野火留塚の名はもとよりありて、後すくもなど積あげしかば、別にすくも塚と唱へしといへば、さもありしにや。(新編武蔵風土記稿より)
下は参拝、視察を終え総門に向かっている途中の写真です。建物は、聯芳軒です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-12-15 下は2015年5月1日、平林寺を出て駐車場近くに咲いていた牡丹です。あまりに美しいので撮影しました! 庭園の牡丹(ぼたん) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-1 本特集終了 |